第20話 伯爵家の朝食会


ひさしぶりに、夢も見ずにぐっすり眠れた。

昨日案内してくれた老婆の侍女が、掠れた細い声で揺り起こしてくれて、ようやく目が覚めたくらいだ。


スぺラード伯爵は既に部屋におらず、私は朝食会があると言われて、慌てて用意されたドレスに着替えた。

もらったドレスは寝間着と違って大きさはぴったりで、どこか軍服めいた雰囲気をそなえた、凜々しい騎士らしさがあった。

少し埃っぽかったがまだ新しく、これが一体誰のものかは分からない。

動きやすくて気に入ったが、きっとお姉様だったら大喜びしたのだろうと一瞬頭をよぎってしまって息を詰める。気弱になりそうな考えを、私は懸命に追いだした。


もう泣くまいと決めたのだ。

今そんなことを思い出したら、早々に決意を裏切ることとなる。

老女の侍女は、私の髪を軽く編んで整えると、立ち上がって扉へ向かいながら言った。


「小食堂にご案内いたします、ジョセフィーヌ様……」

「え?」


それは叔母の名だ。

目をしばたたかせれば、すぐさま老女の侍女は深く頭を下げ、細い細い声で謝罪した。


「申し訳ございません……」

「そんなに似ているんですか、私」


腹は立たなかったが、気にはなる。

老女の侍女は聞き取りづらいかさかさ声でそっと答えた。


「幼かった頃に、よく似ておいででございます。……ジョセフィーヌお嬢様が同じ年の頃の時は、手のつけられぬ、おてんば娘ではございましたが」


ふっと、ずっと悲しげに陰鬱だった老女の顔に、優しげな光が宿った。

胸に奇妙な共感めいた感情が湧き、私はそっと囁く。


「お姉様は、叔母様に憧れていました。性格はきっと、お姉様の方が近かったのでしょう」


老女の侍女が、少し涙ぐんで私を見た。

私達の間に、ふっと愛おしい者を亡くした連帯感が静かに流れた。

祖母と孫ほど年の離れ、身分も立場も、家も違う。

けれど、身に埋まらない穴の開いた者同士、誰よりも共感できる気持ちが確かにあったのだ。

私は、老いた侍女を見上げてうすく微笑んだ。

シーラよりずっと年上で、背の低く腰の曲がった、けれど老練な賢さを宿した青い瞳が私を見返す。


「お名前を聞いていませんでした。聞いてもいいですか?」

「アメリとお呼びつけくださいませ、ユレイアお嬢様。そして、私などに敬語などはお使いなさいませぬよう……。いらぬ面倒を呼びますゆえ」


侍女アメリはそう言って、深く深く頭を下げると、私を朝食会場へ案内した。


           *



案内されたスぺラード伯爵家の小食堂は、トーラス子爵屋敷の大広間くらいの大きさをしていた。

今日もよく冷え込んで、白いテーブルクロスの周りで立ち働いている人達の息が白い。

北側の壁には裏庭が見える大きな窓があり、まだ小雨が降っているのがわかった。


「あっ、おはようユレイア。うわあ、格好良いのにかわいい! そういうのも新鮮だね、よく似合ってるよ!」


まだ私の喪服しか見たことがないくせに、ウィルが、手を振りながらひゅーんと飛んでくる。

紳士な幽霊は、小食堂のシャンデリアに腰かけて私を待っていたらしい。

朝日の中でも大丈夫なのか、多少夜中よりも透けているけれど、まだ彼の姿ははっきりと見えた。


「昨日はよく寝てたね。僕は夜中じゅう動き回ってたんだけど、驚いちゃった。あのね、この屋敷には僕以外にも変な形の生き物が沢山いるみたいなんだ。光りながら空を飛ぶちっちゃい人間とか、半透明の馬とか、あとは四枚羽の鳩もいたよ。なんだろうね、あれ?」


それは、私が見る力を失った妖精だ。

教えてあげたかったけれど人目があるので、私はアメリに案内されながら、うつむく振りをしてちいさく頷いた。

けれど、私がわからなくなっただけで、このスペラード伯爵屋敷にもちゃんと妖精がいるとわかると、少しほっとする気もした。


──指輪をもらう前と同じくらいでいいから、見えたら良いのに


きっと、奪われたあのエメラルドの指輪には、妖精に関わる何かしらの力があったのだ。

ただ、それをお母様から教えてもらえることはもうない。自分で調べるしかない。

いや、もしもウィルが本当に回帰の王で、時間を巻き戻すことが出来るのならば、聞けるかも知れないのだろうか。

だが、回帰したって何も知らないままでは以前と同じだ。

やはり、自分で調べるくらいのつもりでいなければ……。


「おい」


突然横柄に声をかけられ、テーブルの半ばで私は足を止めて振り返った。

少々派手な、フリルのついたシャツの男が、私のところへ足早に近づいてくる。


「子爵家の娘。あなた、自分の部屋に戻ったらどうですか」


その腕に手を絡ませているのは、私を物置小屋に案内したおばさんだった。

どうやら、この二人が、お祖母様の弟夫婦だったらしい。私にとっては大叔父と大叔母だ。

おばさんはがりがりの細身の糸目で、おじさんはビーズみたいに小さくて丸い目をして、ぽこんと丸くお腹が出てるのが、並んでみると妙にバランスが良い。

揃うと狐と狸みたいだ、と思って見上げていると、つかつか歩いて来たおじさんが、突然私の頬をひっぱたいた。


「人の顔を見て、何にやにや笑ってるんだ」


こんな唐突な暴力なんて前世以来で、私はぼうっとしたまま、じん、と熱くなる打たれた頬に手をそえた。

舌打ちする大叔父さんを、大叔母さんが、うっとりした顔で見つめている。


そういや、前世の兄も父も、強い姿を見せたかったのか、女の人の前だとやたらと大きな声を出したり、私を叩いたりしたな……。


ふいに、あの時の胃がねじ切れるような恐怖や怯えが蘇ってくる。


けれど、それはもはや画面を通してみる出来事のように遠く、どこか他人事のようだった。

それでいて、胸の底にともったのは炎だった。

暖炉のように暖かく、管理のきいた熱ではない。転がり出た炭が絨毯に燃え移り、床を焦がして燃え盛るような、何者をも寄せ付けない、苛烈な炎だ。


私は、負けるわけにはいかないのだ。

あの男を殺すために、こんなところで躓いて、泣いている訳にはいかない。

私はすっと息を吸って、にやついている大叔父さんと、優越感に鼻を膨らませている大叔母さんを睨み返した。


「あなた達は幸せですね。明日、持っていた何もかもを失い、誰かに叩かれるかも知れないことを、想像したこともないのでしょう」


まさか言い返されると思っていなかったおじさんが、驚いたような顔でうろたえた。


足はまだ、わずかに震えている。

けれど、扉の外を去って行った王弟への憎しみと、あの男が雪原で追ってきた時の恐怖を思い出す。


あれに比べたら、殺す気も覚悟のないこの男の、なんと可愛いことだろう!


「ちょっと、おまえ、誰に口を利いているの!」


甲高い声をあげる大叔母さんに、「あなたへ」と私は静かに言った。

こんな顔をしてこんな事を言う子供は、さぞ不気味だろうと思いながら、必死に冷たい目をして声を抑える。


「あなたが今、叩いたのは、未来のあなたです。いつか否応なく危機に陥った時に、この暴力があなたの頬に戻ってくるのです。覚悟なさると良いでしょう」


本当は、そんなことばかりでない事など、とっくに知っている。

私の家族は、いつだって人に優しかった。あんな風に突然命を奪われていい人じゃなかった。

前世の私は、どれだけ家族に尽くしたって報われることなく命を落とした。

チカちゃんは、優しくした友達に死なれてしまったし、長老先生は教え子に先立たれた。


それでも、あの王弟は、絶対に、いつか私が復讐を果たすのだと決めた。


己の全ての優しさが報われるわけではないが、全部が全部そうじゃない。

己の因果が、善行が、悪行が、自分にまったく跳ね返ってこないなんて、そんなこと絶対にないのだ。


「な、なんだこの子供は……!」


予想外の反応に、まだうろたえている大叔父さんが「こいつ、頭がおかしいのか」妻に耳打ちする。

大叔母さんは「知りませんよ!」と噛みつくように返して睨みつけてくる。


「一回目はその無礼を許します。けれど、次からは私も容赦しません。誰であろうと、相応の対応をいたします」

「は……。なんの後ろ盾もないおまえにか?」


鼻で笑った大叔父さんの背後へ、ふいに影が差した。


「やかましいぞ。ショーン、シレーネ」


背の高いスぺラード伯爵が、地を這うような低い声で、大叔父さんを睨んでいる。


「お、義兄さん……」

「ちがうんですお義兄様、この子供が、子爵家の娘が突然私達を侮辱したんです……!」

「食事の時間だ。早く席につけ」


何かやかましく言い募ろうとした夫婦に、スぺラード伯爵はぎろりと恐い目を向けた。

無言でそのまま背を向けて、テーブルの一番端へとコツコツ歩いていく。

私もまたアメリに促され、背筋を伸ばして侍女の後を追った。


「この……!」


ショーンと呼ばれた大叔父さんの足音が一瞬近づいたかと思ったけれど、すぐにずしんと大きな鈍い音と悲鳴がして私は振り返った。

彼は、何もないところで突然足をすべらせたらしく、太った身体を床に転がして、小さな目を白黒させている。

その背後にふわふわ浮いていたウィルが、とろけるように甘やかな笑顔でウィンクをした


「足下には気をつけてね!」


ぽんぽんとショーン大叔父さんの頭を撫でながら、ウィルがすっきりとした顔でこっちに戻ってくる。


「やるじゃないか! ユレイア、格好良かったよ」


私は、まだドキドキする心臓を抑えながら歩き去り、こっそりウィルにだけ目配せをした。

幽霊の身体は不便だろうが、生きている時のしがらみがないのは便利そうだな、と思った。

妖精や幽霊がいたずら好きな理由が、ちょっと理解出来た気がする。


アメリに案内された席はスぺラード伯爵のすぐ斜め前、一番近い血縁の者が座る席だった。

もしも一家でスぺラード伯爵の伯爵屋敷に遊びに来たのだったら、叔母様やお父様、年齢順で並ぶならばお姉様やお兄様が前に来るはずだったのだ。

私がこんな場所に座るのは、多くの人の不在を感じさせていかにもさみしいと思いながら精一杯背筋を伸ばして座る。

転んだ人や、ぐずって遅刻した子供も含めて全員が席につくと、


「日々の糧を食物の白き雲神に、日々の平和を赤き軍神に感謝いたします」


というスぺラード伯爵のお祈りに合わせて唱和して食事がはじまった。


根菜がごろごろ入った白いシチューや、品良くソテーされた白身魚。塩漬け肉をスライスしたもの、ボイルした腸詰め、四種くらいのチーズはひとつの皿に美しく盛られている。専用の器に乗ったゆで卵は、ちょうどよいぐらいの固ゆでだ。

籠にはふわふわのパンが盛られ、陶器の器に山盛りになっているのは、バターと四種類のジャム。


「えー、けっこうスペラード伯爵家って品数少ないんだね」


ウィルがテーブルの周りをうろつきながら残念そうに言う。

私としては、むしろトーラス子爵家の夕食くらいの量が出てきているし、見た目だって綺麗だと思うのだが、王宮はもっとすごいらしい。


ただ、誰も喋らず、食器の音と使用人が食事を切りわける音だけがするので、気詰まりだ。

たまに視線を感じて目をやると、大叔父夫婦がすごい目でこっちを睨んでいるのがさらに気持ちをささくれさせた。


それでも、昨日までは何を食べたかも覚えていなかったのに、今はちゃんと食事の味がわかるのは、身体が生きようとしているからだろうか。


最後まで誰も何も喋らないで食事が終わると、スぺラード伯爵はまたお祈りだけして立ち上がった。

侍女アメリが先導してくれるので、スぺラード伯爵の次に、私も立ち上がる。


「えー、席順で食べ終えて立ち去るって、王宮でもちゃんとした晩餐会でしかやんないよ? もしかして毎度やってんの? おかたーい!」


ウィルの言葉に、今回ばかりは私も内心で頷いた。

何しろ子爵家では、席順で立ち上がるのは食事マナーの授業中だけだった。

それでも、おたおたせずに済んでいるのだから、ちゃんと早くから教育をしてくれた両親には感謝しかない。

またほんのり悲しくなりながら、私より少し上らしい、ショーン大叔父によく似た少年の後ろを通ろうとした時だ。


突然、子供が両手でテーブルを押し、背中で思いっきり椅子を押した。

私は、突然肩にぶつかってきた椅子の背に押されて、あっけなく吹っ飛んで転ぶ。


「あ、ごめんなさぁい! 間違えて立っちゃった!」


そう言いながら、丸い腹をしてビーズみたいな目をした子供が、にやにや笑いながら手をさしのべた。

私がその手を無視して立ち上がろうとすると、しゃがみこんだ少年が小さく耳元で囁く。


「でていけ、親なし」


ウィルが、冷めた目で指を鳴らそうとしているのを目の端にとらえたが、それよりも早く私の手が動いた。


ぱーんっ!


かがみこんだ子供の頬で、高らかに音が鳴る。

私は、ぽかんとして頬を押さえている子供を、全力で睨み付けた。


「私に親がいないのは、私のせいじゃありません」


何度も深呼吸しないと、息が震えてしまう。

激しく燃えさかる怒りで目の前が白くなりそうだ。

じり、と私が一歩前にでると、大柄な少年が一歩後ろに下がった。


「私がここに居るのが嫌なら、もっと他にやり方があったはずです。そんな卑怯な事しかできないなんて、恥ずかしい」


私より、たぶん三つか四つくらい年上の子供は、睨みつけた視線から首を振って逃れると、あわあわと助けを求めるように周りを見回していた。

すぐ近くの母親に顔を向けて、甘ったれたように哀れっぽく言う。


「ねえお母さん! こいつ、頭がおかしいよ!」


私は頭がおかしいのだろうか。

幽霊が見えて、前世を覚えていて、かつては妖精が見えたのだから、確かにそう言われても仕方ないのかも知れない。

だけど、それがなんだ。


「己の愚かさに気づける機会を与えてやったのです! いずれ誰にも指摘されることなく、愚かしさを衆目に垂れ流しながら生きることになるでしょう。その時に、私の親切を懐かしがりなさい!」


こんな奴の蔑みの言葉など、みじんも信じるに値しない。

私の家族の言葉の方が、ずっとずっと正しく、尊い。

私は、こんな扱いをうけていい人間じゃない。


「よくやったよ、ユレイア!」


ウィルがうんうん頷きながら、空中でぱちぱちと拍手をしている。


「ああ、アース!」


悲しげなため息をつきながら、シレーネ大叔母さんが大柄な少年を抱きしめた。

優越感に満ちた小さな目をちらっと光らせて、アースと呼ばれた彼はわざとらしく泣き真似をしてみせた。

その態度よりも、ただ抱きしめてくれる母親がいることが羨ましくて、私は黙って二人を睨む。

シレーネ大叔母さんは、スぺラード伯爵に向かって甲高い声をあげた。


「子供の不始末は保護者の責任です! お義兄様、いかがされるおつもりですか!」


スぺラード伯爵は、足を止めてこの騒動を見ていたらしい。

その無表情に近い厳格な顔に内心震えが走ったが、ウィルが黙って隣に立ってくれたので勇気が湧いた。

もしも彼をかばうようなら、たとえ最後の血縁だったとしても絶対に言い返してやる、と身構える。


「その通りだ」


深く頷いたスぺラード伯爵に「流石はお義兄様!」とテーブルの反対側にいたショーン大叔父さんが拍手する。

私が歯を食いしばって両手を握り、納得できないと言い返そうとした時「だから」とスぺラード伯爵が静かに言った。


「この無礼な子供の責任を取り、早くお前達夫婦の部屋に去るがいい」


ショーン大叔父さんが「そんな!」と愕然とし、シレーネ大叔母さんが悲鳴をあげる。

スぺラード伯爵は、ひと睨みでそれを黙らせると、低い雷鳴のような声で告げる。


「処分は後で伝えよう。それまでは部屋から出ることを禁ずる」


しんとした小食堂に、大叔父夫婦のあえぐような浅い息と「お、謹慎だ!」とちょっとしたお菓子をみつけたような声をあげるウィルの声が響く。


スぺラード伯爵がこちらを見ているのに気がついて、私は視線を合わせた。

頷いたスぺラード伯爵が背を向けて静かに言った。


「ユレイア、ついてきなさい」


私は大人しく侍女アメリと一緒にその姿を追う。


「騙されています! 十年連れ添った私達よりも、昨日会ったばかりの子爵家の娘を優先するのですか!」


廊下へ出る直前、背中からショーン大叔父さんの悲鳴に近い弾劾が飛んできた。


「君への正当な評価だよー」


と、ウィルだけが律儀に答えたが、もちろん私以外には聞こえない。

スぺラード伯爵はひとつ、苛立たしげなため息をついただけで、聞こえなかったかのように足も止めなかった。


小食堂の扉は使用人により、静かに、そっけなく閉ざされた。


           *


静かな廊下をトコトコついて歩きながら、私はスぺラード伯爵に何と話しかけるべきか迷っていた。

さっきのお礼を言うべきか、それとも昨日暖かい寝台を使わせてくれたことについて話すべきだろうか。

けれど、私が口を開く前に、スぺラード伯爵は足を止めないまま静かに告げる。


「南棟の片付けが終わった。明日からはそこに住むがいい」

「あ……ありがとうございます」

「やったーー! 日当たり抜群だ!」


快哉をあげるウィルはともかく、私はとっさにそれ以上何を言えばいいのか分からなくなった。

口ごもる私の肩を、ウィルがすかすか手振りだけで叩いて猛然と要求する。


「ねえあそこ図書館あるんだよ! 使いたいな、絶対に役に立つはずだよ。貴族家の事情を知るなら絶対図書館だよ使用許可取ってユレイア!」


確かに、情報は何としてでも必要だ。

トーラス子爵家しか知らない私にとって、高位貴族のしきたりは未知の世界だ。これからの為にも、知っておいて損はない。

私は、緊張してちょっとつばを飲んでから、スぺラード伯爵の背中に声を投げた。


「あ、あの。このお屋敷にある図書館を使わせてください」

「無駄なことを聞くな」


冷たい声に、腹の底がきゅっと冷たくなる。

けれど、スぺラード伯爵は口調を変えぬまま淡々と言った。


「おまえが使うのに許しが必要なものなど、この屋敷にはない」


私はきょとんとして「はぁ……」とやや間抜けな声をあげてしまった。

子供相手にならば、何を見られても大したことは出来ないだろうということなのだろうか。

ウィルだけが「聞いたよ! 聞いたからね!」とスぺラード伯爵の肩まわりをぐるりと飛んで回ってから、私のところに戻って「やったぁ!」と快哉をあげている。


「勉強がしたいのだな」

「は、はい」


スぺラード伯爵はしばらく黙ったあと「そうか」と頷く。

その声が、ほんの少しだけ柔らかかった気がして、私は心が浮き立つのを感じた。


もしかしたら、私はスぺラード伯爵と仲良くなれるかもしれない。

大切な相手を失った者同士で、慰めあうことができるかも知れない。

そんな希望がふわりと胸に湧いた時、ふいに、スぺラード伯爵が立ち止まった。


つられて足を止めると、大きな扉の前だった。

いかにも歴史がありそうな飴色で、幾何学模様の掘り込みが扉の縁にびっしりと刻んである。

ウィルが「ここ、南棟で一番大きい部屋だよ」とわくわくした声で耳打ちしてくれる。


アメリがゆっくりと扉を開くと、中から暖かい空気が流れ出してきた。


「わぁ……」


感嘆のためいきをついて、私はゆっくりと部屋に入った。


足が、薄紫の花が咲いた絨毯を踏みしめる。クリーム色のクッションが沢山乗ったビロードのソファは、触ると滑るようになめらかだ。

壁際に目を向ければ、繊細な曲線を描いた化粧台や小さな棚、衣装棚。

寝台についた白い天蓋には、銀刺繍が入っていて星が降るようだ。

小さな棚の上には真新しい陶器人形や、白馬の置物が飾られ、寝台を覗き込むと、枕の傍らにクマやウサギのぬいぐるみが座っていた。

どれも白で統一されているから部屋が明るく感じるし、実際に壁際には大きな窓がついていた。


まさしく伯爵家に住む五歳の令嬢に相応しい、可憐にして品の良い、暖かな部屋だ。


「ここが……私の部屋なんですか?」

「それ以外の何がある」


スぺラード伯爵のしかめっ面に、ウサギのぬいぐるみに挨拶していたウィルが「わあ、恐い言い方するね」と肩をすくめる。

お礼を言おうとした時、スぺラード伯爵にじろりと睨まれて肩が跳ねる。


「望むものすべて用意させよう。ただし」


スぺラード伯爵は、ひどく厳しい顔をして、反論を許さない声で一言告げた。


「この屋敷から出ることを一切禁じる」

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