男の僕が体操服に着替えたら

「――はい。次の授業はがあるから、今日は早めに授業を終わります。各々、復習を忘れないように」


 起立、礼……そんなやり取りが行われるのはお嬢様学校である百合園女学園でもどうやら例外ではないらしく、椅子から立ち上がった僕は教壇の上に立つ女性教諭に向かって軽くお辞儀を行うのと同時に……教室の中は少しだけ色めきだった。


「……はぁ」


 原因は語るまでもないだろうけれど、念のために説明しておくと……ここにいる茉奈お嬢様以外の女子生徒は皆、を見る事をとんでもないほどに楽しみにしているのである。


 とはいえ、その僕がまさか男だなんて夢にも思っていない彼女たちの前にを曝け出す訳にもいかない。


 そんな事になってしまえば、僕と茉奈お嬢様の秘密だらけの女学園生活は終焉を迎え、僕たち2人は社会的に死んでしまうのだから。


「……さて」


 水曜日の午前の3限目。

 いよいよ運命の時が来てしまった。

 次の3限目の授業は身体測定が行われる体育であり、これから僕は男であるというのに女性更衣室に堂々と殴り込みをしなくてはならない。


「……すぅ……」


 無駄だと分かっていても、これからする事に対して緊張しないように深呼吸をして。


「……はぁ……」


 どうしたものかなと言わんばかりに僕は溜め息を吐いた。

 緊張するなと言われたら逆に緊張してしまうのが人間という生き物で、おかげ様で僕は朝から上手く朝食すら上手く作れず、前々から作り置きしておいたおかずを温めたりだとか、解凍したりだとかで何とか凌いだ。


 実際、1限目と2限目の授業は緊張の所為で全くと言っていいほどに内容が頭に入ってこなかったが……そりゃあ、当然だろう。


 何せ、男の僕が女性に混じって着替えをするだなんて、そんなものは自分の真の姿を見てくれと言わんばかりの行為そのものであり、僕の女装事情が周囲の女子生徒にバレでもすれば文字通りの一巻の終わりである訳なのだから、緊張するなと言われて出来るほど、僕はあの先輩のように変態ではなかった。


「……うぅ」


 周囲の同級生たちかチラチラと視線――それもまるで痴漢の人が見るような舐め回すような眼差し――を向け、何時の間にか学内3大美女になっていた僕の方を見ては、逆に僕がそんな彼女たちを見つめ返すと『私、全然見てませんわよ』と言わんばかりに赤面しながら視線を逸らしていく。

 

「……くっ……菊宮唯お姉様好き好き大好きファンクラブに加入さえしていなければ、直に菊宮お姉様をセクハラ出来ていたのに……! 悔しい……! でも寮にいらっしゃる菊宮お姉様の隠し撮りプロマイドを得られるにはファンクラブに加入しするしか方法が……! くっ……!」


「……おのれェェェエエエ……! 下冷泉ェェェエエエ……! しかし、この写真を撮れるのは下冷泉会長ぐらいしかいないと思うと憎らしやァァァアアア……! 菊宮お姉様の貴重な調理シーンが堪らねぇですわァァァアアア……! 料理に対して目が真剣すぎて惚れるゥゥゥウウウ……!」


 意外な事に下冷泉霧香が会長を務めているとかいう僕のファンクラブの鉄の掟【神聖なる菊宮唯お姉様に触ったファンメンバーは東京湾の刑。異教徒に菊宮唯お姉様を触れさせるべからず】――だなんて言う全く意味の分からない掟のおかげで僕に触ってくる女子生徒はこの教室内においては茉奈お嬢様を除いて1人もいない。


 そう考えれば、火曜日に突如として超高性能カメラを携えた下冷泉霧香による写真撮影会に参加して本当に良かったとさえ思う。


「唯。大丈夫か。顔がどんどん強張っているぞ。その眉間の皺は学内3大美女に相応しくないぞ?」


「そんな称号、今すぐにでも返上したいぐらいなんですけどね」


「同感だな」


 そんなこんなで僕の隣の席にいる茉奈お嬢様と話し合いを交わしつつ、僕と茉奈お嬢様は手短に数学の教科書と筆箱を机の中に収納して、体操服等々の衣類を1つにまとめる袋を手にして、足早で教室から出た。


「……気づいているか?」


「何にでしょうか」


「とぼけなくていい。君を見る女子生徒共の視線だ」


「気づくに決まっているでしょう。まるで動物園にいる珍獣を見られる視線を向けられたら。こちとら痴漢や男子に何度もあぁいう目で見られた事があるので視線には敏感なんですよね。嬉しくも何ともありませんが」


「……それは、何とも、まぁ……ご愁傷様としか言いようがないな」


「まぁ、別にそれはいいですよ。どっちかと言うと自分の髪の色でついつい人目を集めてしまうのが一番いけない訳ですからね」


「君は自分の髪色を卑下するように言うが私はそうは思わない。君の髪の色はとても綺麗だ。とても私好みだ。君が髪の色を変えでもしたら私は寝込んでやる所存だとも」


 鼻息を荒くしながらそう力説してみせるお嬢様と言い、和奏姉さんで性癖を壊されたここの理事長先生と言い、どうやら百合園の人たちは全体的に銀髪を好むようであった。


 とはいえ、もう死んで亡くなってしまった和奏姉さんとの唯一の繋がりとも言えるような銀髪を褒められて流石に不愉快な気持ちにはならなかった。


「ふふっ、そんなに褒められると逆に変えてやりたくなっちゃいますね」


「天邪鬼だな、君は」


 ニマニマとした笑顔でこちらを覗き込んでみる茉奈お嬢様であるが……彼女の言う通り、なるほど確かに僕は天邪鬼だろう。


 だって、僕は男子禁制の女学園に女装をして潜入している訳なのだから。


 ここまで来ると筋金入りの天邪鬼を自称してもいいのではないか……そんな風に思いながらも僕たちは脚を進めていき、ついに2年生専用の女子更衣室の前までやってきた。


「…………」


 心臓が、とてもうるさい。

 とはいえ、僕はこの日の為だけに色々と努力を積み重ねてきた。


 例えば、学内3大美女の1人である下冷泉霧香のおっぱいに頭を突っ込んだり。

 例えば、学内3大美女の1人である茉奈お嬢様と一緒にお風呂に入ったり。


「…………」


 正直に告白するが、この百合園女学園の中で彼女たち2人に勝るような美人は本当にいないし、10日間も彼女たちと同じ屋根の下で寝たり、同じ釜の飯を食べた間柄である為か、本能レベルのどうしようもない性欲をあまり抱かないようになった僕に死角はない……筈だ。


 そう、僕は美人の身体を知っている。

 胸を触って、匂いを嗅いで、肌に触れて、以前の僕では拒否していたであろう感触を知っている。


 それはこの女装生活においては素晴らしい経験であり、転じて武器になる。 


「……唯? 大丈夫か? 無理なら――」


「――大丈夫です、茉奈お嬢様」


 心配そうにこちらを見るお嬢様に対して、僕は彼女を安心させるよう力を入れた声音で返事をする。


 彼女はその返事で僕の覚悟を察してくれたらしく、これ以上僕の決心が鈍るような言葉を口にする事はなかった。


そんな心優しいお嬢様と一緒に、1限目と2限目の間に身体測定があったのであろう他のクラスの女子生徒たちが中に詰まっているのであろう女子更衣室の扉を開けると――。















「きゃああああああああああああああああ!!!」


「菊宮お姉様ぁぁぁあああああああああああああああああ!!!」


「菊宮お姉様の裸体がついに御開帳ですわぁぁぁぁあああ!!!」


「ぐへへぇぇぇ!!!」


「盗撮! 盗撮の用意を!」


「異教徒ですわ! ぶっ殺して差し上げますわ!」











 ――誇張抜きで眩暈がした。


 いや、目の前にいる半裸状態のお嬢様みたいな生き物も眩暈の原因ではあるけれども、主な原因はそれではない。


 だ。


 女性だらけの空間には異性特有の独特な強い匂いが立ち込めており、緊張している僕の嗅覚を潰すと言わんばかりに襲い掛かってきて、視界が気持ち悪くぐにゃりぐにゃりと揺らされた事で身体が勝手に崩れ落ちそうになってしまいそうになる。


 もしも、茉奈お嬢様や下冷泉霧香で女性の匂いというものを知っていなかったのであれば、この女子更衣室に入っただけで僕の人生は終わりを迎えていただろう。


「唯。大丈夫か」


「は、はい……」


 嘘だ。

 全然大丈夫じゃない。

 こんなの、平気でいられるか。


「……っ……」

 

 ほんの少しだけの化粧の匂い。

 ミルクを思わせるような甘ったるい匂い。

 花を使用した制汗剤か何かの透き通るような匂い。


 そういった女性特有の匂い……男性相手では絶対に発生しない匂いは、正直に言えば教室でも感じ取れた。

 

 だけど、ここではその比率が全く違う。

 文字通りの桁外れであり、油断してしまえば意識を冗談抜きで持っていかれそうになる。


「……ふぅ……」


 そんな刺激的過ぎる色香を吸い込まない程度に、深呼吸をする。


 大丈夫だ。

 何回も練習してきたし、何度も脳内でシチュエーションを重ねてきた。


 演劇部の部長を務めている下冷泉霧香の言葉を思い出せ。


 例え失敗したとしても、1回目の失敗ならまだ大丈夫。

 慌てふためいて2回目の失敗をしなければ大丈夫だ。


 慌てるな。

 ミスは誰にもある。

 ミスを起こさないではなく、起こしたミスに動揺するな。


「すまない、このロッカーはもう空いているかな?」


「ま、茉奈お姉様……⁉ え、えぇ。私たちはもう着替えて帰るだけですので」


「そうか。私のクラスの面々もやってくるだろうから、早めの撤収を宜しく頼むよ」


「は、はい! 貴女たち! 茉奈お姉様の言う事に従いなさいませ!」


「で、ですがそれだと菊宮お姉様の生着替えを見る事が……⁉」


「そんな貴女に菊宮唯お姉様好き好き大好きファンクラブ! 今なら月会費がなんと10万円! 入会した暁には菊宮唯お姉様の非公式プロマイドを贈呈致しますわ! お買い得ですわ! 買いですわ! 安いですわ! 買えですわ!」


 流石は百合園一族にして、この学園の理事長代理を務めているお嬢様である。

 穏便に、最短で、最低限のやり取りで最高の効果を叩き出し、この女子更衣室にたむろっていた変態お嬢様たちを速やかに追い出すように促した。


 ……というか、僕の非公式プロマイドって、下冷泉霧香は一体どこまで悪事に手を染めていやがるのだろうか――いや、今はそんな事にかまけている場合ではない。


 僕は急いで茉奈お嬢様の横に移動し、鍵付きロッカーの扉を開ける。

 周囲の女子生徒に出来るだけ警戒しつつ、制服をまだ着ている間にスカートの下からジャージ形式の長ズボンを着用する。


「ヴェェアアアア⁉ どうしてブルマじゃねぇんですのよォォォ……⁉」


「生足……生足どこ……? 唯お姉様の生足どこ……? ハーフパンツと靴下から展開される絶対領域どこ……?」


「随分とド3流お嬢様の多いことですわね……唯お姉様の匂いがプンプンに詰まるという事実と、菊宮お姉様のスタイルを更に強調させる長ズボンの良さが分からないだなんて……ふっ、やれやれだぜですわ」


 ……何やら溜め息のような音が聞こえて気がしたけれど、恐らくそれは僕が肌の露出が全くないジャージを着用しているからなのだろう。


 そう判断できたという意味合いでも、あの日に下冷泉霧香がこの学校の裏掲示板を見せてくれた事に感謝しながら僕は上半身をどう着替えたものか思考を巡らせる。


 良くも悪くも、周囲の視線はやはり僕を中心に集まっている。


 とはいえ――。


「……ふふっ」


「……⁉ き、き、き、菊宮お姉様が私に笑みを……⁉」


「どうかなさいましたか? 随分と僕の事を見ているようですが、もしかして僕は何か粗相でもしましたでしょうか……?」


「オッッッッ!!!」


 凄いなぁ。

 もうすっかり板についたから茉奈お嬢様以外の人間にもお嬢様と呼んでみたら、口と鼻と耳から血を出したよこの女子生徒。


「おっ、おっ、おぉぉぉ……! い、いえ……! そんな滅相もない……! ふへへ……! やべぇですわ……! 唯お姉様に直々にお言葉を……! 私の事をお嬢様って……! お嬢様ってぇぇぇ……! ぐへへ……! 耳が妊娠しますわぁ……! えへへ、私たちの子を絶対に認知してくださいね唯お姉様ァァァ……!」


 ちょろい。

 恋は盲目だとかいう言葉をまさかこんな場所で実感できるとは思わなかった。

 おかげ様で近くにいた女子生徒は「ぐへへ」と笑うだけの壊れた女子生徒になったので、更に僕をチラ見でもしようもなら本格的に壊れるのも時間の問題だろうから、放置する事にした。

 

「……なぁ、唯。これ以上、我が学園の女子生徒の性癖をぶち壊すのは止めて欲しいのだが」


「それは無理な相談だと思いますけどね」


 慌てて、僕は上の制服を脱ぎ捨て――その瞬間に小さな黄色い歓声が何度も飛んできた――慌てて体操服に袖を通し、すぐに長袖のジャージで上半身を覆い隠す。


「は、は、はなっ、はなっ! 鼻血ィ! ぶへへどぇんぐひえ!」


「菊宮お姉様の裸体が一瞬見えた……あれが……天国……? 私、死にましたのね……」


「救護班! 救護班! 死人がいっぱいですわ! 死因は菊宮お姉様ですわ! 菊宮お姉様の裸体はやべぇですわ! 上半身でこれなら菊宮お姉様の全裸を見たら全人類が滅びますわ! 見たら死にますわ! 冗談抜きで死にますわ! ですが私は敢えて見ま――ごふっっっ!!! ジャージをお召しになられた菊宮お姉様がエッチすぎて死にましたわ!!!」


 そんなに僕の肌を見たいのか、この変態淑女共。

 

 とはいえ、彼女たちには下冷泉霧香のような行動力はなかったので、精々鼻血を出して地面に倒れているだけで済んでいた。


 いや、あの先輩のような行動力があったら色々と僕が詰んでいる訳なのだから、そんな行動力なんて持たないで欲しい。


「……なぁ、唯? どうして君は着替えるだけでこの女子更衣室を地獄に変えるんだ? そんなにいたいけな女子生徒の性癖を壊したいのか?」


「勝手に壊れる向こう側が悪いだけなのではないのでしょうか」


 何だかんだで無事に着替え終わった僕である訳なのだが……当然ながら、身体測定が終わってしまえば、体操服から制服に着替える訳なので、それが今のところの懸念点と言うべきだろうか。


 何はともあれ、制服から体操服から着替えるのは今のところ問題はなさそうである。


 表で僕を守ってくれた茉奈お嬢様と裏で暗躍してくれた下冷泉霧香に感謝しながら、僕は女子更衣室を後にした。

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