幕引き

第46話 侍の星はまだ光らない

「して、残るはそれだけか」


 プラスチックの座卓の上に、鶴屋はそっと隕石を置いた。手元の湯呑みから立ち昇る湯気が、赤褐色を霞ませる。


「でも、やっぱりこれは考えなくていいような……」


「否、それはならぬ」


 座卓の対面で腕を組み、コジロウは大きく首を振った。長い黒髪が、頭の後ろでゆらゆら揺れる。窓から差し込む陽光が、二枚目顔を淡い黄色で照らしていた。肩を竦める鶴屋に向けて、侍は厳かに声を続ける。


「先の課題に関わる品には、すべからくけじめをつけねばならぬぞ」


 *


 廃ビルで迎えた決着の翌朝、コジロウの家にひとつの小包が届けられた。怪しげな配達人に渡された、差出人の分からない小包。


 ふたりでさんざん躊躇ってから戦々恐々開いてみると、そこには総長に献上した品々が折り目正しく収まっていた。瓶詰めにされた青いバラ、蟻の入った琥珀の指輪、中身の見えない重たい小箱……苦々しくも馴染み深いそれらに、ふたりは安堵の息をついた。


 これらを持ち主に返しに行こうぞ。コジロウがそう言い出したのは、その日の夕方のことだった。困惑をまったく隠せない鶴屋を、彼は引きずるように連れ出した。


 これまでの課題に関わった者たち、彼らから奪った品物を返し、謝罪するのだとコジロウは言った。それはこちらも相手も気まずく、そのうえ危険で自己満足だと引きずられながら鶴屋は言ったが、侍はまるで聞く耳を持たない。そして結局その晩は、裏路地を歩き通すことになった。


「お前ら、本物の馬鹿だったんだな」


 コジロウが事情を説明すると、マントルはそう言って眉をひそめた。ローテーブルに置かれたバラを、瓶越しに柔らかく撫でる。


 彼の右手の指はみな、正しく曲がるようになっていた。あの後自分で闇医者を呼び、きちんと治療を受けたのだという。指のギプスを外せたのは、つい数日前のことらしい。言われてみれば動きは少しぎこちなかったが、使っていけば徐々に回復していくのだろう。


「治療費のせいで大赤字だからな。底辺なりに働いて、ちょっとでも取り返すしかねぇよ」


 卑屈に笑って語りながらも、マントルはバラを見つめていた。弾丸が掠めた太腿を、彼は時折静かにさすった。今のところ、殺しの依頼は来ていないそうだ。


「えーっ? わざわざ返さなくてもいいのに!」


 本物の指輪を差し出され、ニーナはキョトンと目を丸くした。だが結局は、遠慮の見えない手つきで受け取る。店の外に立つ彼女の側には、ミヅキもアサヒコもいなかった。


 三人の店は、近く閉店するらしい。閉店っていうか潰れちゃうの、とニーナは笑った。元々店の経営は危うく、あの夜集めた二十五人は、再起をかけた「イベント」用の人員だったらしい。が、イベントの客側に起こったトラブルが収まらず、計画そのものが立ち消えになった。


 そのままの経営状況では二十五人を抱えられず、結局女性らは全員解放。あれよあれよと店は傾き、ミヅキとアサヒコは今、閉店の準備に追われているようだ。それが済んだら総長から、何らかの処罰を受ける予定になっている。


「これからどうなるか分かんないけど、もうお店はやりたくないなー。ミヅキとアサヒコとのんびりして、あ、犬飼ってみたいかも!」


 ニーナが語ったところによると、イベントを潰したトラブルとは、客側組織の幹部が銃撃されたことらしい。敵対グループのリーダーが、外部の人間を金で雇って撃たせたという。


「撃った人、手の指全部折られちゃったって噂だよ」


 ヘラヘラと笑うニーナの前で、顔を見合わせるコジロウと鶴屋。そんなふたりに手を振って、ニーナは店に戻っていく。その中指ではもう既に、本物の指輪が光っていた。


「それは絶対、やめたほうがいいです」


 小箱を手にするコジロウの袂を、鶴屋は全力で引き留めた。侍はあろうことか、溝口の右目を遠近に返そうと言い出したのだ。あの夜の有り様を覚えていないのか、謝りに行くより、曖昧に留めるほうがよほど誠実だ……と必死の説得を重ねると、コジロウもやがて頷いた。


 小箱は今、六畳一間に置かれた棚の最奥に仕舞われている。小箱の蓋を開けてみる勇気を、鶴屋はついに出せなかった。


 *


 そして現在。謝罪回りを終えた翌日の、午前九時半。ふたりは最後に残った一品、「星の欠片」の処分を話し合っていた。


「だから、コジロウさんが持つのが一番、自然ですよ」


 白湯を啜りつつ、鶴屋は隕石を見下ろした。でこぼことした表面には、もうあの機械はついていない。廃ビルから帰宅してすぐ、コジロウが金槌で割ったのだ。隕石も割れてしまうのではと鶴屋は心配していたが、案外上手くいくものだった。もっとも、この隕石が割れたところでもう問題はないはずなのだが。


「それを言えば、おぬしが持つほうが自然であろう。おぬしの長屋を壊した石ぞ」


 侍はそう言い、どういうわけか口を尖らせた。鶴屋は昨夜から「コジロウさんが持つべき」と主張していたが、なぜか頑なに拒まれる。結論が出ないまま眠りについても、目覚めて着替えを済ませても、それはまったく変わらなかった。


「そう、ですけど。でもそもそも、コジロウさんに『譲る』って話だったでしょう」


「そうかもしれぬが、おぬしがずっと持っておったろう。となればもはや、これはおぬしのものと言える」


「いやそれはただ、同じ課題をやろうとしてたから」


「そうであっても、それがしが持っておったところで、その石は光りもせぬのだぞ! おぬしの手でなら輝くというに」


 コジロウはフンと鼻を鳴らして、湯呑みをチビチビと傾ける。その猫背と不機嫌な顔から、鶴屋はなんとなく彼の心情を読み取った。


「……もしかして、拗ねてます?」


 対面の顔は何も答えず、閉じた唇をモゾモゾとさせた。図星、と思っていいのだろうか。コジロウのあまりの面倒くささに、鶴屋は思わず苦笑する。覚悟の決まった目を向けられるよりよっぽど良いが、これもなかなか付き合いづらい。


 どんな言葉で宥めたものか悩みつつ、またズルズルと白湯を啜る。と、曇った眼鏡の向こうから問いが投げられた。


「おぬしはこれから、どうするつもりだ」


 湯気の中から顔を上げる。レンズの曇りが徐々に晴れ、コジロウの顔が露になった。侍は左へ目を逸らし、気まずそうに眉を下げている。真剣な雰囲気を肌で感じて、鶴屋は思わず正座した。昨日から漠然と考えていたことを、緊張に抗って口に出す。


「と……とりあえず就活、続けようかな、と。それで無理だったらまぁ、バイト見つけて食いつなぎつつ、また就活……あ、それとやっぱり、ちゃんと家探しもする、つもりです」


 はい、と語尾に付け足してから、口を閉じる。言葉にするとやはり気は重く、背中が丸まった。


 が、決意を鈍らせるわけにはいかない。なにせ天使にも、七万円を支払わなくてはならないのだ。


 昨夜の謝罪回りの後、ふたりは天使の元へ向かった。鶴屋もコジロウも、位置情報の受信用端末を借りていたからだ。


 裏路地の技術者は二台のスマートフォンを受け取り、呆れたように首を竦めた。そして鶴屋を右手で招くと、こう耳打ちしてきたのだった。


「僕から逃げられると思わないこと」


 その言葉に、鶴屋は黙るしかなかった。


 強くなんてなりたくない。弱いままでいられるならそれが一番だ。鶴屋のそんな情けなさは、まだまだなくなっていなかった。就活はやっぱり怖くてならず、内定を取れる自信もない。家探しにも時間はかかるし、体力がもたないかもしれない。未来にあるのは不安ばかりで、希望はほとんど見いだせなかった。


 しかしそれでも、ときには強くならねばならない。日頃どれだけ弱くても、せめてここぞというときにだけは、なけなしの強さを見せねばならない。あの課題たちに立ち向かう中で、それを痛いほど実感したのだ。


 自分が強くなるべきかどうか、鶴屋にはまだ分からない。それでも今は、強さを見せるべきときだ。本当は弱いままだとしても、どうにか前に進むべきときだ。そうすることで、自分の罪にも少しは責任を負えたらいい。そう思った。


 鶴屋さんは、戦ってるからです。阿潟の声を思い出す。あれは間違いかもしれない。それでも彼女が認めてくれたなら、きっと自分は、戦える人でなくてはならない。鞄に入れたチョコレートをどうするかは、未だに決められていないけれど。


「左様か」


 コジロウはそう言って、静かに湯呑みを傾けた。逸らした視線を鶴屋に戻し、瞼をゆっくりと閉じて、開く。それから大きく頷くと、彼は隕石をがしりと掴んだ。


「分かった。ならばそれがしが、しかと預かろう。この長屋から去ろうとも、いかほどに就活が忙しくとも、いつでも隕石を光らせに来るのだぞ」


 不自然に威厳のある声で言いつつ、侍は隕石を握り込む。鶴屋が「はい」と答えると、彼は一瞬口角を上げ、また下げた。眉間に深いシワを寄せ、視線を左右に泳がせてから、ジトッとした目を正面に向ける。卑屈な目つきで睨まれて、鶴屋は思わずビクリとした。


「おいおぬし、まことだな? この家を出ても、まことにここへ来るのだな?」


「え? ちょっと、な、なに心配してるんですか」


「いいから答えぬか。必ず来るな? 来るのだぞ、隕石はいくらでも触らせてやるゆえ」


「いや、そりゃ来ますよ。ていうか、隕石は別に触らなくていいし」


「何っ!? おぬし、隕石の光などどうでもよいと言うか!」


「は、はぁ? 違いますよ、そんなのなくても普通に来るって言ってるんです!」


「なっ、ふ、普通に!?」


「普通にですよ! そういうもんでしょたぶん、トモガラ、って……」


 無意味に熱くなりかけた場が、鶴屋の言葉で急速に鎮まる。ふたりはそれぞれ明後日の方向に視線を逃がし、咳払いした。


 トモガラ、という響きは重く、鶴屋の心にはまだ馴染まない。思い出すたび、口にするたび胸に湧き起こるあたたかさに、肌だけでなく内臓までもがむず痒くなる。生まれて初めての友達なのだと意識すると、コジロウの顔を直視することすら難しくなった。


 こんなことで、この先やっていけるのか? これもまた不安要素だが、立ち向かってみるしかなかった。


 とはいえ気恥ずかしさは消えない。自分の照れにも、座卓の向かいから伝わる照れにも耐えられなくなり、鶴屋は奥歯を噛みしめる。と、突然、コジロウがバンと座卓を叩いた。


「そっ、そうだ、良いことを思いついたぞ! せっかく決着がついたのだ、ここで一発それがしが、星の欠片を光らせてみせようではないか!」


 芝居がかった大音声に、鶴屋は視線を戻す。侍は妙な汗をかきつつ、混乱を如実に表した笑顔で鶴屋を見ていた。照れ隠しにしても意味不明だが、流れを止める勇気もない。鶴屋も座卓に身を乗り出して、謎のファイティングポーズを取る。


「いっ、いいですね。今なら光るかもしれないですし、や、や、やってみてください!」


「うぅう、うむ、いくぞぉ! これまでも、時折おぬしの目を盗んでは光らせようとしておったゆえな! その努力が今ここで、実るやもしれぬ!」


「えっ、そんなことしてたんですか?」


「よぅし! とくと見ておれぃ!」


 鶴屋の疑問を完璧に無視して、コジロウはその場に立ち上がる。長身の侍を見上げつつ、鶴屋はいつかの夜を思い出した。大学に行った日、シャワーを浴びて風呂場を出た後。明らかに隕石を触っていたのに、それをアタフタと隠したコジロウ。あのとき彼は、隕石を光らせようと試みていたのか?


 混乱を深める鶴屋の前で、コジロウは隕石を高く掲げる。そして猫背を無理やり正すと、張りのある声で名乗りを上げた。


「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは裏路地を駆ける一陣の風、日の本最後のまことの侍、その名も、コジロウなるぞぉ!」


 骨ばった親指が、隕石の表面をさらりと撫でる。一度、二度、指先が往復するごとに、部屋の沈黙は温度を下げた。壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と冷えた静けさを強調する。


 三度、四度、親指が動く。鶴屋はごくりと唾を飲む。五度、六度、コジロウが口角を引き攣らせる。七度、八度、湯呑みの湯気が薄くなっていく。九度、十度、十一度、十二度、秒針の音は決して止まらず、窓からの光は柔らかく、どこからか小鳥の鳴く声がして、隕石はまったく、これっぽっちも、悲しささえも感じないほどに、光らなかった。


「……是非もなし」


 打って変わって小さな声で、コジロウはそう呟いた。きまり悪そうに腰を下ろし、座卓に隕石を戻す。鶴屋までいたたまれなくなって、水に近づいた白湯を啜った。チュンチュンと小鳥の声は続き、カチカチと秒針の音も続き、やがてクスリと笑い声がした。


 おそるおそる、目を上げる。コジロウは片手で頭を抱え、眉を八の字にして笑っていた。くつくつと笑いに震える肩は、すっかり困り果てているようにも、どこか楽しんでいるようにも見える。キョトンと驚く鶴屋に向けて、彼は笑ったまま言った。


「ま、精進せよということであろう。ツルヤの認めに胡坐をかかず、まだまだ強さを目指せ、とな」


 自分も笑っていいのかどうか、鶴屋にはよく分からなかった。それでもひとまず、笑っておく。湯呑みをそっと座卓に下ろすと、なんだか本当に楽しくなってきた。


「やっぱりまだ、強くなりたいんですか?」


「無論よ! おぬしという輩を得て、それがしは再び高みを目指すぞ! もっとも、此度ほど事は急かずにな」


 カッカッカ、と高笑いして、コジロウは大きく伸びをした。黒い瞳が淡い陽光を反射する。その弱々しい反射光を見て、鶴屋も腕をぐいっと伸ばした。曲がった背筋が真っ直ぐになり、腕を下ろすとまた曲がる。それがどうしようもなく爽快で、逃れられないほど心地よくて、なんだか少し怖かった。


「のう、ツルヤ。ひとつ頼みを聞いてくれぬか?」


 ニヤリと白い歯を見せて、コジロウはまだ笑っている。鶴屋も笑顔を保ったままで、「何ですか?」と訊き返した。すると唯一のトモガラは、照れくさそうに胸を張る。陽光の満ちる六畳一間に、彼の「頼み」はふわりと響いた。


「美味い唐揚げを、それがしにたらふく食わせてくれ!」


 コジロウがフフンと鼻を鳴らす。鶴屋は丸く目を見開いてから、心に任せてもう一度笑った。白湯を飲み干して、立ち上がる。


「俺、ほとんど自炊しないですけど」


「何っ? それはちと恐ろしいな」


「いや、まぁ……美味くなかったら今度、再チャレンジで」


「美味くない唐揚げを、それがしは幾度食えばよいのだ……?」


 ふたりはそう言い合って、座卓に隕石を置いたまま、台所へと歩き出す。


 この隕石が何だったのか、この隕石とどう向き合うべきだったのか、鶴屋には分からないままだ。もしかするとあのまま、銀色の光が導くままにひたすら強さを目指していれば、内定を得られていたかもしれない。今も望んでやまないものを、既に手にできていたかもしれない。


 けれどその先で笑えたかどうかももう分からなくて、とにかく今は、美味い唐揚げを作る方法で頭がいっぱいになっていた。


 小鳥が窓の外で鳴く。壁掛け時計の秒針が鳴る。コジロウがかすかに鼻歌を歌って、鶴屋は冷蔵庫を開けた。

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侍の星は光らない 山郷ろしこ @yamago_

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