根岸の娘

 上野うえのからほど近い根岸は、四季折々の花々やさまざまな鳥で知られ、古来より文人墨客ぶんじんぼっかくに愛されてきた土地である。ことに春先のうぐいすは高名で、初音はつねの里と呼び習わすこともあるという。この頃では、商家の別宅である寮や隠居した主人の住む仕舞屋しもたやも多く建つ、ひなびた地であった。

 讃岐屋の寮はそうした寮の中の一軒で、田畑に水を引き込むための用水路のわきに建っていた。

 手代の豊松とよまつを先頭にした一行が門前に立っておとないを入れると、百姓らしい格好の、三十すぎの女が中から出てきた。

「豊松じゃねぇか。一体どうしたんだよ? それに、後ろの浪人やら相撲取りやらは何者なんだい?」

「おさん、こちらは勿怪もっけ祓いの方々です。旦那だんな様と番頭ばんとうさんに頼まれて、お嬢様を狙ってる勿怪を祓いにいらしたので、あたしが案内してきたんです」

「ほうかい。おおかたアテにならないだろうけど、旦那様の肝いりとあっちゃあ仕方あるめぇ。どうぞ入っておくんなせぃ」

 おはそう言って四人を中へと招き入れた。

 門を潜るとささやかながらよく手入れされた庭になっている。山茶花さざんかの木が何本も植えられ、それを隠れ家とするかのように尾長おながの声も聞こえるが、姿は見えない。

 庭の向こうに一軒家が建っていて、大きさは並の百姓屋より少し広い。

 座敷の障子しょうじが開いて、えんに若い女が出てきた。歳の頃はおそらく十七、八ですっと背が高く、整った顔立ちをしている。飾り布のたっぷりついた桃色の着物を着て、帯は本朝のものではなく、和蘭陀おらんだの夫人が使うような、前で締め付ける形のものだ。

「お、来客ですか?」

「お嬢様、豊松です。旦那様に言われて勿怪祓いの方々をご案内いたしました。烏天狗からすてんぐのおはるさんと、そのお仲間で赤城清司郎あかぎせいしろうさま、谷川源之助たにがわげんのすけさまです」

 豊松が三人を紹介すると、お三智は清司郎たちをしげしげと眺めた。

「うーん、本当にこんな人たちで勿怪を祓えるのです? 和尚様でもなにもできなかったのに」

「和尚様って、檀那寺だんなでらのですか?」

 お榛がたずねると、お三智はこくりとうなづいた。

「そうなのです。勿怪が現われるようになってすぐに和尚様にご祈祷きとうをお願いしたのですが、まったく通じなかったのですよ」

「なるほど、それであたしたちにお鉢が回ってきたってわけか……。ご安心ください。勿怪はあたしたちが必ず祓ってみせます」

 お榛はどんと胸を張って言い切った。

「それは頼もしい……では、だめもとでお願いするのです。豊松、決して目を離してはなりませんよ」

「はい、かしこまりました」

 豊松に引き続き目付を申しつけると、お三智は障子を閉めて座敷に戻ってしまった。

 清司郎はため息をつく。

「なあ、あれは一体どういうことなんだ?」

「表向き長患ながわずらいの療養でここに来てるってことになってるんだから、できるだけ外に顔を見せない方がいいのよ、きっと」

 お榛はきょろきょろとあたりを見回した。

「さて、それじゃあ水虎すいこを祓う用意をしましょうか。たぶん、水虎は水の手から現われる……井戸はない?」

 清司郎もあわてて探してみると、はたして井戸はあった。

 庭のすみ、山茶花の木に埋もれるようにして、古い井戸が一つだけあった。いまでも使われている証に、井戸には真新しい板で蓋がされており、そばに置かれた釣瓶の中はまだ少し濡れていた。

「こいつは掘り抜き井戸だな。水虎のようなでかいやつが入ってこられそうか?」

 谷川が蓋を開けて中を確かめた。

「大きさがどうだって、あいつらはどうにでも入ってくるよ。なにしろ、肩を外せるんだから」

 お榛の言うように、河童には肩が外れても平気なものや、腕を切り落としてもすぐにくっついてしまうものがいる。水虎もまた、その程度のことはたやすくやってのける勿怪だった。

「うーん……それじゃあ、まずは井戸から入ってくると考えて、若先生はそっちの山茶花の影に隠れてて。で、谷川はもっと家に寄ったところね」

「お榛はどうするんだ?」

「あたしは、お三智さんと相談して決める」

 お榛はいたずらを思いついた子供のように「にっ」と笑った。

「それから、庭の中に入ったら姿が見えるように、穏形術おんぎょうじゅつ破りの御札を四方の板塀に貼るよ。はい、若先生はこっちお願いね」

「お、おう……」

 清司郎と谷川が御札を貼って戻ってくると、お榛は錫杖しゃくじょうで地面を突き、目を閉じてなにか呪文を唱え始めた。

 あまりにも声が低く、小さいため清司郎には呪文としか聞き取れなかったが、以前、お榛はこれを天狗の神通力で地脈に訴えているのだと言っていた。

 しばらくすると、塀に貼った御札がわずかに燐光りんこうを帯びて妖しく光りはじめた。

「これで、よし。水虎が入ってきても、姿を隠すことはできないはず」

 すでに、夕闇が近付いていた。

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