第44話 貼りつけられた証

 鶴屋はようやく、当初の目的を思い出す。コジロウを認め、ほんの少しでも心を揺らがせ、阿潟を解放させる。課題への執着を緩ませる。それが鶴屋の計画だった。そのために、この廃ビルまでやって来たのだ。


 その第一歩を今、やっと踏み出せたのではないか。コジロウは明らかに動揺している。自分の承認にも意味があるのだと、それが証明しているのではないか。自分の本心からの言葉で、彼の心を揺らせるのだと。


 ワイシャツの下で、肺がじわりと柔らかくなる。


「あ、あの、コジロウさん」


 緩んだ肺の動きに合わせて、また口を開いた。グリップを強く握ったまま、正面に立つ侍を見つめる。と、着物の肩がわずかに上がった。コジロウの緊張を確認し、まったくの無策を携えて声を繋げる。


「コジロウさんって、誰に、認められたいんですか?」


 侍が息を呑むのが分かった。だが鶴屋にも、返答を待てるほどの余裕はない。唾を飲む。冷えた、埃っぽい空気を吸い込む。


 こんな風に言葉を発したことはないから、きっと、不器用な響きになるだろう。しかしそれでも、これを言わなくてはならないのだ。


 全身を満たす弱さを押し退け、言葉を、送り出す。


「お、俺が認めるだけじゃやっぱり、足りませんか?」


 柱に、梁に、錆びついた窓枠に、声はかすかに反響した。


 びり、と痺れるような余韻が、鶴屋の鼓膜をくすぐって消える。両手に構える銃身の奥に、向けられた暗い銃口の奥に、コジロウの顔を見た。


 侍はその目からも口からも力を抜いて、呆然としたように鶴屋を見ている。そこに喜びは窺えず、かといって怒りも悲しみも感じられなかった。鶴屋は焦る。志望動機を語った後よりはるかに強烈な焦りと祈りが、空気の抜けた肺に溜まっていく。


「ふざけるな」


 侍の口が、ぽつりと呟いた。ふざけるな、ともう一度繰り返し、下唇がわなわなと震え出す。銃を構える指先が、力を籠められて白くなっていた。


「おぬしに認められたとて、それがしに何の得がある? わずかな力も持たぬおぬしに、おぬしひとりに認められて、それがしが喜ぶと思うたのか?」


 自惚れるな。そう吐き捨てる語気は強かったが、鶴屋の恐怖はそれほど大きくならなかった。侍の唇と共に震え、下を向いては戻される銃口が見えているからだ。


 さきほど下がった一歩のぶんだけ、鶴屋は足を踏み出した。銃口が近づき、閉じそうになる瞼を無理やり見開く。怖くない、怖くない、と、自分自身を内心で宥める。


「思ってない、です。こんなことであなたが喜ぶなんて、正直」


 本心を語ると、声は上擦った。プレッシャーは重く、焦りも恐怖も消えそうにない。それでも、かすかな手応えと希望に縋って侍を見据える。


「でも喜ばなくても、コジロウさんはたぶん揺らいでくれると思うし……俺が今、それをやらなくちゃいけないんです。その、自惚れですけど、俺にもこれはできるんじゃないかって思うから」


「なにゆえだ?」


 下唇を震わせたまま、コジロウは目だけで嘲笑した。はっ、と弱々しい笑い声が、鶴屋を圧し潰そうとする。


「なにゆえ、そう思える? おぬしごときの言葉なんぞで、なにゆえそれがしの心が揺らぐと? 片腹痛いわ。先の諍いをもう忘れたか? おぬしとそれがしは所詮、相容れぬ者同士であったのよ。我らはもはや、刃を交え合う敵同士……」


「でも、撃たないじゃないですか」


 圧力に抗って声を遮り、鶴屋は後悔する。こんなことを言っては、発砲を煽ってしまうのではないか? 怖くない、の呪文を恐怖が押し返す。侍はその目から、嘲笑の色を消していた。目の前の引き金が引かれる前に、鶴屋は早口に続ける。


「う、撃たないで、こうして話してくれてるじゃないですか。前の質問を繰り返して、間を埋めようとしてくれてるじゃないですか。俺全然コジロウさんのこと分からないですけど、本当に敵だと思ってるならもっと早くに撃つと思います、たぶん。で、でも、撃たないでくれてるし。それに阿潟さんのことだって」


 コジロウが下唇を噛む。まだ引き金は引かれず、鶴屋も言葉を止められなかった。追い詰められた状況のせいか、妙に頭が冴え始める。


「阿潟さんのことだって、差し出さないでいてくれた。たぶん阿潟さんが、俺の……し、知り合い、だからですよね。それって俺を、少なくとも、敵ではないって思ってくれてるから、じゃないんですか?」


 向けられた銃口は震え続けている。草履の音が聞こえ、侍の顔が遠のいた。下唇が解放されて、噛みしめられた歯が見える。


「やめろ」


 そう拒絶する発音は、強張っていた。硬い響きに、鶴屋は侍の感情を悟る。


 コジロウの内心には、いつも追いつけないでいた。ときどき裾を掴めても、その直後にはもう、手の中をするりと抜けられてしまう。しかし今度は、決して離さないように食らいついた。少しずつ、少しずつ、想像上の背に近づいていく。そのうちに、やがてその影が輪郭を結ぶ。


「あの公園に、行ったとき」


 結ばれた輪郭に焦点を合わせる。その合わせ方が間違っていても、裾の感触が気のせいでも、もう構わなかった。ほとんど使い切ってしまった勇気と、銃口に対する恐怖を原動力にして、思考をコジロウにぶつけていく。


「あのとき、わざわざ俺と話したのは、俺にあんな質問したのは、覚悟を決めるためだったんじゃないですか。あんな不幸自慢みたいなことしたのは、俺とちゃんと対立、するためだったんじゃないですか? でもそれでも、今もまだ覚悟、決められないでいてくれてるんです、よね」


「やめろと言うておろうが」


「さっきだってあの質問、同じですよね。俺をちゃんと、撃とうとして」


「やめろ!」


 一際大きく揺れた銃口が、鶴屋の額を捉えてぴたりと、止まった。鶴屋の喉が情けなく鳴る。恐怖が恐怖としての役割を取り戻し、声帯を縮こまらせた。浅くなる呼吸を感じながら、銃口の暗闇の向こうを見る。


 コジロウは唇を噛んでは離し、噛んでは離ししながら、言葉を探しているようだった。離された唇が大きく開き、また閉じる。彼は決して、鶴屋と視線を合わせなかった。


「証はあるのか」


 そして離した唇から、声が絞り出される。


「今のはおぬしの、単なる憶測であろう。そうだ、妄想と言うても良いほどよ。左様なものでそれがしは動かぬぞ。それがしを動かしたくば、あ、証を見せてみよ。それがしがおぬしのために、躊躇しておるという証……それがしがおぬしを、敵だと思うておらぬ証を。のう」


 言い終えた唇は不敵に笑い、また噛みしめられた。廃ビルのエントランスに、沈黙が戻ってくる。が、鶴屋は静けさを感じなかった。耳に残る「あかし」の響きが、心臓を激しく脈打たせている。


 証。そんなもの、ひとつも思いつかなかった。向けられた銃も、阿潟を縛る麻縄も、鶴屋を打ちつけた物干し竿もすべてが、ふたりの対立を表している。コジロウの一挙一動やこの停滞した状況も、憶測でしか説明できない。


 今度は、鶴屋が銃を震わせる番だった。分からない、分からない、分からない。焦りが皮膚の下を這い回る。コジロウの輪郭は見えているのに、前に進めない。


 そして鶴屋はふと、背中に刺さる総長の視線に意識を向けてしまった。振り返らなくても感じられる、凪いだ、それでいて射るような視線。鶴屋を試す視線。会議室の机を挟んだ、面接官の顔を思い出す。興味などまるでなさそうなのに、こちらのすべてを見透かそうとする、あの視線。


 いつもあの目で弱さを見られて、「今後のご活躍」を祈られてきた。きっと他に良い居場所があるよと、あらゆる場所が鶴屋を拒んだ。「ご活躍」の場も、そのための力も、鶴屋は持っていなかった。


 結局、と冷めた言葉が、頭に浮かぶ。結局、ここでも駄目なのか。誰かの求めに応えられそうで、自分自身を信じられそうで、弱いなりに少しだけ、自分にできることができそうだった。それでもやっぱり、足りないのか。弱い自分にできることなんて、結局ひとつもないということか。


 後ろ向きな音が胸に響く。ひどく馴染み深いそれは、心にある種の安心をもたらした。勇気を奮うのには慣れないが、この感覚には慣れている。疲れて家に帰った夜、贅沢して湯船に浸かったときのように肩から力が抜けていく。そうかやっぱり、できないのか。弱い自分にできることなど、結局初めからひとつもないのか。


 違う、違う、こんなところで諦めるな。どこからか引き留める声がして、だがそれに耳を傾けるには、鶴屋は疲れ果てていた。ここで終わっていいのなら、こんなにありがたいことはない。目の前の銃口から弾丸が放たれるときを、黙って待っていればいいのだ。


 死ぬのも怖いが、その恐怖なら一瞬で済む。そうだ、それでいいじゃないか。それができれば楽じゃないか。ここですべてを諦めてしまえれば、無理して強くならなくたって。


 グリップを握る指から、硬い床を踏みしめる足から、少しずつ力を抜いていく。視界が霞み、感覚が麻痺して痛覚を失い、想像上の裾を離そうと手を緩め、


「あの」


 と、芯のある声を聞いた。


 予想外の位置からもたらされた音に、霞む視界のピントが戻る。中央に映る侍は、見開いた目を鶴屋の背後に向けていた。鶴屋も振り返る。


 モノクロの景色、錆びたシャッターを背景にして、阿潟がふたりを見つめていた。総長に腹を押さえられたまま、それでも彼女は強い意志を、ほっそりとした頬に宿している。総長も静かに阿潟を見下ろす。しかしそれでも、阿潟は怯む様子を見せない。


「これ、見てください」


 凛とした口調が続く。彼女の意図を、鶴屋はまるで読み取れなかった。おそらくはコジロウも、総長でさえも同じだろう。自分を攫った侍と、自分を攫わせた謎の女と、自分をなかなか助けられない同級生の視線を一身に受け、彼女はふぅと息を吐いた。そして音もなく、縛られた両足を開く。


 小さく開いた両の足首。その間には、三センチほどの隙間があった。巻かれた麻縄はぴんと張っているが、阿潟の表情は涼しいままだ。両足に、無理な力が入っているようには見えない。


「この縄、緩いんです」


 そして発された一言が、彼女の行動のすべてを説明してみせた。


「逃げ出せるほどじゃないですけど、縛られたときからずっと、緩いです。手も縛られてるし、ずっと近くで見張られてたので、緩めることはできませんでした。手のほうはもうちょっときついけど、それでも緩くて痛くはないです。それと、最初に気絶させられただけで、目が覚めてからは暴力も暴言もありませんでした。最初に殴られたこめかみ以外、痛むところもありません。あと……これが、『証』って言えるかは分からないけど」


 まくし立てるようにそう言うと、阿潟は大きく頭を振った。艶のある黒髪がなびき、乱れる。それから彼女は慎重に、首を傾げた。右耳を覆っていた髪が、左に向かってはらりと、落ちる。


 露になったこめかみは、茶色い膜に塞がれていた。


「目が覚めたらなんか、貼りついてるような感触があって。これたぶん、絆創膏ですよね?」


 阿潟が指摘した通り、それはどこからどう見ても、絆創膏だった。溝口にナイフで刺された後、鶴屋の額に貼られたものとまったく同じだ。


 鶴屋はそれを眺めてから、ゆっくりと首の向きを戻す。深緑の肩、ボサボサの長髪、青白い頬を通り過ぎた先で、動きを止める。


 コジロウは幼い子どものように、二枚目顔を歪ませていた。

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