現象のバイ・パス / Bye-Passing Phenomena

山形在住郎有朋

point of no RetuЯn

 31日,神無月,私は生まれていた。

 私には生まれながら,呼ばれ慣れた名前と,蓄積してきた人生があった。そしてそれは紛れもなく自分の経験であるという絶対的な確信がある。だが,数分前の過去が,被験者として友人の研究に貢献する高揚感に包まれていた一時点が,途方もなく遠くてどうすることもできないものに感じられることは,この私に幽かな不安を与えている。


 「被験者アール・プライムの脳波に異常はありません。被験者 R の様子は」


 正面の白衣に身を包んでいる女は,研究者 L だったと「記憶」している。彼女は私に対してこの実験の被験者となることを求めた知己の数理学者で,民間の科学系シンクタンクで首席研究員として情報科学の最新分野,人体デジタルツイン*を研究していた。かつて同じ高等教育機関の同僚関係にあった私は,時折こうして彼女の研究に被験者やリサーチアシスタントとして協力することにしている。


 「報告ありがとう。じゃあ,スピーカーにしてください。――もしもし,ああ,聞こえる?実験は成功したよ。全部 R のおかげ」


 私は半開きのカプセルの中から,彼女が話すのを聴いている。彼女は高揚している。彼女とは時折通話をしたものだが,彼女の声のトーンは研究の進捗と比例関係にあったから,声を聴いただけでその日私との間でなされるだろう会話の内容を予想できた。しかし今日ばかりは分からない。いや,私はわかりたくないだけである。彼女の眼は私に向けられているが,今ここにいる私を見つめているわけではないことの理由を,知りたくないのである。


 「――じゃあ,またあとでね。A君,あとは手筈通りによろしくお願いします。それから――」


 私はぼんやりとした薄青色の部屋の中,またその中のカプセルから,私に視線を向ける L に,そしてほかの研究者たちに目をやる。彼/女**らは一様に驚き歓喜して互いに言葉を交わしている。彼/女らの大半はは物理学者で,粒子,運動などを専門に研究していたが,中には経済,法,倫理などが専門分野の者もいたと思う。L の研究室は人体デジタルツインと呼ばれる高度な人体のデジタルコピーを生成し,人体転移装置に応用して転移プロセスをより安全かつ効率的にするという,一つの目標を共有する優秀な研究者たちの梁山泊だった。私はそんな彼女の研究にほんの僅かでも関わることができるだけで,友として,一人のフィロソフィアとしてうれしかった。


 「では,明日以降の研究計画について再確認しておきます。まず B さんは――」


 しかしそれはもはや過去の話,私にはどうすることもできない数分前の誕生の瞬間以前の話である。カプセルの中から,この薄青色の部屋にある大きなガラス窓の奥を覗けば,光の反射の具合でやや赤みがかって見える白衣に包まれた研究者たちと,いくつかの巨大なコンピュータ,L の私物でいっぱいの雑然としたデスクが目に映る。どれも過去の私が L やほかの研究者たちから一つ一つ説明を受けたものだ。


(「これは主任,ええと,L の机です,ほんと,汚いですね。私たちはいつも机の上はきれいにしろ,さもないと学問の神様に見放されるぞって説得するんですが――。昔からこうなんですか,L は」

 「はい,そうですね,ふふ,あの子は学生のころから目の前のことしか考えられないタイプで,あ,そうだ,L ったら学位論文を書くのが楽しみすぎてソフォモアの前期から書き始めて,熱中しすぎて単位を――」

 「ちょっと!何勝手に話してるの!それは言っちゃいけない約束でしょう!」)


 彼女にとって私が友人であるという事実は変わらないし,逆もまたしかりだ。でもそれは過去の私であって,今ここで彼女と目を合わせている「私」ではない。彼/女らにとっての「私」は「被験者 R =私」のデジタルコピーをもとに,外部から用意された物質とエナジーによって再構成された「 R’(アール・プライム)」でしかない。それは L やほかの研究者が教えてくれたことではなく,独り,カプセルの中に生成され,ハッチが開くまでの数分間に...いや,これも違う。私はわかっていた。彼女が何をしようとしているのかが,長年の経験,勘と因果推論の間に位置する思考形態,によってわかっていたはずだ。でもそれを「私」は認めなかった。果たしていま R は,「私」から分離した私の片割れは何を思っているのだろう。


 「主任,データがアップロードされました。すぐにスクリプトを実行しますか?」

 「いえ,被験者たちからのヒアリングを先に実行しましょう。R が少し疲れている様子だから。C 君にカウンセラーとして同席してもらいます。D さんは被験者R’へのヒアリングをお願いします」 

 

 おもむろに立ち上がった一人の老研究者 D がこちらに向かってくる。これからドアを開けて彼は私を「 R 」と呼び,私の健康状態を,そして心理を,意識の有無を,自我の所在を,問うのだろう。そんなもの,わかるはずもないのに。


 「初めまして,わたくしカウンセラーの D と申します。それでは R さん――」


 私の友は,もう窓ガラスの向こうにも見えなくなっていた。






注釈

※コメ印はコメントのしるしです。文中に無い追記を行います。アステリスクは文中にあるので探してみましょう。

※投稿時刻18:38は山縣有朋の誕生年です。推しは山本権兵衛ですけど。


*「人体デジタルツイン」はのちの話で説明されますが,人体をデジタルスキャンした結果作られた人体のマップのようなものとしてこの物語で定義されています。現実の「デジタルツイン」とは異なるものであることに留意してください。

**「彼/女」は彼と彼女の略記です。They を「彼ら」と訳すのが好みではないのでこのような略記法をとっています。s/he と同じです。フェミニストではありませんが,そういうのは気にするタイプ。

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