第2話 愛するピアノを弾けなかった日に食べるシーチキンおにぎり

 初めて参加したピアノコンクールで、予選を勝ち上がることができたのは奇跡だと思った。


「準本選では、絶対にラヴェルを弾く」


 あこがれの難曲があった。フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルによる、「水の戯れ」。そのフレーズのきらめきを初めて聴いた日に、私は絶対にいつかその曲を弾く、と決めたのだった。予選は課題曲が与えられ、それを淡々と練習する毎日だったけれど、準本選では自由に曲を選ぶことができる。あこがれのピースを演奏するのにうってつけの舞台だと思った。

 何かに熱中しているとき、「何時間練習した」などということはイチイチ覚えていないけれど、学校から帰るや否や、マンションの規則である夜八時までノンストップで毎日練習をした。あまりにも毎日長時間練習をするもので、お母さんは「ちょっとその曲嫌いになっちゃったわ」と笑いながら言っていたけれど、そこは我慢してもらって。

 目に入れても痛くない、という言葉があるけれど、私にとってその曲はまさにそれだった。曲を目に入れる、なんてことはないけれど、何度聴いたって飽きることはなかったし、練習のし過ぎで指は疲れたし、たまに痛くもなったけれど、そんな疲れさえも心地よく感じられた。練習すればするほど、ミスタッチも減り、徐々に徐々に、人に聴かせるに値するものに近づいていくたびに、幸せな気持ちになったものだった。





 準本選の日。黒いワンピースを身にまとった私はとても緊張していた。周囲を見渡すと、ピンク、イエロー、ブルー……色とりどりのドレスを着た子たちがいっぱい居て、なんだか気後れしてしまう。私はお母さんと二人で会場に来ていたけれど、他の子はピアノの先生も付き添いで来ていたり、あるいは友人と一緒に来ていて、楽しそうにおしゃべりしていたり……いや、私はそんな暇ないから。首を横に振る。そう、先生にも言われていたんだ。本番のイメージトレーニングをしておけって。膝の上で楽譜を開き、あたかもそこに鍵盤があるかのように。私は指を動かし、脳裏に噴水がきらめく情景を想像する。


「こんにちは! ひとり?」


 控室で唐突に声をかけられ、私は顔を上げる。目のくりくりした、ポニーテールの女の子。知らない子だった。青色のドレスがまばゆかった。


「えっと、お母さんが来てる……けど」

「ああ、よかった。お友だちとかと一緒だったら悪いなって。うちもお母さんと来たの」


 知らない子がどうして話しかけてきたのか? と疑問に思う暇もなく、その子は私の隣に座り、容赦なく言葉を浴びせかけてきたのだ。


「えっ、その楽譜あれじゃん『水の戯れ』! すごい、そんな曲弾けるの?」

「そんな……無理してるだけだから、私は。そっちは?」

「私だってめちゃくちゃ背伸びしてるからね? 『ハンガリー狂詩曲』」

「リストの? 超絶技巧じゃん」

「ごまかしごまかし、だよー。昔、同じピアノ教室に通ってた憧れの近所のお姉さんが弾いていて、ずっと憧れてたの」


 曲のことから始まり、ピアノの先生のこと、そして学校のこと。その日は平日で、お互いに学校を休んできたわけだけれど「学校を休んでまでコンクールに出るなんて、ある程度良い成績じゃないと恥ずかしいよね」とこぼしたらそう? と首を傾げられてしまった。良くも悪くも、あまり難しいことを考えないタイプなのだろうと思った。いくら自由曲だからといって『ハンガリー狂詩曲』を選んでしまうあたりもそう。普通、コンクールの場で、しかも中学生の部において、有名でミスの目立つ、極端な難曲を選ぶことってそうそうない。好きな曲を弾きたかったのだろう。まぁ、私も同じだな、と思った。

 気づいたら緊張なんて忘れていた。私たちの番が近づいてきて、舞台裏に呼び出される。


「あーあ。舞台裏じゃお話できないね、さすがに」


 ブルーのドレスの女の子は、ため息をついた。

 舞台裏で待機しているうちに、再び緊張が訪れる。何度も何度も、練習の際に頻繁にミスをした箇所を膝の上で練習した。自分の受験番号が呼ばれるころには、指が震えて震えて、しかもキンと冷え切って仕方がなかった。

 おずおずと、頭を下げる。拍手が聞こえたか聞こえていないかわからないが、ピアノに向かう。鍵盤の上に指を配置し、深呼吸をするも、いつまで経ったって心の準備なんて整わない。――だから、弾くしかなかったのだ。







 終わった。とにかく、一刻も早くこの舞台から降りたい、と思った。足早に舞台袖に戻ると、ブルーのドレスの女の子が、口パクで、


「すごかったよ!」


 と。私はあいまいな笑みを――笑うことは、できていただろうか?


 舞台から全力で逃げ出したくせに、私は観客席に直行した。すでにあの子の『ハンガリー狂詩曲』が始まっていた。

 ミスタッチをすればよいのに、と本気で思ってしまった。そんな自分が心底嫌になった。華やかで、可愛らしくて、豪華な曲。彼女の雰囲気にぴったりだ、と思い、悲しくなった。どうしてこんなに上手いの? 背伸びしてるって言ってたくせに、自分だけ完璧に弾くなんてズルい。そんなことを考えながら、私は観客席からあの子の姿を目に焼き付けていた。





 結果を待っている間、私はお母さんに買ってきてもらったシーチキンおにぎりを食べていた。しかも、2つも。最近のお気に入りの具で、コンビニで何か買ってきてくれる場合、特に何もリクエストしなくとも、お母さんはシーチキンおにぎりを選んできてくれる。


「どうせ本選なんか出られないのに、結果発表なんて待っていたって無駄じゃない!」


 そう言って泣きながらお母さんに当たり散らしたけれど、仮にここで「じゃあ帰りましょう」とお母さんに踵を返されたらそれはそれでわめき散らしているような気がした。それなのに、お母さんに買ってもらったおにぎりを食べているなんてなんだか本当に情けなくて、どうしてコンクールなんかに出場してしまったのだろうと本気で後悔をする。私はただ、憧れの曲を完璧に弾きたかっただけなのに。

 コンクールや発表会の場でよくあることではあるが、いつもならミスをしないところで、小さなミスをしてしまったのだ。最大の難関の箇所をミスなく弾くことができた矢先の出来事で、どうしてこんなところで、という想いがぬぐい切れず、あきらめがつかなかった。音楽は、完璧でなければその先もない。ミスタッチが0で、その上で初めて、音楽性や、解釈や、そういった細かいことが生きてくるのだ。


 会場がざわめき始めた。結果発表の時間になったのだ。ホワイトボードに、本選進出者の番号が張り出される。

 当然、私の番号など無かった。同時に、その後ろの番号――あの子の番号も、なぜか無かったのだ。小さな驚きとともに、私はホワイトボードの横に立っている職員の方から、個別講評を受け取った。時折、水のきらめきが見えてくるような音色を感じました。最後まで集中力を崩さないように気を付けましょう。難易度の高い曲をよく弾き上げました。丁寧な抑揚を心がけましょう。審査員の言葉の中から、優しい言葉だけを拾い上げて、私の初めてのコンクールは幕を閉じた。






 あれから何年も経った今、音楽なんて忘れて、仕事や恋愛、友人との遊びに一生懸命な今でも、ふとした瞬間に思い出す。ラヴェルの『水の戯れ』を耳にする度に、胸がほんのり痛くなる。――あの、ブルーのドレスを着た女の子は、どんな生活を送っているのだろうか?





『愛するピアノを弾けなかった日に食べるシーチキンおにぎり』――fin.

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