-エピローグ- パンテオニウムの神獣

その獣は、世界の果てにある森に棲んでいた。

彼らはその角で遍く世界を照らしていた。


人も動物も寄り付かない森の奥、その獣らは静かにただ時を過ごす。彼らは生き物というよりは"現象"に近かった。食事も生殖も、ましてや排泄も必要とせず、ただ太古の昔からそこに存在していた。


彼らの角はその頃、贄を必要としなかった。

世界に対して獣らの数は十分事足りており、贄を必要とするほどの光を発する必要がなかったからだ。



世界に光をもたらす、意志を持った現象。

それがパンテオニウムで神獣と呼ばれた獣の正体だった。



獣らの棲む森にはいつしか人間が住み着いた。

人間は、獣らが姿を見せない限り彼らの存在を感知できるような、高尚な生き物ではなかった。


人間と獣らは互いに全くの干渉をすることなく、長い時を過ごしていた。






ある時、1匹の獣が聞こえてきた歌につられて湖のほとりへ足を運んだ。

それは長い時の中で本当に偶然生じた気まぐれのようなものだった。


獣が向かった先、そこに居たのは1人の人間の子供だった。

いくら人間が彼らを感知できないといえ、ここまで近寄ればその限りではない。案の定、子供は獣に気がつき振り返った。


獣の瞳は他の生き物を魅入る魔眼であったが、幼子おさなごに通じるものではなかった。何故なら、幼子は神のうちであるからだ。例えば人間であれば七つまで。

神の子に神の被造物の力が及ぶ道理はない。

子供は気後れなく獣に話しかけ、獣の"歌を聴きたい"という気持ちを汲んだ。

子供の声は心地よく、獣はやがて瞳を閉じてその歌に聴き入った。




いつしか子供と獣は躊躇ためらいなく触れ合い、共に過ごすようになった。

子供の言葉を全て理解できるものではないが、仲間とも言葉を介さない獣は相手の気持ちを読むのに長けていた。



獣にとって、子供は友であった。



その日、子供から"家族"という言葉が伝わってきた。"現象"に近い獣にとって明確に家族と呼べる存在はなかったが、獣は思い立って子供を仲間の元へ連れて行った。


そこは太古の昔から、彼ら以外の生き物が足を踏み入れたことのない聖域だった。


子供は獣の仲間を見て感嘆の声を上げていた。

手を握りながら子供が感謝の言葉を述べると、獣は初めて「嬉しい」という気持ちを得ることができた。




しかし、次の日子供は姿を見せなかった。

その次の日も、また姿を見せなかった。


獣は後悔した。

聖域に足を踏み入れた子供は、神気に当てられて体調を崩したのだろう。それこそ神のうちである子供が影響を受けぬはずがなかった。


獣は何日も湖に通ったが、子供が姿を見せる事はなかった。


その日も獣は湖へと訪れていた。


目的の場所へ近付けば、野山の獣とは違う気配を感じた。

───人間だ。


永い時間の中で、外敵に襲われることのなかった獣は野生を忘れつつあった。食事を必要ともせず、生殖を必要ともせず、ただ存在するだけであれば永久とこしえを謳歌できる彼ら。

生存のための苦労をした事もない獣たちは、ある意味総じて愚かでもあった。


獣は人間を知らなかった。

姿を見ない限りは彼らを感知できない生き物、という知識しかなかった。

それ以外はあの子供のような無垢な者しか知らなかった。


だから、飛び出した先の大人たちが獣をどのように認識するかを、獣は知らなかったのだ。



刃物を持って襲われた時、獣の脳内は疑問でいっぱいだった。

何故そんな事をする?どうして傷を付けようとする?


目を合わせれば魔眼にて大人は動きを止める。逃げる事は容易かった。

だが、獣は人間のしつこさもまた知らなかったのだ。


魔眼が逸れ、動けるようになった大人は密かに獣を追った。姿を見られた獣は、もう人間の目から逃れる事はできなかった。


彼らの楽園はいとも簡単に人間に見つかった。


生捕りにされるほど愚かな獣らではなかったが、刃には抵抗する術を持たなかった。生きて捕まえることができないと理解するや否や、人間たちは獣を狩る方向へ目的を変えた。

何匹もの獣が刃の元に倒れる。魔眼で動きを止めようにも、獣を直視すると動けなくなると学んだ人間は遠くから弓を以て彼らを射抜いた。


楽園は、たった数時間で一変した。


散らばり、逃げ、駆けていく獣らを人間は深追いしなかった。代わりに採れなかった獣の胴体を放置していった。

獣の体は命を無くすと砂のように崩れてしまう。その例外が毛と角、目と肉であった。採れるものだけ採り尽くし、人間は去っていった。


そこから、残った獣らが人間に狩られる日々が始まった。


彼らは森以外を知らない。故に、森以外へ逃げる選択肢を持たなかった。

彼らは日に日に数を減らした。




子供の友だった獣はその日、楽園の近くに身を隠していた。息を殺して潜む獣の耳に、慣れ親しんだ声が聞こえた。


友の声。


恐る恐る隠れていた茂みから姿を見せると、子供は泣きながら獣の胴に飛び込んできた。

獣は刹那、躊躇った。

人間が恐ろしいものだとこの数日で身を以って知ったのだ。子供がいくら無垢であるといえ、成長すれば自分達を襲った大人と同じになるだろう。

獣は悩み、悩んだ末に子供を子供のまま神の元へ送ろう。そう思った。


それが叶わなかったのは、子供が獣を突き飛ばしたからだった。体格の差を無視するほど、子供は全力で獣を押し除けたのだ。

獣の行動を理解した故の拒絶ではない。


「逃げて!」


その一言は、獣にも理解できた。


「逃げて!誰もいないところに、早く!」


子供は───子供は、ここに来ても獣を逃がそうとしたのだ。

獣は戸惑いながらも、現れた大人の人間から全力で逃げた。子供がどうなっているかを確認している余裕などなかった。


その後も狩りは続いた。

彼らはさらに数を減らし、その頃から世界全てを照らすほどの光を放つ事は困難になっていた。


世界が徐々に闇に沈んでいくのを、獣らはひしひしと感じていた。


さらに狩りは続き、とうとう残ったのは子供と友になった1匹の獣だけだった。





森までもが闇に沈みかけた時、獣はとうとう人のいる場所へ自ら足を向けた。それは、子供がまだ居るかという確認を込めてのことだった。


果たして、子供は今まさに闇に沈まんとしていたところだった。


獣は子供を抱えて駆け出した。

当てがあったわけではない、とにかく、遠くへ。遠くへ。

初めて森を出て、ただひたすらに夜を走り抜けた。



やがて、眠ってしまった子供を人間の街の片隅にそっと置いて、獣は静かにその顔を覗き込んだ。

体を張って自らを救わんとした子供。

穏やかに歌を歌いながら、獣と共に日々を過ごした子供。

やがては大人になり、人間として生きていくだろう子供。


獣は最後に子供と額を擦り合わせ、ゆっくりとその場を去った。



故郷以外、行くあてもなかった獣は子供を置いた町近くの手頃な森に棲みついた。


闇を祓わねばならなかった。それこそが、獣の存在意義なのだから。

獣1匹で祓えるのはそう広い範囲ではなかった。それならば、せめて子供の近くを守ろうと思った。


限界を超えて放つ光は獣の命たる角を削り、残った世界を照らす。




いつしか獣の存在を見つけた者が獣を神獣と崇めて周囲を覆い、楽園パンテオニウムを作り上げた。

その頃になると、自らを削っては光を放ち続ける獣の意思は朧げになっていた。


孤独だった。

無情にも意志を持つ獣にとって、孤独は酷であった。


光を放っては角を削り、自らの前に差し出される人間を吸収してはまた角を伸ばす。現象としての獣のさがをただ振り回す日々。


人間の歴史が糧になる事も、贄として差し出される人間の事も、獣にはさして考える必要のない事だった。


だから、目の前の人間も同様に糧にするつもりだった。

光を放つつもりだった。

角を削ってでも、記憶の奥底にこびりつく子供の歌声を、その子供が生きてるだろう場所を、ただひたすらに照らさなくては。


あの歌声が、聴きたい。


忘れかけていた心の奥底の願いが、何故かふと獣の頭を掠めた。


目の前の人間が手を伸ばしながら口を開いた。




「また会えたね、アウロラ」




その瞬間、獣の中で何かが弾けた。

自分では抑えきれない光の奔流に、目の前の老人の姿が溶け始める。


獣は思わず老人を抱え、自らの胸に搔き抱いた。



───友達を名前で呼べないのは不便だね。


───そうだ、勝手に付けてしまってもいいかな?


───そう悪いようにはしないから。そうだなぁ……これはどう?



「アウロラ」


嗄れているが、どこか懐かしい声が獣の耳朶を打つ。抱えた体はいつぞやに走り抜けた夜を彷彿とさせた。

獣を見上げる顔は皺くちゃで見覚えのないものだったが、その笑顔だけは何よりも覚えのあるものだった。


老人の姿が、白く霞んでいく。

獣は願った。

どうか、どうかこの声と、ずっと一緒に。


獣の思いを察したのか、老人は獣の背にもはや消えかけた腕を回した。












パンテオニウムにはかつて、美しい神獣が棲んでいた。


今は失われたの獣は、ある日を境に一本の大樹を残して姿を消した。

闇を祓う神獣の角は失われたが、代わりに大樹が伸ばす枝葉からは絶え間なく白い光が溢れた。その光は大地に染み込み、緩やかに穏やかに闇を拭っていった。


贄の要らなくなった世界。

新たに広がり始めた世界。

世界を照らす大樹を人々は世界樹と呼んだ。


世界樹が何故突然現れたのか知る者は、もはや存在しない。

神獣が何故突然姿を消したのか知る者は、もはや存在しない。


人々は贄に満足した神獣の贈り物だと囁き合ったが、それが正しいか知る術はもはや存在しない。





大樹の根元、逞しい幹の一部分。

絡み合い、浮かび上がる樹皮の凹凸は、抱き合って眠る人と獣の様に見えるという。




END.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パンテオニウムの神獣 常葉㮈枯 @Tokiwa_Nagare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ