夜半の襲撃

 この頃の食事といえば、ご飯におかずが一品、漬物、味噌汁の一汁一菜いちじゅういっさいを常としていた。といっても、長屋では朝にまとめてたいたご飯を昼は冷たいまま食べ、夕には茶漬けにしてさらさらと流し込むということも多かった。江戸ではわざわざ料理をしなくとも、惣菜を買っておかずにすればよかったのでなおさらこの風潮が強かったのかもしれない。

 ともあれ、清司郎せいしろうたちの前に並んでいたのは、そんな普段の夕餉ゆうげより少しだけぜいたくなお膳だった。

 ご飯に小魚の佃煮つくだに、青菜のえ物、焼き魚がついて、味噌汁とはりはり漬けという一汁三菜。

 どれを口にしてもしっかりと味が染みていて、丁寧に調理されていることがわかった。その相伴しょうばんに預かりながらも、清司郎はどこかで機会をうかがっている水虎すいこがいま、この場に現われてもいいように気を配っていた。

 結局、水虎は現われることはなく、夕餉の膳を片付けたあとは、事前におはるが指定した物陰に隠れて水虎を待つことになった。

 月の光はまだ頼りなく、なにかが現われてもそれがなにかを見極めることができない。

 春の宵とはいえ、桜などの木はなく、山茶花さざんかの他には危難を転じるという南天なんてんや夏の終わりから三月ものあいだ花を咲かせる百日紅さるすべりなど、秋から冬にかけて花実をつける木が主であるため、あまり季節を感じることはない。

 座敷の方からは話し声がするが、清司郎にはなにを話しているのかわからなかった。ただ、障子にうつる影からすると、お三智みちとお榛が話しているのだろう。

 谷川たにがわはと探してみれば、足元に瓦灯がとうを置いて、そのぼんやりした光の中で周囲を見回している。清司郎がその体格から水虎と見間違えないように、という工夫だろう。ふと谷川と目が合う。清司郎は小さく首を振った。なにも変わりがないという意味だ。

 そのまま、じれったいほどゆっくりと時が過ぎる。月がさらに高く昇っていく。

 そのうちに座敷の明かりも消えて、話し声もなくなる。

 江戸の街中であればちりん、ちりんと夜鳴き蕎麦の風鈴も聞こえるだろうが、ここ根岸にはその気配もない。

 夜半近くなり、さすがの清司郎も緊張の糸が切れそうになってきた。

 と、井戸の方から水音が聞こえてきた。

 べたべたという湿った足音が続く。

「……来たか!」

 清司郎は思わず身を固くした。

 大柄な谷川に勝るとも劣らない、大きな影がゆっくりと家の濡れ縁に近付いていく。弱々しい月光を受けてもてらてらと反射しているのは、体が濡れている証だ。

 青い燐光を帯びた双眸そうぼうがほんの刹那、こちらを向いた。と、思ううちには、清司郎は愛刀荒正あらまさを抜きつつ飛び出していた。

「これ以上、放ってはおけん! 覚悟しろ!」

 言い放ちつつ、水虎と濡れ縁の間に割り込んで、荒正を正眼に構える。

 水虎は河童の類いとは思えぬ、低いうなり声を上げながら、清司郎に躍りかかってきた。

 水虎の右腕がみるみるうちに迫ってくる。水かきのある指先に鋭い爪がついている。傷口を膿ませ、治らなくさせる毒の爪だ。

 清司郎はそれに対して、荒正を切り上げつつ前に踏み出した。

 跳ね上げられた荒正の切っ先は、水虎の腕を捕らえることはできなかった。それは逆もしかりで、水虎の右腕もまた、空振りだった。

 清司郎へ振り向き、さらなる攻撃をかけようとする水虎に、横合いから谷川が組み付いた。そのまま地面に倒そうとするが、体がぬめっていて、うまくつかめないようだ。

 清司郎が体勢を立て直すのと、水虎が谷川を突き飛ばすのはほぼ同時だった。

 立て直した清司郎は上段に振りかぶった荒正を水虎めがけて振り下ろす。その一撃は水虎の左肩をとらえ、傷口がぱっくりと開いた。

 しかし、荒正が通り過ぎると、その傷口はみるみるうちにくっついて、元の通りに戻ってしまった。

「やはり、急所をつかないままいくら攻めてもだめか」

 清司郎が荒正を構え直そうとしたところに、右足が飛んで来た。

 不意打ちでみぞおちを蹴られた清司郎はひとたまりもなくすっとび、後ろにあった百日紅に強かに打ち付けられた。

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