Luna\ Disappearing

 真っ黒い湖にぼんやりと映る星月夜。その中のひときわ強く輝く2つの相対する月は,憔悴した絵描きの手に収まりそうで,どちらも届かなかった。早くしなければ消えてしまう。絵描きは月へ向かって歩いて行き,その後は知れない。その場には,1枚のポートレートが空に張り付くように残されていた。




 L が仮眠から目を覚ますと,研究員 X によって緊急事態にあることが告げられた。L は東都の下町を思わせる机の上に置かれたふよふよと動くボトルシップに目線をおとしつつ,彼の報告に耳を傾ける。失踪した。二人。転移。阿。

 "Ransfert"の稼働データは R の転移を記録していた。R は研究に没頭する所員の目を盗んで,転移装置で R' の留置されているに移動した。そして R' を伴って消えた。この行動は L にとって予想外ではなかった。しかしいま,彼女は激しく動揺していた。


 彼女たちの目線は,互いに交わり貫いていたようで,その実虚像を見ているに過ぎなかった。湖に入射した光は,乱反射し,屈折し,プランクトンを育てて曇らせる。現象は彼女たちの制御を離れたところで起こり,歪みを生じさせているのだ。


 「被験者は Ransfert を使用してここからさらに移動を...どうやら主任が共同研究のために高等教育機関に設置した試用機に転移したようです。人体による検証を経ていませんから,安全性は担保されていません。機関の者に連絡しましょう」


 L は,その必要はないと告げ,半開きの扉から真っ白な部屋に入る。そこには,銀色のタマゴのようなカプセルだけが置かれている。


 「いけません!何が起こるかわからないんですよ!」


 機関への連絡は情報開示を伴う。しかしそれを抜きにしても,彼女は一人で行く必要があった。2人の R と向き合わねばならなかったのだ。転移の実行と転移ハブの停止コマンドを入力したうえで転移用のガウンに着替え,カプセルに乗り込む。内側は空の卒業証書入れのようにてらてらと光っている。

 転移の瞬間,身体的・精神的存在は一瞬すべてが光子化して消える。そして転移先で身体が再構成されると,連続した記憶が引き継がれる。転移した者には,自分の身体に川が流れるような感覚が残るという。

 L は転移した。






 宛先  nnR.2y;zr.db6mz3-.

 BCC  *******************

 差出人 nnL.db6cdwqd76ms/.0qd

 添付  実験_詳細.plt

件名   実験協力依頼

北都第一管区A県 経済研究所 R 様

高等教育機関数理学室 L

願参照詳細plt


 R の卒業から3年後,私は転移装置,現在の"Ransfert",の開発に着手する。その間,彼女とは一度も会わなかった。自分のことを忘れさせようとでもしたのか。10年も忘れずにいたのだから,まったく無駄な努力だ。

 私が求めていたのは,普通の友人だった。気の置けない間柄の存在が欲しいだけだった。生まれてこのかた,私が,あるいはルイーズが心を許せる者は一人を除いて他にいなかったから。しかし彼女は私を避けるようになった。彼女の卒業が決まったころ,そして同時に私が情報数理の勉強を始めたころだった。

 彼女はきっと,私に対して責任のようなものを感じていたのだろう。私の彼女に対する執着を感じ取り,距離を置こうとした結果が,私と彼女を疎遠な友達にすることだった。それは私にとって,最悪の帰結である。だから私は,2つの計画を立てた。まず,心理学者である彼女を私の実験に巻き込む。ここで関係性を取り戻せたならば,それでよかった。しかし第一の計画が失敗に終わった場合,すなわち彼女があくまでも私を避けようとした場合,彼女の人体デジタルツインを作成する。人体デジタルツインは,生成人工知能とは違う,文字通り「魂」を生み出すことのできる技術である。コンピュータ上では彼女の思考,体内環境などの内部要因はもちろん体外で起こる現象すべてに起因する外部要因も考慮された思考パターン,がシミュレートされる。計画を成し遂げたとき,私は感動した。目の前にいたのは,あの一番楽しかった高等教育機関時代の R だった。他愛もない話をして,喧嘩をして仲直りをして最後には「Lったら」と受け止める。ホログラムであること以外,R と何ら変わりはなかった。

 だけど私は,止まらなかった。2つの計画の後ろに隠した,もう一人の R,すなわち R' を生み出すことである。許されることではないし,そんなことを私は求めていなかった,だが,かつて私を突き動かしていた少女が私の背中を押した。


 私はあなたといたいの。

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