第8話 潜伏

 清々しい程澄んだ雲一つない夜空に、膨大な数の星と大きな月が一つ居座っている。広い宇宙の中の一つの星、その中の小さな土地の上で一つの生命は一世一代の分岐点を走っていた。


 蚕が紡いだ細く長い糸のように絡み合って解け、その形を形成してきた現実はまさに今、彼らの掌の上にあった。今にもほつれて千切れそうなその塊を強く心掌で握り締めている。


「そろそろか? もうかなり近づいたんじゃねぇか」手綱の具合によって馬に減速を伝える。

「次の大通りから向こうはBー五の区域になってる。特にこの辺りに目印なんかは無いね」


今までの街並みと変わらない景色が並んで、虫の声がさらさらと聞こえる。


「馬はここに置いて行く。ここからは歩きだ、絶対に物音を立てるな、仲間を見つけても勝手に突っ込むな。本当に仲間を助けたいなら、だ。いいな?」彼は近くにあった看板に馬つなぎで馬を止めながら言う。

「わかってる、音は立てない。仲間の近くにさえ行ければ何でも対応が効く。ヘマはしないよ」同じく馬を繋ぐ。


 この地域一帯の電気は途絶え、それを必要とする者もまた途絶えていた為、灯りは一つも灯っていない。空に浮かぶ月明かりだけが自然の電灯で、薄く伸ばされた光が地面や建物の壁を照らし、その薄暗さは自分達が捕食者の縄張りの中に侵入した獲物である事を自覚させる。


 二人は限りなく無音に近づく為、声を発する事をやめた。身振り手振り、視線や表情で相手の意図を汲み取って意思決定を行う。長年、共に探索を続けてきた二人にとってはさほど難しい事ではなかった。


 拠点の長である老人が言っていた研究施設を探してみる。もう既に昔話の一端でしかない情報だったが、今持っている情報の中ではそれが最も有力だと考えた。


 周囲にあまり多く音は聞こえない、時折発される壊人の呻き声かその足音、または動物の音がほぼ等間隔で聞こえてくる。――そういえば奴等はお互いの音に対して関心を示さない、どうやって判別しているんだ?と疑問に思いながら、この地区の中心部を目指し、人二人がやっと並べる程の狭さの路地へ入って先へ進む。


 路地を一列に静かに歩いていたその時、同時に左右の建物の影から壊人が二人現れる。声が出そうになるのを必死に止めて息を潜めてやり過ごす。ただ徘徊しているだけに見える二人を視界から離さずその場で立ち止まる。徘徊人は路地裏の地面に放置された空き缶に気づく事なくそれが足に当たる、この何も無い静寂に空き缶の音は大きく響き渡る。――が、もう一方の徘徊人には音に対しての反応が無い。ましてやここ一帯を埋め尽くしているであろう他の者にも恐らく反応が無い。空き缶だけがひとりでに音を立てて転がった。二人は昂った心臓と呼吸音を平静に戻す努力をした。空き缶は転がった先で動きを止めている。


 その場は何も起こらず、二人の壊人が通り過ぎたのを確認して元々目指していた方向へ向かう。都市の中心に進むにつれて壊人の数が増えてくる。それはただこの辺りに徘徊している者が多いだけとは思えず、大体の等間隔を置いて歩いている壊人は明らかに何かを守る為の護衛や警備にそれぞれ配置されているように見えた。


 二人は中心部にあった巨大な建造物を見ると互いに目線で合図した。その建物は鉄筋コンクリートで出来ている為か、建築年数が浅かったのか今まで見てきた建物や今目の前にある周囲の建物と見比べても一つだけ劣化が緩く、依然この都市に建ち誇っている。その厳かな建造物に侵入する為、昇降口を探して近づく。周辺には壊人が居ない事を確認して中を覗く。ガラス張りの扉は月明かりを怪しく反射してむしろ視認性を下げている。光の反射を避け、張り付くように中を見るとやはり警備が二、三人配置されていて、二人は仲間がここにいる事をほぼ確信へと昇華させた。右腕で一旦離れる合図をすると昇降口を後にする。


 昇降口から離れ、他の侵入経路を探る。この建物の周囲を一周する事を手で提案した。周りを一周するだけでもかなりの時間が掛かりそうな施設を右回りに歩いていくと、頭上の壁伝いに後付けで格子が打ち付けられた小さな窓があった。そこから中を覗いてみる思考は一致して、年上の男が窓の下に準備して年下の男がその上に登って中を覗く。


 そこには長い廊下が続いており、廊下を挟んだ左右には大きな牢屋が並んでいた。中は月明かりが手前の周辺にしか届かず、その他は暗闇だった。右手前の牢屋の中に人間の足が少しだけ見えていて、彼はその――生きているか死んでいるかわからない――足とコミュニケーションを取る為、周囲に壊人が居ないか一通り確認して聞こえるかどうかの微かな音で窓を叩いた。下の男が音を立てるなという旨を伝えようとしているのを一瞥して窓に向き直る。中に居る足が動き、死んでいない事を確認した。中の者は出来るだけ彼の方へ近寄り、脅威か安心か確かめる為に彼の顔を覗くとその瞳は一面の深淵の中に光り輝く星を見た。


 その女性は顔見知りで身なりも拠点の人間に違いなかった。彼は女性に落ち着いて、必ず助ける、今は待ってくれ、という手振りをして伝わるよう祈った。下の男が限界を迎えて震えていたのでその場は仕方なく地面に降りた。二人は全員の安否はわからないものの、最悪の事態である全滅では無い事を確認すると、施設を離れて近くにあった空き家へ入る。


 本当に空き家かどうか確認すると安全を確保しながら中へ入り、音が壁を突き抜けない程の大きさの声で今までの出来事とこれからの事を話し合う。


「地図はここで合っていたし、拠点の人が生きている事を確認できた。さらわれた人全員を収容できる程の数の牢屋が並んでいたから、みんなあそこに入れられているはず、死んでいないよ……!」希望を少し取り戻した。

「あぁ、よかった。まだ完全に安心は出来ねぇが全滅してないだけ救いがある。そうだお前、音を立てるなって言ったよな……!」

「僕はちゃんと周りを確認したし、限りなく小さな音にしたよ。結果バレてないし安否も確認できた、でしょ?」

「はいはい、結果論な。よくやった。今夜はここに居たい所だが、何かあった時の為にあの窓の下で朝まで待機するぞ。夜の間にミヤビと拠点の人間何人かがこっちに向かってるはずだ、運が良ければ増援も期待できるかもな」

「明日は必ずやり遂げる。絶対にみんなを、マイを救う。――マイ、生きてろよ――」妹の死は一番考えたくなかった。彼は妹の生存を前提に置いて全ての行動をしてきた。

「あいつは黙って死ねるようなやつじゃねぇだろ? あんなに強情で勝気のある女は他に見た事ねぇ、お前と似てな。……だから大丈夫だ相棒、心配すんな」優しかった父親と同じ眼をしている。

「わかってる、ありがとう」

「そろそろ戻るぞ、俺達は休んでる場合じゃねぇ」そういうと静かに扉を開けて外に出る。


彼はその背中に勇敢だった父の姿を重ねて見ていた。


 ここまで二人で辿り着いた事や仲間の生存、自分達の手で助けられる可能性がまだ残っている事に今までの二人を駆り立てていた不安は少しだけ影を縮め、暗闇の中で不安の代わりに希望が湧き始めていた。


 小さな窓の下で使えるだけの感覚を全て使って警戒を途絶えさせない夜は長かった。辺りが敵で埋め尽くされている地面に座っていても心身共に何一つ休まる筈はなく、冷たい夜風に心の灯籠をどれだけ吹かれようともその灯籠の火を絶やすことは決してなかった。火を爆発させる準備はとっくに出来ていたが、そのエネルギーを小さく長く灯し続けた。

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