第14話 貧乏くじにベルが鳴る

 カチ、カチ、カチ、カチ。壁掛け時計の秒針に急かされ、布団にぐるりとくるまり直す。カチ、カチ、カチ、カチ。壁掛け時計の秒針に邪魔され、眠りに落ちることができない。


 布団の中から手を伸ばし、床に置いたスマートフォンを引き寄せる。電源を入れるとブルーライトに目を焼かれ、代わりに時刻を知らされた。午前三時二十六分。布団の外へ手を出して、再び画面を床に伏せる。


 布団に入って二時間半。鶴屋は少しも眠れておらず、これから眠れる気配もなかった。心も体も疲れているのに、瞼を閉じても少しも心地よくならない。コジロウの家に来て二週間ほど。客用布団の寝心地にだってすっかり慣れていたというのに、今夜は初日の夜よりずっと枕が頭に馴染まなかった。


 隣に並べた布団からは、グースカと侍の寝息が聞こえる。それが無性に腹立たしくて蹴りでも入れてやりたかったが、さすがに良心が咎めた。布団の中でモゾモゾと膝を折る。


 琥珀の指輪を手に入れたふたりは、ぼんやりとしたまま帰路を進んだ。そうして「長屋」へ帰り着き、履物を脱いで一息ついて、順に入浴を済ませたところで、コジロウだけが普段通りの……いや、普段以上のテンションを取り戻していた。琥珀の表面を指で撫で、蟻とうっとり見つめ合い、突然くつくつ笑い始めて、「ようやったなぁ!」と鶴屋の頭をわしゃわしゃ撫でる。


「何はともあれ終わり良ければすべて良し。この指輪を総長が認めてくだすったなら、それで我らは大団円よ」


 侍の上機嫌に、鶴屋はついていけなかった。「明日の朝、直ちに総長に謁見しようぞ」弾んだ声に頷きながらも、胸に湧いてくる喜びはひどく頼りない。


 総長の課題を達成することは、内定に一歩近づくということ。鶴屋はそれを信じているし、それが嬉しくないはずはないのに、喜びは弱いままだった。総長に会うのが怖いとか、あの指輪が認められるかどうかとか、そんな不安のせいではきっと、ない。


 ―他人の強さを借りたいんなら、相応の力と覚悟で挑め。


 ごろりと寝返りを打つと、遠近の声が蘇る。力も覚悟も、自分には全然足りていない。そう確かめて、再びごろんと元の位置に戻った。


 総長の課題を達成する。そしてまた、新たな指令を下される。指令を下されて、また課題をこなして、裏路地の奥へ踏み込んでいく。それが心底、怖かった。


 鶴屋はただ、内定がほしいだけなのだ。人並みに価値を認められて、人並みに社会に溶け込んで、集団の力を借りて強くなりたいだけなのだ。裏路地を生きる「本当に強い人間」になんて、なりたいと思ったこともない。仮に思っても絶対に、なれない。


 このまま進んでいくことで、自分の望みは叶うのだろうか。


 カチ、カチ、カチ、カチ。壁掛け時計の秒針が、鶴屋の焦りを爪で撫でる。カチ、カチ、カチ。その音をどうにか掻き消したくて、鶴屋は膝で上掛けを蹴った。バサ、と布の音が消える前に、もう一度膝で蹴り上げる。バサ、バサ。それでも焦りは消えず、運動に体が熱を持って、眠りからさらに遠ざかっていく。


 バサ、バサ、カチ、カチ。グースカグースカと寝息も続く。そうして一時間ほどが経った気がして、膝を止めた。疲れた呼吸を整えながら、再びスマートフォンを手に取る。眠れないなら、いっそ徹夜してしまいたい。一刻も早く朝日を浴びて、停滞した時間に終止符を打ちたかった。


 が、液晶が示す時刻は午前三時四十二分。さっき確認した時点から、十六分しか経っていなかった。鶴屋は深く溜め息をつく。呆然として画面を見つめるが、やはり六十秒おきにしか数字は増えていかなかった。


 もう一度溜め息をついてから、液晶の光を消そうとする。と、ひとつの通知が時刻表示の下に灯った。就活用にとダウンロードした、無料のニュースアプリからだ。視力の低い目を凝らしてみると、メジャーリーグで日本人選手が何かの記録を打ち立てたという、なんてこともない速報だった。


 こんな華やかな世界もあるのに、と自虐の感情を刺激されつつ、通知をタップしてアプリを開く。ブルーライトが入眠を妨げるとは知っていたが、今の鶴屋はほとんど自棄を起こしていた。


 アプリが起動し、「ピックアップ」の一覧が表示される。ずらりと並んだ見出しの先頭に、メジャーリーグの記事はあった。それはスルーして下へ下へとスクロールしていく。スポーツに政治にローカルニュース、どれを読む気もなかったが、単に何かを両目に映していたかったのだ。


 今日、昨日、一週間前、九月頭から八月終盤……日付をずんずんと遡り、八月中旬でふと、指が止まる。


『夏の宝くじ、当選発表でワクワク!』


 やけに浮かれたその見出しに、記憶をつつかれる。講義室のうるささと、気だるげな横顔と、淡々とした声が脳裏に蘇った。


 隕石にぶつかる確率って、宝くじの一等に当たる確率よりも高いんでしたっけ。


 阿潟の声を思い出し、あのときもっと上手く会話ができていたら、と無意味な後悔に襲われる。と同時に、隕石でなく宝くじに当たれれば良かったのに、と無い物ねだりした。俺が隕石に家を潰される一方で、どこかの誰かは宝くじの一等を当てているのだ。


 衝動的に見出しを叩く。記事によれば、一等賞金はなんと十億円だという。仮に鶴屋が内定を得て、サラリーマンとして一生働いたとしても、到底稼げない金額だろう。それをこの日本のどこかの、おそらく鶴屋の知らない誰かが、たった一日で我が物としたのだ。そんな恵まれた人間がこの世に存在していることを、到底受け入れられなかった。どこの誰だ、そんな羨ましい奴は。


 嫉妬心に襲われ、スマートフォンを放り出す。勢いのまま布団にくるまるが、六畳一間は変わらずうるさい。カチ、カチ、カチ、カチ、グースカグースカグースカグースカ、ふたつの音と焦りと嫉妬、それとブルーライトを浴びた眼球が鶴屋の眠りを阻害する。叫びたくなるのを必死に堪えているうちに、ガン、と異質な音に気づいた。


 ガン、ガン、ガン。音は一定のリズムで繰り返される。鶴屋は布団から頭だけを出し、枕元に置いた眼鏡をかけた。ガン、ガン、ガン。リズムに急かされ、部屋を見回す。どうやら、音は玄関から聞こえてきているらしかった。ガン、ガン、ガン、ガン。執拗に、玄関扉が叩かれているのだ。


 鶴屋は布団を跳ねのけて、上半身を起こした。ガンガンと音は続いている。湿った恐怖に寒気を感じ、借り物の浴衣の前を合わせる。こんな時間に、一体誰が? ガン、ガン、ガン。衝撃に震える玄関扉を見つめたまま、隣の布団へ右手を伸ばす。


「こ、コジロウさん、コジロウさん」


「んぁあ?」


 布団ごと体を揺さぶると、寝息がぴたりと収まった。代わりに凄むような声で呻いて、侍は細く目を開く。


「なんだ、こん……かような、夜半に」


 掠れた文句の後「うっ」と咳き込もうとするので、鶴屋は慌ててその口を押さえた。シーッと人差し指を立てる間も、玄関から音は響き続ける。そこでようやく気がついたのか、コジロウは眉間にシワを刻んだ。鶴屋は早口の小声で言う。


「だっ誰か、来てるんです。さっきからドアが叩かれてて」


 コジロウは視線だけを返し、注意深い所作で起き上がった。そのままのっそりと立ち上がり、浴衣を軽く整える。そして鶴屋を見下ろすと、やっと明瞭な声を返した。


「かような客もたまさか来おる。そう物怖じするでない」


 その言葉は、コジロウ自身に言い聞かせているように聞こえた。しかし否定することもできず、鶴屋は黙って首を縦に振る。コジロウも小さく頷き返すと、ぺた、と裸足で布団を降りた。


 ぺた、ぺた、カチ、カチ、ガン、ガン、ガン。重なる音の中、頼りない足取りで玄関へ向かう背を鶴屋は見ている。座っているのも落ち着かず、立ち上がって部屋を見回した。いざというときの隠れ場所を必死に検討していると、座卓の上で視線が止まる。


 伏せられたガラスコップの中に、琥珀の指輪が収まっている。真っ暗な部屋に置かれてもなお、その緑色はキラキラ輝いているように見えた。


 美しいもの、自分とコジロウの人生を、左右するかもしれないもの……。真っ白な蟻と目が合って、瞬間的な焦燥に駆られる。衝動のままガラスコップを掴み上げたとき、ふたつの音が鶴屋の鼓膜を震わせた。


 ひとつは「ぉわっ!」とコジロウの声、もうひとつは、こちらに迫る無遠慮な足音。

「返してよ」


 そして現れたみっつ目の音に、振り返る。


「返してよ、それ」


 ミヅキが、泣きそうな顔でそこに立っていた。


「え、あ、えと」

 琥珀の指輪とミヅキの顔を、鶴屋は素早く見比べる。一体何が起こっているのか、どうしてミヅキが泣きそうなのか、状況が呑み込めない。しかしそうしてまごつくうちに、ミヅキの視線が指輪を捉えた。午前三時の闇の中でも、彼女の両目が赤く血走っているのが分かる。


 ぞわり、と、鳥肌が立った。まともではない。直感的にそう思う。今の彼女は、まともではない。ぞわりぞわりぞわり。浴衣の下を、危機感に這い回られている。


 仕事中、ニーナを静かに見下ろしたミヅキの、不自然な瞳を思い出す。あの違和感は本物だったと、一瞬のうちに理解する。


 ミヅキは大股で歩み寄ってくる。持ち上げたコップを慌てて戻そうとするが、寸前で手を払われた。ガシャン。板張りの床に落ちたコップがあっさりと割れる。もう片方の手をすぐさま指輪へ伸ばしたが、手首を掴んで止められた。地味なネイルを施された指が、肌に食い込む。


「やめてよ、ねぇ、やめてよ、お願いだから」


 ミヅキは右手で鶴屋を止めつつ、左手で指輪を取り上げた。緑の琥珀は輝いたまま、ミヅキの手の中に握り込まれる。しかし鶴屋はそれを見ても、声を出すことすらできなかった。充血し、張りつめ、歪んだ顔が眼前に迫る。潤いのない声に、五感を支配される。


「ねぇ、これはすごく大事なものなの。ニーナの大事な、指輪、大事な指輪なの。ねぇ、あんたなんかが持ってていいものじゃないの。ニーナが持ってなきゃ、ニーナが持ってなきゃ意味がないの。分かるでしょ、ねぇ」


 その口調はひどく不安定で、壊れたラジオのように聞こえた。コジロウに依頼したときの、鶴屋を叱責したときの、あのキッパリとした話し方とはまるで違っている。何か反応を返さなければ首を絞められそうに思えたが、何か反応を返した途端に胸を刺されそうにも思え、鶴屋はただ、浅い呼吸を繰り返す。すがるように目を移してみると、コジロウは部屋の入口に立って、事態を呆然と見つめていた。


「ねぇ、お願い」


 ミヅキの声が、今にも消えそうに震える。


「もう二度と、こんなことしないで」


 ぱきりと見開かれた赤い目に、鶴屋は貫かれる。そして手首を解放され、残った痣の赤さを確かめている間に、ミヅキはいなくなっていた。

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