三、義龍の殺意、蝮の遺言状

 信長が京へ行って間もなく、帰蝶はある場所にいた。

 自身が生まれ育った、美濃・稲葉山城である。

 帰蝶は尾張に嫁いでから、この城を訪れるとは思っていなかった。確かに一二度は、美濃に戻されるのではないかとは思った。

 武将の家に女として生まれれば、同盟の駒とされるのは世の習い。

 もし父・道三と織田家の間で関係がこじれれば、帰蝶はもはや織田家にとっては用済みの人間だ。そうならなかったのは、道三が信長のことを理解したからなのだろう。

 

 帰蝶は稲葉山城・広間にて、無人の上段の間を見据えた。

 今や敵対関係となった美濃・斎藤家と尾張・織田家。

 帰蝶が稲葉山城へいくことを、清州城に残る織田家家臣たちは反対した。

 殺されるかも知れないというのだ。

 または人質とされ、信長を誘き出すかも知れないと。

 確かに現在の兄・義龍なら、やりかねないだろう。

 しかも帰蝶は稲葉山城に行くことを、信長にも告げていない。

 だが帰蝶は限りなく低い可能性でも、義龍の中にある兄としての想いに賭けてみようと思った。

 

 おそらくこの広間の近くには、帰蝶を守るために楓が潜んでいるはずである。

 彼女の腕は瞬時にして大の男を数人仕留めてしまうもので、稲葉山城の人間はそれを知っている。迂闊うかつに帰蝶には、手出だしは出来ないだろう。

 まもなく足元を派手に響かせて、こちらにやって来る人間がいた。

 

「帰蝶!」

 現れたのは、帰蝶の異母兄・斎藤義龍である。

「ご無沙汰しております。異母兄上あにうえ

「よく戻った! そなたのことは心配していのだ」

 義龍の顔は機嫌良さそうだったが、帰蝶の次の言葉によってその表情が冷める。

「異母兄上、私は戻ったのではございませぬ」

「なに……?」

 胡乱うろんに眉を寄せる兄に、帰蝶は目をそらすことなく告げる。

「異母兄上が我が殿を狙っていることはもうわかっておりまする」

「ふ、我が殿、か……。すっかり織田の人間よのう? 帰蝶。まさかこの俺に、信長を倒すのは諦めろと言いに来たと? この義龍を甘くみるなよ? 帰蝶」

 

 睥睨へいげいする義龍に、帰蝶も見つめ返す。

 やはり義龍の信長への憎悪は、本物のようだ。

 しかし帰蝶には、なにゆえ義龍がこれほどまでに信長を憎むのかわからない。

 彼の目的は、この美濃を父・道三から手に入れるためだけではなかったのか。

 

「ならば、私も殺しますか? 異母兄上」

「そなたを害せば、信長は美濃に攻めて来るであろうの。あの男に、人を想う感情があればだが」

 クックっとわらう義龍に、帰蝶は唇を噛んだ。

「異母兄上は、殿のことがわかっておられませぬ」

 帰蝶は尾張に嫁ぐ前、夫となる信長は噂通りの男だと思っていた。

 しかし当の本人は、うつけなどではなかった。

 破天荒ではあるが感情豊かで、帰蝶を愛してくれた。

 しかし帰蝶のこの言葉が、義龍をさらに煽ってしまったようだ。

 

「なにを分かれというのだ? 俺は父上とは違う! 帰蝶、そなたのいうとおり、俺は信長の首を狙っている。奴に……この美濃は渡さぬ……! 今頃、京の土になっていよう」

「殿は、必ず生きて帰って参ります……!」

「もういい! 今日の所は我が異母妹と思い帰す。だが――、これからはそなたも織田の人間とみなす」

帰蝶はもう妹として、義龍に会うことはないだろうと思った。

 

 ――そう、私は織田信長の妻。

 

 嫁ぐ時に何度か振り返った稲葉山城を、帰蝶はもう振り返ることはなかった。


                  ◆◆◆


 室町幕府十三代将軍・足利義輝の求めに応じ、上洛した信長とその一行だったが、彼らを待っていたのは斎藤義龍の罠のようだ。

 信長は前もって正室・帰蝶から兄・義龍がなにか企んでいるらしいと聞かされていたため、驚いたというよりも呆れていた。

 こうなると将軍からの上洛せよという話も疑わしいが、信長は迎えに来たという男の後ろについて歩きながらふっと嘲笑った。

何しろその迎えに来たというその男は、長良川にて斎藤義龍率いる斎藤軍と対峙した際、川を渡ってきた数名の一人だったのだから。

 

 しかしその戦いは、信長率いる織田軍は道三の救援に向かったはいいものの間に合わず、退却せざるを得なかった。

 そんな状況下、信長は自ら殿を引き受けて川岸に残り、義龍軍の騎馬がいくらか川端まで駆けて来ると、信長は火縄銃たねがしまを撃った。

 その時、川を渡ってきた斎藤軍の中に、その男はいたのである。

しかし当の男は、信長の顔を忘れているのか平然としている。

 そして男は案の定、二条御所とは逆の方角へ信長たちを導いた。

 

「――斎藤義龍は元気か?」

 信長の言葉に、男が歩を止めた。

「なんの、ことでござろう?」

 男は、まだ気づいていないようだ。

 信長と一度会っていることを忘れているのか、それとも気づかぬふりをしているのか。

「お前――、長良川での戦いの時、俺に向かってきただろう」

「――っ」

 

 どうやら、信長の見間違いではなかったらしい。

 男の顔が、強張る。

 辻から、侍烏帽子さむらいえぼし直垂姿ひたたれすがたの刺客が数人出てきた。

 

「殿!」

 恒興たち織田家重臣が、信長の周りを囲む。

「義龍の差金か……?」

 

 信長の再三の問いかけにも、男は黙したままだ。

 斎藤義龍とは長良川で戦った以外ない因縁は薄い信長だが、刺客まで放って殺そうとしてくるあたり、信長は相当憎まれているようだ。

 もちろん憎まれるようなことをした覚えは、信長にはない。

 ただ、道三からは美濃を託されたが――。

 それは聖徳寺にて道三との会見を終えて、しばらく経ったころのことだ。

 一通の書状が、信長に届いた。



 ――婿どのよ。もしわしになにかあれば、この美濃をそなたに任せたい。わしの子らでは美濃はいずれ他国に攻め入られるであろう。

 主を倒し美濃を手入れたわしがいうのもなんだが、他国に美濃が奪われるくらいならば、そなたにくれてやる。そなたならば、この美濃を守れよう。なにせそなたは、あの尾張の虎・信秀の子じゃ。

 

 

 まさかこのあと、ほんとうに道三が亡くなるとは信長は思っていなかった。

 おそらく義龍は、なんらかの方法で内容を知ったのだろう。

 信長に美濃を奪われると思ったのか、義龍の方から仕掛けてきた。

「おのれ……っ」

 佐久間信盛が、腰の太刀に手を伸ばす。

「やめろ、信盛」

「ですが、殿……」

 信長は刺客たちを見据えた。

「ここは尾張でも美濃でもない。朝廷と幕府のお膝元で殺傷沙汰を起こす勇気があるなら、やってみろ」

「う……」

 刺客たちはいくら主君の命令とは言え、さすがに太刀は抜けなかったようだ。

 都での乱闘となれば当然、朝廷と幕府に説明しなければならない。しかも義龍は朝廷から官位を授かっているという。その官位を剥奪されかねない事態は、彼とて避けたいだろう。


 だが、信長の上洛に慌てたものがいる。

 将軍・義輝と、幕府の人間である。

 やはり将軍の呼び出しは義龍の罠だったようだが、五百の兵を引き連れてやってくれば幕府の耳に入るのは当然だろう。

 とんだ上洛になってしまったが、信長は素襖に身を改め、二条御所にて義輝に謁見した。

「尾張・織田上総介信長にございます」


 永禄二年二月二日、時に信長二十三歳。

 尾張の主となって、初の将軍・足利義輝との謁見であった。

 

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