旅ノ巻 箱根の先へ 4

 脱衣所で服を脱ぎ、一九は洗い場に入った。棚の上に置いてある自分の名前が書かれたおけを手に取り、そのまま奥へと進む。


「お湯を、いただけますか?」

「お、一九さんじゃありやせんか。すぐに入れやすね」


 湯汲み口にいた三助さんすけという、窯焚かまたきや客の背中を流す仕事をしている男に、一九は桶を渡して、湯を入れて貰う。


「お背中はどうします?」

「お願いします」


 一九は三助に糠袋ぬかぶくろを渡して、手の届かない背中を洗ってもらうことにした。


「あー」

「なんでぇ。そんな声を出して。何か悩みでもあるんですかい?」


 一九の情けない声に、三助は一九の背中を洗いながら、どこか呆れた声で、問いかける。


「実は、重三郎さんから言われた新しい仕事について悩んでいまして」

「ああ。あの『妖怪蔦屋』」


 蔦屋の通り名に、一九は、はははっと笑う。


「あの体格に見下ろされたら、そう思うのも仕方ないでしょうねぇ」

「一九さんは恐ろしくないんで? そりゃあ、悪い人じゃないのは、わかるんですがねぇ」

「私は昔から、あの人と知り合いですから。それに随分ずいぶんと助けてもらっていますし」

「へぇ。さて、洗い終わりやしたぜ。湯をかけますよ」

「えぇ。ありがとうございます」


 桶に入っていたお湯を後ろからかけてもらい、汚れを洗い落とす。


「そんじゃ、ゆっくり湯船にかって、体のこりをほぐしてください。桶はわっしが洗って、いつもの場所に置いときますんで」

「よろしく頼みます」


 一九は柘榴口ざくろぐちをかがんで入り、足をかけて湯船に浸かった。


 湯船には一九のほかに、剃髪ていはつの男と、ねじり鉢巻はちまきの男、たたんだ布を頭の上に乗せている男の三人の先客がいた。


「なあ、お前ら妖怪の存在は信じるか?」


 頭に布を乗せた男が、唐突とうとつに話し始める。


「まぁた始まりやがった」

「相変わらず、好きだね。怪談話」


 仲間二人は慣れたものなのか、呆れた表情を浮かべている。

 一九は彼らの邪魔にならないように、湯船のすみに移動し、耳をませた。


「実際にいたら、面白ぇじゃねぇか。そいつらがどんな生活をしているか、気になるだろ?」

「「いや、ぜんぜん」」

「んな冷てぇこと言うなよ!」


 妖怪好きの男が、悲しそうに声を上げる。


(どんな生活をしているか、ですか。なかなか興味深いですね。実際に、妖怪を題材にした黄表紙きびょうしは多い。多いということは、一定の需要じゅようがあるということ。ですが、その多くが勧善懲悪かんぜんちょうあくもので、妖怪は悪しきモノゆえ、坂田金時さかたきんとき渡辺綱わたなべのつなたおされる運命……。しかし、妖怪たちの生活模様を書いたものは少ないのも事実。これは、いいネタをいただきました)


 一九が考えている間も彼らの話は続いている。


「そもそも、妖怪はどこにいるってんだ」

「そりゃ勿論、箱根の先に決まってるだろ!」

「どうして、箱根の先なんだい?」

「ほら、『野暮と化物は箱根より先』っていうだろ?」

「ただのことわざじゃねぇか!」


 気性の荒い男が、妖怪好きの仲間の顔にお湯をぶっかける。


「ぶへっ! な、なにしやがる!」

「お前の妄言に気を遣うこっちの身にもなれってんた!」

「まぁまぁ」

(いいネタも貰いましたし、被害に遭わないうちに帰りましょうか)


 3人が揉め始めたので、一九は彼らより一足先に、湯船から上がった。


「一九さん、今日はもう出るんですかい?」

「えぇ。創作の参考になる話を聞けましたので」


 早々に出てきた一九に、番頭が声をかける。


「来たときよりも、すっきりした顔をしていますね。お仕事、頑張ってください!」


 番頭に見送られ、一九は湯屋を後にした。


「戻りました」

「おや? もう戻ったのかい? あんたは一度、湯屋に行ったら長いのに」


 一九が店先から入ると、帳簿ちょうぼをつけていた蔦屋が、顔を上げてそう言った。


「実は湯屋にいたお客さんが、おもしろい話をしていまして」

「へぇ。とりあえず、道具を片しておいで。その後、整理を手伝ってちょうだい」

「わかりました」


 一九は風呂道具を部屋に置きに行き、その後は店で本の整理などを手伝った。


「それで、どんなおもしろいネタを、拾ってきたんだい?」


 帳簿をつける手を止めることなく、蔦屋は一九に尋ねる。

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