旅ノ巻 箱根の先へ 3

「小説、ですか?」

「えぇ」


 ある朝、蔦屋から持ちかけられた話に、一九は目をまたたかせた。


「そろそろ、奇抜きばつな新作が欲しいと思っているのよ。一九は物語を書ければいいんでしょ?」

「えぇ。浄瑠璃はもう正直言って、あきらめました」

「一九が小説を書いてくれたほうが、あたしとしても楽なのよ。あんた、絵も描けるし」


 一九は湯吞ゆのみに、視線を落とす。緑茶の水面みなもには、一九の不安そうな表情が映った。


「私に、書けるでしょうか?」

「まだやってもいないのに、弱気になるんじゃないよ」


 蔦屋の言葉に、一九は「でも……」と言って、口を閉じる。自信がない一九に、蔦屋はぽんっと手を打った。


「なら最初は、瓦版かわらばんで売ろうじゃないか」

「瓦版で?」


 蔦屋の提案に、一九は首を傾げた。


「本来、瓦版は何か大きな事件の詳細や、火事の速報とかを書くものだけど、物語を売っちゃいけない決まりはないわ。とりあえず瓦版でやってみて、人気次第で連載れんさいをするの」


 一九は「なるほど」と納得したように、うなずく。


「重三郎さんのやりたいことはよくわかりました。ではどんな話を、書けばいいんですか?」

「それは、自分で考えなさい。仮にも執筆経験はあるんだから」

「えぇ!? わ、わかりました。とりあえず、考えてみます」


 一九は困惑をふくんだため息を、深く吐き出した。


 部屋に戻った一九は、机に手帳を広げて唸る。


「奇抜な作品、奇抜な作品……。んー、いきなり言われても、思いつきませんねぇ」


 じーっと紙を睨んでも、案は浮かんでこない。一九はついっと目を滑らせる。目線の先には、風呂道具があった。


「まずは、気分転換に、湯屋にでも行きますか」


 一九は支度を整え、馴染なじみであり、近所の湯屋に向かうことにした。


 この頃の江戸は、内風呂が禁止されており、一町いっちょう一軒いっけん、湯屋がある。湯屋は身分を超えて多くの者が集まるので、一種の社交場にもなっている。一九は、仕事がはかどらない時に、よく湯屋におもむいていた。


「らっしゃい」

「これでよろしくお願いします」


 一九は番頭に、羽書はがきを、今でいう定期券を見せた。


「なんだか、浮かない顔をしているねえ。一九さん」


 羽書を返しながら、番頭が一九に話しかけてきた。


「実は重三郎さんから、新しい仕事をもらったんですが、これがまた難しくて」


 はぁーっと、深くため息をつく一九に、番頭は苦笑した。


「ま、悩んでいるときは、ゆっくり湯に浸かって、気分転換してってください」

「そうさせてもらいます」


 一九は番頭に軽く頭を下げ、脱衣所へと進む。

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