導火

白河夜船

導火

 一緒に死んでくれよ。


 深夜零時。

 大学のレポートを書いているとスマートフォンが不意に鳴り、画面に表示された文字列が『兄貴』だったので電話を取ったら、開口一番がこれである。

「どうしたんだよ」

 問い掛けても返事はなく、あるかないかの環境音がスピーカーから零れるばかり。時々混ざり込む微かな息遣いが、電話口にまだ兄がいるらしいことを告げていた。

「なあ」

「殺した」

 やっと返ってきた答えは、短かった。聞き慣れた淡泊な響きから、兄がいつものように、あるいはいつも以上に、疲れた、空虚な表情をしているだろうことが窺えた。

「そうか」

 頷いて、「どこにいるんだ」と聞いてみる。家。兄は言って押し黙った。これ以上の問答は不要だと思ったのかもしれない。実際俺は全てを察して、適当に身形を整え、アパートを出た。

 マフラーに顔を埋め、しんしんと冷え込む街を足早に行く。歩きながら、そういえば移動手段がないなと気がついた。公共交通機関はとっくに営業を終えているだろう。かと言ってタクシーを使うには、目的地までの距離が遠すぎる。

 駅近くの漫画喫茶で時間を潰し、始発電車に乗り込む。途中で新幹線に乗り換えて、それから―――

 間に合うだろうか?

 少しだけ心配になった。家に帰ったらもう、兄は死んでいるかもしれない。






 帰宅は結局昼を過ぎてしまった。

 玄関前に佇んで、「着いた」と兄のスマホにメッセージを送る。先に送ったいくつかのメッセージと同様に、やはり既読はつかなかった。もとから返信が異様に遅い奴なので、無事なのか否か判断できない。

 合鍵を出しかけ、思い直してポケットにしまった。インターホンを押し、反応を待つ。万一の場合、心構えくらいはしておきたい。


 十秒、二十秒、三十秒………


 たっぷり間を開けて、くすんだ木目調のドアがかちゃりと開いた。使い古しのシャツにスウェットパンツ、クロックス――いかにも部屋着という恰好をした痩身の若い男が顔を出す。

「なんだ、来たのか」

 先ほどまで寝ていたような気怠そうな目を瞬いて、兄は小さく苦笑した。

「呼ばれたんだから、そりゃ来るよ」

「律儀だな」

 欠伸をし、「入れよ」と兄は視線だけで俺に促した。靴を脱いで、家に上がる。久しぶりに足を踏み入れた実家は、相変わらず埃と薬品と薄いアンモニアの匂いに充ちていて、今日はその中にぼんやりと鉄臭さが溶け込んでいた。






 兄の支度を待つ間、俺はリビングでテレビを見ていた。国営放送の朴訥としたニュース番組が、某県で起こった殺人事件を報道している。

 ……母親……介護……無理心中……―――

 チャンネルを変える。つまらない芸能ゴシップを取り扱ったワイドショー。まあ、これならいいだろう。よく知らない俳優の興味もない不祥事に関する解説を上の空で聞き流す。

 エアコンもストーブも点けられていない室内は寒かった。ソファーに転がっていた電気毛布で辛うじて暖を取っている。俺が触れた時にはもう柔らかい布の内側がほんのり温かかったので、さっきまでここで兄が使っていたのかもしれない。

 すっと鼻から空気を吸い込んでみた。やっぱりそうだ。あそこなのだ。

 廊下に漂っていた鉄錆の匂いは、リビングに入った瞬間強まった。リビングは二つの部屋と隣接している。磨り硝子が嵌まった引き戸の向こうは台所。木製の引き戸の向こうは―――だから、暖房を入れていないのだろう。

 ちゃら、と耳許で金属音が鳴った。

「お前、免許持ってたよな」

 振り向くと、兄が車のキーを片手に俺の後ろに立っていた。運転しろ、と言いたいらしい。

「ペーパーなんだけど」

「俺が運転するよりマシだろ。たぶん」

「それは」

 俺は思わず口籠もった。兄の顔色は死人めいて蒼白く、疲労が身体の端々に仄暗い陰翳となって滲んでいる。確かに、この状態で運転などしたら事故りそうだ。

「でも、どこに行くんだ?」

「人がいないとこなら、どこでも」

 平坦な声で呟いて、兄はキーを投げて寄越した。

「行こう。俺、ここ嫌いなんだよ」






*****



 運命の分岐点などという大層なものではないけれど、何かに迷っているような時ほど、ふと耳目に触れた一言が無闇に大きな意味を持つ。


 高二の夏の三者面談。


直博なおひろ君の成績なら、■■大学も狙えますよ」


 先生の半ば事務的に発せられた一言が、俺達にとってのそれだった。


 その頃にはもう家の中がぐちゃぐちゃで、兄は進学を諦めて高校卒業と同時に就職していて、三者面談にすら親は来れない有様で、当時十代だった兄が代理として俺の隣に座って先生の話を聞いていた。そんな状況で大学、しかも遠方の■■大学を受験するなんて無茶だろうと俺は思った。

 しかし一方で少しだけ、胸が高鳴ってしまったのを覚えている。自分ではどうしても言い出せなかった類の進路を先生が口にしてくれたから。

 ■■大学は有名な国公立大学だ。決して軽くはない家計的デメリットを呑み込んででも、多くの人々が進学を選ぶだけの魅力がある。そういう大学なら、もしかしたら―――

 そっと兄の反応を窺えば、兄の方でも何かしら思うところがあるらしく、難しい顔でしばし俯いていた。


「進路、好きに決めろよ。家のことは俺が何とかするから」


 後日。明日の夕飯の話でもするように、兄は全く不意にそう言った。件の先生の言葉が、少なからず頭に引っ掛かっていたのだろう。

「いいのか」

「いいよ。けど、ここを出るつもりなら、仕送りはあんま当てにするなよ」

 あの三者面談まで、進路について俺は家族に(兄にすら)ほとんで相談できていなかった。後ろめたかったのだと思う。進学したい。その一言に内包される意思が、願望が、ひどく後ろめたかった。

 大学生活に対する憧れも多分にあったが、本音を言うと俺は実家から逃げたかったのだ。逃げて、逃げて、逃げ切りたかった。

 そのためには、実家ともう深く関わらないで済むだけの確かな生活基盤が必要で、遠方の国立大へ進学するというのはつまり、泥沼めいた牢獄――『家』から逃げるに当たっての決定的な第一歩に他ならなかった。それを自覚するゆえに「裏切りだ」とぼんやり感じていたのである。

 行きたい大学に行く。それは家に対する裏切りであり、あのクソみたいな家に取り縋られて動けない兄に対する裏切りだった。

 だから、進路を好きに決めていい、そう兄が言ってくれた時、俺は許されたような心地になったのだ。押し殺していた本音を、兄に肯定して貰えたような気がして。


 運命の分岐点などという大層なものではないけれど、何かに迷っているような時ほど、ふと耳目に触れた一言が無闇に大きな意味を持つ。


 俺は兄から与えられた一言を免罪符と信じて家を出た。それきり三年、一度も家に帰らなかった。いや、違う。帰れなかった。しばらく一人で暮らしてみると、否が応でも意識されたのである。自分が彼処にいた間、どれだけ抑圧され、磨り減っていたか―――

 それに気づいてしまったら、家へ戻るのが怖くなった。厭になった。怯んでしまった。だというのに、兄はまだあの家にいる。生温い、息苦しい、地獄のようなあの家に。安全圏に立ち竦んだまま時間が過ぎて、罪悪感がひたひた募る。


 深夜零時。


 電話が鳴った。



*****






 運転は随分久しぶりだったのだけど、何時間も走っている内に多少は慣れた。死出の旅という点に目を瞑れば、予定に縛られない、実に気楽なドライブである。兄の車を繰って、暮れ時の海岸道路をひた走る。交通量が少なくて幅の広い、単純な道は、難しいことを考えず軽快にハンドルを切れるので面白かった。

 助手席の兄は眠っている。

 家を出た時からこうである。背もたれを倒し、瞼を閉じて、身動ぎもしない。時々起きて、やけに澄んだ眼差しで窓外の景色をぼんやりと見詰めていた。相変わらず、顔色は悪いままだ。体調が優れないのかもしれない。

「高速、走っていい?」

「いいよ」

 たまにどうでもいいようなことをわざと話し掛けてみる。反応がある時もあれば、ない時もあった。互いに大事な話は避けている。今更話しても仕様がないと分かっているから。


 兄は結局、一度も恨み言を言わなかった。


 だから、あんなことになったんだ。もっと早く、怒るなり泣くなりしてりゃ良かったんだよ。そしたら、そしたら俺だって、

 頭の中をぐるぐる巡る遣る瀬なさが、窓硝子の向こう側、山と海ばかりが長閑に続く、冬のくすんだ風景に溶けて流れていった。水平線に太陽が沈もうとしている。空と海の境目に一条引かれた朱のかがやきが次第薄まり、星月が白く明るんだ。じき、冷たい夜がやって来る。






 ……………


 辺り一帯、ひたすら暗い。


 ヘッドライトに照らされた樹間の細道を慎重に辿る。夜も更けた頃から、思い付くまま寂しい方へ寂しい方へと進んできたので、最早自分達がどこにいるかすら正確には分からなかった。カーナビには目的地を設定していない。ナイトモードのほぼ真っ黒な地図上を、この車を示す赤い矢印がゆっくり滑り、彷徨っている。

 隧道と言う方が似合いそうな小さい、古びたトンネルがあった。車一台なら、何とか通れそうな幅である。潜り抜け、やや走ったところで俺はつい眉根を寄せた。倒木で道が塞がっている。そういえば、ここに来るまでの道は少々荒れていた。滅多に使われない道路なのかもしれない。

 すれ違い用の待避所が後方にある。どうにかバックして、引き返そうか。そう思った時、

「ここでいいよ」

 兄がぽつりと呟いた。

 ここでいい。

 ここで、

「…ああ」

 努めて冷静に頷いたものの、心臓が一瞬厭な跳ね方をした。ここでいい。そうか。ここで。いよいよ―――

 ギアをパーキングに切り替えて、サイドブレーキを踏む。エンジンを切り、車内灯を点けた。停車位置はここでよかったか……ここで死んで、誰かに迷惑が掛からないか……考えかけて、俺は慌てて頭を振った。考えてはいけない。まともなことを考えてしまうと、この先はきっと動けなくなる。兄をちらと窺った。憂鬱と倦怠がこびりついた能面のような顔の中、瞳ばかりがぞっとするほど澄明な光を帯びている。


 兄は止まれないだろう。

 俺が竦んだら、兄を一人で逝かせることになる。


 コンソールボックスに突っ込んでいたビニール袋から、俺はぬるんだ缶を取り出した。途中、コンビニで買っておいたチューハイだ。プルタブを開け、ぐっと煽る。普段滅多に酒など飲まないせいか、アルコールが喉に熱かった。これでしばらくは運転できない。

 飲みさしの缶を兄に差し出してみる。兄は苦笑して舐めるように一口飲んだだけだった。全く飲めない奴ではなかったはずだ。具合が悪いためか、死ぬ時の状態に何かしらこだわりがあるためか――いずれにせよ素面で死ぬつもりらしいのが、俺には少し空恐ろしかった。






 助手席のシートを倒し、兄が俺の背後――後部座席の足許に手を伸ばす。リュックサックの中身を探り、兄が取り出したのはタオルであった。正確には、白いタオルに包まれた何か。

「これで殺したんだ」

 淡々と言って、兄はそれの包みを外した。飴色の車内灯を反射して、ステンレス製の刃が光る。包丁だった。どこの家の台所にもありそうな、普通の包丁。目立った刃毀れも歪みも汚れも見当たらず、兄の一言さえなかったら、これが凶器として使われたなど思いも寄らなかったに違いない。

「だから、これで死ぬべきだと思う」

 その包丁を右手に持って凪いだ瞳で見詰めつつ、兄は半ば独り言つようにそう言った。沈黙が車内に降りて、自分の心臓と血流の音だけがやたら鮮やかに耳朶を打つ。何と答えるべきか分からなかった。

「俺は」

 ようやっと口を開きかけ、押し黙る。


 俺はどうやって死ねばいい?


 たぶん、そう言おうとしたのだ。言おうとして、言葉の重みに、凄みに、生々しさに、舌が怯んで動かなくなった。唾を飲み込む。いつの間にか、口中がからからに渇いていた。

「俺は」

 もう一度口を開こうとして、やっぱりうまく声が出なくて、唇が勝手に戦慄いた。アルコールはもう回っているが、感情を麻痺させる酩酊感より死に対する本能的恐怖の方が遙かに強い。兄が口籠もる俺を怪訝そうに見て、ぽかんと呆けた顔をした。何か察したらしく笑って俯き、明日の夕飯の話でもするように


「直博、お前―――


 運命の分岐点などという大層なものではないけれど、何かに迷っているような時ほど、ふと耳目に触れた一言が無闇に大きな意味を持つ。


 だから、聞いては駄目なのだ。


 咄嗟に、自分でも意外なほど敏捷に、身体が動いた。兄の手から包丁を引ったくり、助手席へ移る。不意を突かれたのだろう、兄はさっき倒した背もたれの上にあっさりと組み伏せられた。頭を押さえつけ、晒された生白い首筋に包丁を宛がう。掌に触れた肌は案の定熱かった。鈍色の刃が皮膚を裂く。兄は目を瞠って俺を見詰めたものの抗わず、悲鳴も碌に上げなかった。

 乾いた唇の間から震える吐息が頻りに零れ、身体が苦痛のためであろう、痙攣する。俺はうまく力の入らない手で、一所懸命、刃を兄の首へと沈めた。

 よくよく考えれば、引けば良かったのである。包丁で肉を切る時は、そうした方がすっぱり切れる。だけどその時はあまりに必死で、そんなことには全く気づかず、ただただ刃を兄の首に押し付けて、押し込んでいた。手際が悪かったわけだから、相応に痛かったろう。ある程度深く刺さったところで包丁を抜くと、兄はほぅっと安堵したような息を洩らした。傷口から血が溢れ出し、兄の肌を服を車を俺を赤く染める。酔いそうなほど濃密な鉄の匂い。兄の顔に微笑が浮かんだ。

「――」

 唇が微かに動き、俺の名を呼ぶ。

 だんだんに温度を失い、虚脱する手を、兄の呼吸が止まるまで俺は固く握っていた。







 生理的な涙や汗、涎や血で汚れた兄の顔を、タオルとウェットティッシュで拭いて最低限整えた。血をすっかり失ったせいか、唇まで白っぽい。本当は死に化粧などした方が見映えが良いのだろうけど、あいにく化粧道具も化粧を施す技術も俺にはなかった。せめて瞼を下ろし、胸の前で手を組ませる。血に浸って、しっちゃかめっちゃかではあるものの、何とか弔われた死体らしい姿になった。

「兄貴」

 呟いたが当然、返事はない。俺は血と脂を軽く拭った包丁を手に取って、じっと眺めた。二人の人間を殺めた凶器。兄の命を奪った凶器。ステンレスの鈍い輝きを見詰めていると、『俺が兄を殺した』その一事がじわりと心に染み込んだ。


 悲しみがあり、恐怖があり、罪悪感があり、ほんの僅か喜びあった。


 人殺し。兄と同じ罪を共有した今、なぜ兄がこれで死のうとしたか漠然と分かる。運転席へ身を沈め、冷たい車内に俺は白い息を吐き出した。首に包丁を宛がってみる。これを、

「っ、」

 刃が肉を薄く切った瞬間痛みが走り、反射的に身体が強張った。兄を殺した後、心身を支配していた高揚が、酩酊が、陶酔が、ともすれば揺らぎそうになる。心音が煩い。考えるな。感じるな。何も思うな。正気に返ったら、きっと死ねない―――

 夢現の間で、俺は必死に精神を研ぎ澄ませた。現実の影から逃れて、茫漠とした幻影を追う。兄がいるのはそちらなのだ。息が乱れ、冷や汗が滲んで、頭痛がし、けれども未だ刃を引けない。兄を殺した。もう引き返せない場所まで来たというのに。

 極度の緊張と疲れゆえか、意識が遠退きかけた時、電話が鳴った。



 深夜零時。


 安アパートの一室で、俺は大学のレポートを書いている。耳に押し当てたスマートフォンから、懐かしい淡泊な声が聞こえた。



 一緒に死んでくれよ。



 気づけば、包丁で首を裂いていた。血が噴き出す。痛みはなく、ただ傷口がじくじく熱かった。さっきのは張り詰めた意識が見せた幻、あるいは走馬灯だったのか。血が流れるほど呼吸が荒く、不確かになり、身体が芯から急速に冷える―――

 兄貴。

 声にならない声で呟いて、俺は重たい身体を引き摺った。隣に横たわる兄の手を握る。死へ至る不安が少し和らいだ。今度は、ちゃんと


















 歩いていると、兄の背中を見つけた。

 走り寄る。声を掛けたら、きっといつかのように気怠げな目を瞬いて、

「なんだ、来たのか」

 そう、小さく苦笑するのであろう。



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