第19話

 無数の、色とりどりの蝶を追いかけていると急に体が揺れた。


「起き給え」

「んん?」


 パチパチと数回瞬きをして、アンドレアは目の前にイヴの不機嫌そうに眉を顰めている姿があるのを確認した。

 目を擦ってみてもその光景は変わらない。


「荷物持ちくん、着いたよ。さっさと自分の仕事をし給え」

「うっ」


 いまだ少し微睡んでいるアンドレアの膝に衝撃が走る。

 ドスっと膝の上に重たい荷物を乗せられたのだ。思わずアンドレアの口から唸り声が漏れた。


「待たせてすまないね。はい、これ運賃」

「たしかに。じゃあ、お気をつけて」


 アンドレアが夢から覚めて数分もしないうちに荷物を持って馬車から降りると、イヴが御者にお金を払っていた。太陽は完全に落ちて、足元すら見えづらい。


「まったく、いつまで寝ているんだきみは」

「すんません……」


 闇の中に消えゆく馬車を見送ってイヴは口を開いた。

 どうやらアンドレアは目的地に着いてから一時間ほど馬車の中で爆睡していたらしい。寝起きのアンドレアの視界に入ったイヴの機嫌が悪かったのはそのせいだろう。

 さすがに気を抜きすぎていたようだ。


「私が何度声をかけても返事がないものだから、死んだのかと思ったよ」

「や、やめてくださいよ。縁起でもない」

「まぁ、ぐうぐう気持ちよさそうに寝息をたてていたけどね」

「す、すみません……」


 アンドレアがなかなか起きないものだから、イヴと御者はどうすることもできずに小一時間ほど町の入り口で話し込んでいたそうだ。

 そのせいで太陽が完全に落ちて外は真っ暗。空を見上げると無数の星が煌めく綺麗な夜空が完成してしまった。


「今日は先に宿をとって休もう」

「わかりました」


 イヴの提案にアンドレアは頷いた。

 鉄産業とジビエが有名なだけあって、宿は思いの外たくさんあった。どれも観光客向けのようだが、王都などに比べると随分と質素な造りをしているのが特徴的だ。

 アンドレアはカバンに入りきらなかった銅などを運びながら、宿にチェックインした。もちろんこの荷物はイヴのものだが、部屋はアンドレアの部屋に置くことになる。

 そんなに広くない部屋がイヴの荷物でまた一段と狭くなったのを見て苦笑しつつ、アンドレアは外に出た。


「私ももう眠い。なのでジビエは明日にして、今日は軽く夕食を済まそうか」

「俺はなんでもいいですよ。文句を言える立場ではないですし」


 元々の到着時間が遅くなることはイヴもアンドレアも承知していたことだが、ここまで遅くなったのはアンドレアが爆睡してなかなか起きなかったからだ。アンドレアはイヴが案内した店で夕食をとると宿に戻った。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 部屋の前でイヴと別れ、アンドレアは自室に入る。イヴの荷物を蹴らないように気をつけながらベッドに向かうと本を取り出して読書を始めた。

 イヴはもう眠ってしまったのだろうが、アンドレアは馬車の中で寝ていたので一向に眠気に襲われる様子がなかった。なので魔術書を読み込もうと思ったのだ。


「降霊術、召喚術……ここらへんは師匠もできないって言ってたなぁ」


 イヴの持っていた魔術書は全部で三冊あって、種類別に分けられている。三冊目の表紙が少しおどろおどろしいこの本は降霊術や召喚術などの魔法でもできない、イヴもできる魔術師は限られていると言っていたかなり高度な魔術について書かれていた。

 用意するものに人の血、などとおぞましいことが書かれているものもあって普段はこの本はあまり読んでいない。


「俺も師匠と同じ影に荷物仕舞うあの術を使いたいなー」


 影に物を仕舞う魔術はこの本に書かれている。しかし物の出し入れのときの魔力消費量や、仕舞っている間にも魔力を消費することなどが書かれていたので保持魔力量がそんなに多くないアンドレアには無理そうだと判断して諦めるしかなかった。


「師匠は結構魔力を保持しているんだな……やっぱりすごいとしか言いようがない……見た目は俺より年下なのに」


 そう思うとアンドレアの手が止まる。

 今ふと馬車で話した内容を思い返してみるとイヴは呪いにかけられていて、その呪いが時間停止という恐ろしいものだと、今日はかなり衝撃的な話を聞いてしまった。

 少女のように軽やかで、しかし時折見せる物悲しげな表情は長年を生きてきたから故だろうか。

 齢千年は確実に超えているイヴははたして今までどのような人と巡り合い、関わって、どのように別れを繰り返したのか。アンドレアにはイヴの人生の旅路を想像することすらできなかった。


「なんで俺に呪いのこと教えてくれたんだろう……」


 すっと視線を落としてアンドレアは瞼を伏せた。

 もしアンドレアが聞いたとしても、無視するなりはぐらかすなり、イヴにはどうとでもできたはずだ。なのにイヴは呪いについて正直に話してくれた。

 自分が思っているよりもイヴは自分に気を許してくれているのだろうか、とアンドレアは考えて、ふっとため息を落とした。


「ただ単純に寂しかった、とか……なんて、師匠に限ってそんなことあるわけないか」


 呪いについて、自分について知ってもらいたい。理解してもらいたい。そんな気持ちに駆られたのだろうかとアンドレアは推測したが、途中で考えるのをやめた。


 たしかに何千年もの間を生きてきたのなら、イヴのことを知っている人間は年を経つごとに死んでいなくなってしまう。また新しい人と知り合いになっても、また月日の流れで別たれる。

 自分の存在を知っている人がいないのは寂しい。けれどイヴがそんなことで簡単にへこたれるような人ではないとアンドレアは思った。

 だからイヴの呪いについて考えるのはやめて、再び視線を本に戻した。


 少しクセのある字で書かれた文字を追って、自分にはできないとわかっていながらも高度な魔術を記憶の片隅にインプットしていく。

 静まり返った町の中、アンドレアがペラペラとページを捲る音だけが室内に音をたてて、なにもない空中に溶けていった。

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