第42話 ハンプティ・ダンプティ-1

 わたしは右手で握った銃――『金色の雫』を強く意識しながら、プラットホームを進む。

 ホームを見下ろすビルからの視線全てが、わたしたちを眺めている。むせ返るほどのレモンの香りを持った空気までがわたしたちを包み殺す意志を持っているようだった。


 わたしがこくり、と唾を飲み込むと、二人は顔を見合わせてプラットホームの階段を下りてゆく。

 アリスが先頭で、わたしが彼女の鮮やかな赤のマントを追うように後ろにつく。


「アリス……ここは寂しい。一人でいるのは辛い。お前も、来てくれ」


 あの粘ついた男の声が、懇願するようにまたアリスの名を呼ぶ。

 だが、前を歩くアリスの背中は、肩が丸まることも、震えることもなく、ゆっくりと階段を下ってゆく。


 駅の構内は『表』の東京駅のそれと同じぐらいに豪奢で、改札を見下ろすように口を開けた巨大な明かり取り窓からは、リングバーンの狂ったような夕陽が強く差し込み、縞模様の柱と上部を飾る電灯やアーチに影を落としている。


 広いのにがらんとした、人気の無い駅の中は、しかし、見えない無数の気配が蠢いているようだった。

 そのどれもがわたしたちを注視している。


 そして、改札口の先、入り口を前にそいつはいた。

 ちろちろと奇妙な色の炎を吹く火焔放射器のノズルを持った、背の高いスーツ姿の伊達男。

 市獣、ハンプティ・ダンプティ。

 近くで見たのは最初に地下鉄の電車で遇った時以来だ。


「アリス……パパと一緒に来てくれ……」


 哀れみを誘う、中年と言うには若い男の声が、ハンプティ・ダンプティの口から漏れる。

 演技だ。わたしは唇を震わせる。

 こいつは全然千里大輔の寂しさなんて理解できていない。

 わたしでもそう思えるくらい、わざとらしい憐憫を誘う演技に、アリスは明らかな嫌悪の色を示していた。


「お前は父さんじゃない」


 アリスは硬く、低い声でそう彼の言葉を一蹴し、抜き身の剣を一度振る。

 瞬間、ぴ、とアリスの頬に小さな切り傷が生じて、血が滲む。


「父さんは死んだ。ぼくをお前から護るために。お前に食われて、成り代わられないために――灯里に言われるまでお前を父さんの全てだと思ってたぼくがバカだった」


 アリスの頬――ハンプティ・ダンプティに騙され、傷つけられた少女が自分を戒めてつけた傷から流れる血の色は、全てが作り物のようなリングバーンの中で、確かな本物の存在感を示していた。


「……ああ。わかってしまったわけか。ずっと信じてくれればやりやすかったのに……お嬢さんの入れ知恵かな? 親子揃って本当に面倒くさいなあ」


 ころっとハンプティ・ダンプティの声色が変わる。

 人を小馬鹿にする声色に。


 わたしも怒りの感情と共に白銀色の銃を両手で構え、彼の身体に照準を合わせる。

 駅の中を蠢いていた気配が一斉に動きを止め、奴が一歩足を踏み出す。

 それが合図だった。


 アリスは後ろ足で思い切りコンクリートの階段を蹴って、飛び出す。

 刃を突き立て、真正面から突進してゆく彼女に、男はちろちろと小さな火を噴いた放射口を向ける。


「さあアリス、俺に食われてくれ! 下らないプライドで自分を保って食い損ねた、あの男の代わりに!」


 ハンプティ・ダンプティは声高々と叫び、引き金を引き絞る。

 一瞬遅れてちろちろと蛇の舌のように燃えていた火は、恐ろしい音と共に真っ黒い煙を伴った橙の炎の帯となり、一直線にアリスへと飛んでゆく。

 アリスは改札口の場違いな自動改札機を蹴って、右に跳躍して回避する。

 炎も、空間を薙ぐようにアリスを追いかけてゆく。


「やめろっ!」


 絶叫と共にわたしは銃爪を素早く引き絞った。ぱん、ぱんと軽く乾いた音が駅の中いっぱいに響いて、痺れるような反動が手に伝わる。

 銃弾は真っ直ぐ男の胸に吸い込まれていったが、高そうなスーツと柄物のシャツに穴が空いただけで、そこから何かが滲み出ることも、怯む様子すらも無かった。


 だが、ほんの一瞬、炎の帯の動きを止める事だけには成功した。

 アリスはその一瞬を見計らったように、石造りの床を蹴って、大きく跳ねた。


「ああもう、何なんだい君は!」


 奴がわたしの方を向く。それに一瞬遅れて、炎の帯を吐き出す放射口も同様に、急激に変えられた炎の軌跡を描いてわたしの方を向く。

 わたしはお守りのように拳銃の銃把を握りしめると、炎の射程から逃げるように階段を駆け下り、駅の中を走り出す。

 わたしの後を、石の床を舐め、炎は追ってくる。

 背後の明かり取りの窓と回廊を揺らす巨大な陽炎が立ち上る。

 橙色の煌めと死神の姿を思わせる真っ黒な煙が、わたしの肌を、眼鏡を、髪を、コートを、先端から焦がそうと熱波が襲いかかる。

 眼鏡のフレームが熱を帯び、コートの先端から火が着きそうなほど近くまでにじり寄ってくる火焔に、わたしは万年クラス最下位圏の足の遅さを呪った。

 香織ほどとは言わないが、せめて後もう少し速ければ良かったのに。

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