第11話 演奏会当日1




◆1


透き通るような青空に薄い雲が流れていく。

晴れてはいるが、少し風が強い日。


毎月初め、元宮廷音楽家であり音楽教師であるヴェーバー先生の屋敷では、生徒たちによる親睦会が開催されている。

親睦会の後は演奏会が行われるのだが「会」とついているだけで、特に大掛かりなものではない。

ヴェーバー先生から、ピアノや弦楽器を習っている子女達が、練習の成果をお披露目する、そんな場だ。


俺も小さい頃に少しだけ弦楽器を習ったが、自分にはまったく才能がないと気づいてすぐにやめてしまった。なので、ヴェーバー邸へ行くのは久々だ。

昨日、一緒に演奏会へ行くことをリュシエンヌに伝えた。

送り迎えも馬車を出すことを約束し、今その馬車の中にいる。


今日の彼女は、淡いミントグリーンのドレスを着ていた。編み込んだ髪を同色のリボンでまとめていて、とても可憐だ。

馬車がヴェーバー邸へ近付くにつれ、さっきまで普通に会話をしていたリュシエンヌが、また落ち着かない様子を見せはじめた。


「リュシ、大丈夫だよ。何があってもアレシアに近づかないようにすればいい。あと、配られる楽譜は俺が受け取るよ。君は座ったままでいて」

「ありがとうルド」

「ところで、今日ピアノは弾く?」


俺の問いかけに少し考えた後、リュシエンヌは首を横に振った。


「課題曲はわかってる。実は前回のこの日、初めてまったくミスをせずに弾けたのよ。でも、今日は楽譜だけもらって弾かないわ。自分でも未来を変えていかなきゃね」


肩を少し上げて微笑む彼女があまりに愛おしくて、両手をとった。


「凄くいい考えだ、でも、ピアノが聞けないのは残念だから、今度二人の時に聞かせてくれるかい?」


リュシエンヌは俺の手を軽く握り返しながら、こくりと頷いた。


いつの間にか馬車は、楽譜を模した真っ白なヴェーバー邸の門をくぐっていた。

噴水がある庭園には、既に多くの生徒達が集まっているのが見える。

二人で馬車を降りて庭へ向かうと、こちらに向かって手を振るセレーネの姿が見えた。


「リュシおはよう! ルドウィクまで一緒にどうしたの?」

「ああ、この後リュシと食事をする約束をしているんだ。午前中は特に予定がなかったから、久しぶりに皆の演奏を聴きに来たよ」


セレーネの隣にはクリストフが座っていた。いつもよりお洒落しているのが良くわかる。


「まあ素敵ね。一緒に行きたいけど……お邪魔かしら?」


セレーネの言葉を聞いたリュシエンヌは、俺の瞳を見つめながら頷いた。

そして、何か言いたげに瞳を横にちらちらと動かしはじめた。

その方向に視線を移すと、クリストフが俺に向かって必死で目配せをしていた。


クリストフはセレーネに好意を持っている。

近々、マルセル家に婚約の申し込みに行きたいと相談を受けていた。

本当はこの後、食事の予定なんてない。ここに同行するためのちょっとした噓だったが、せっかくのこの機会、友人の気持ちを台無しにするわけにはいかないだろう。


「全然かまわないよセレーネ。多いほうが楽しいよ。クリストフももちろん一緒に行くよな?」

「え! 本当!」

「もちろん行くよ!」


セレーネとクリストフが同時に声をあげ、二人とも照れ笑いを浮かべた。

そんな様子を、リュシエンヌが嬉しそうに見ている。四人で食事というのも、彼女の未来にはなかった。これはかなり良いことかもしれない。


気付くと、ヴェーバー先生が両手に楽譜を携えて、噴水近くのテーブルに座っていた。幾人かが、先生と談笑をしながら楽譜を受け取っている。

そのすぐ近く、噴水の真横のテーブルにアレシアが座っていた。

一人で本を読みながらお茶を飲んでいる。

周りには、声をかける機会をうかがっているのか、ちらちらと彼女を見る男性陣の姿があった。


なかなか良い状況だ。万が一、楽譜が噴水に落ちたとしても、周りにはたくさんの証人がいる。

リュシエンヌが彼女に近づきさえしなければ、絶対に大丈夫だ。


「リュシ、俺はヴェーバー先生に挨拶をしてくるよ。楽譜ももらってくるから、君はここで待っていて」

「まあ、私の親友の婚約者さんは優しいわね」


冷やかすように言うセレーネに、クリストフが慌てたように俺の横に並んだ。

その姿を見てセレーネがフフッと笑う。


「やだ、クリストフったら。私が楽譜をもらってくるから、あなたはリュシのナイトをしてあげて。ではルドウィク、行きましょ」


セレーネは、褐色の大きな瞳でウインクをすると、リュシエンヌに手を振りながら噴水に向かって歩き始めた。

顔を真っ赤にしているクリストフの横で、リュシエンヌが手を振り返している。

きっと、何も起こらない。そんな確信を持ちながらセレーネの後を追いかけた。


ヴェーバー先生の近くまで来た時、本を読んでいたアレシアが、ふいに顔をあげた。

それに気づいたセレーネが、笑顔で挨拶をする。

応えるように手をあげたアレシアは、そのまま視線を俺に移した。

これは、無視をするほうが不自然だ……仕方なく会釈を返すと、彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。

その姿に、近くにいた男性陣から溜息のような声が上がる。

普通に微笑んだだけなのに、周りのアレシアに対するのぼせっぷりが呆れるほどで、少しだけ同情する。


前を見ると、メイベルとリサが楽譜を受け取っているところだった。

その後ろから、セレーネが二人に話しかけている。


……たしか、リュシエンヌの手紙には、楽譜が濡れたのはアレシアだけではなく、メイベル、リサ、セレーネも……と書いてあった。


まさか、今から何かが起こるのか? 辺りを見渡すが、特に変わった様子はない。

楽しそうにお喋りする三人の背中を凝視していると、ヴェーバー先生が俺に気づき、笑顔で手招きをした。セレーネ達三人は、楽譜を手にしてアレシアがいる噴水へと歩いていった。


「まあまあルドウィク・エルンスト。ごきげんよう、何年ぶりかしら?」

「ヴェーバー先生、お久しぶりです。10年以上は経っていると思います」

「あら、そんなに前のことなのね。今日はどうなさったの? また習いたくなった?」

「いえいえ、自分には全く才能……」

「きゃあっ」


突然、背後から誰かが叫ぶような声が聞こえた。

それに続くように、水の跳ねる音と数人の悲鳴があがる。

声の方向に振り返ると、噴水の中に浮かぶ数枚の楽譜と、呆然と立っているメイベルとリサの姿が見えた。

その横には、噴水の縁に倒れかかるようにして、セレーネが座り込んでいた。


「セレーネ!」


慌てて駆け寄り、手を差し出す。セレーネの髪は濡れ、右腕はまだ噴水の中に入っていた。

白いドレスが肌に張り付き、少しだけ透けてしまっている。

急いで上着を脱いで、セレーネの肩にかけた。


「ありがとう……」

「大丈夫か? 何があったんだ?」

「ちょっと、躓いちゃって……」


眉を下げて笑うセレーネの目の前に、俺の真後ろから唐突に腕が伸びてきた。

その真っ白な細い手は、刺繍の入ったハンカチを差し出している。


「よかったらこれ……」


聞きなれないその声にゆっくり振り返ると、そこにはアレシアが立っていた。


「ありがとうアレシア」


セレーナは笑顔でハンカチを受け取り、顔についていた水滴を押さえている。

その時、庭園の向こうから、人の間を縫うようにしてクリストフが駆けてくるのが見えた。


「セレーナ、大丈夫かい」

「ええ、平気よ」


クリストフに手助けされながらセレーナは立ち上がり、皆に向かって頭を下げた。


「お騒がせしちゃってごめんなさい。ちょっと足を滑らせただけだから気にしないでください。ほらこのとおり、怪我もありません」


セレーナは上着を押さえながら、その場でくるりと回って見せた。

いつものセレーナの明るい笑顔に安心したのか、周りは心配そうな様子を見せながらも、すぐ元の空気に戻り始めた。


しかし、俺の頭の中は疑問しかなかった。

一体どういうことなんだ? 本当なら、アレシア達の楽譜が噴水に落ちるだけのはず。

なのに、セレーナが水に濡れ、アレシアには何も起こっていない。

それどころか、彼女は楽譜さえ手にしていない……。

これは、未来を変えようとしたせいで起こってしまった事だというのか? 


噴水の底に沈んでしまった楽譜を眺めていると、ヴェーバー先生の侍女がブランケットを持ってきてくれた。セレーネはそれをさっと羽織り、俺の上着はクリストフから返された。


「ルド、俺彼女を送ってくるよ」

「そうだな、それがいい」


クリストフは、セレーネを包むように寄り添っている。


「ごめんねルドウィク。食事はまたにしましょう」

「あやまらなくていいよ。早く帰って体を温めないと、風邪をひいてしまう」

「うん」

「じゃあまたな、ルド」


まるでナイトのようにセレーネを支えたクリストフは、力強く手を振りながら二人で庭園を去っていった。

気付けば、辺りの人達も席を立ちはじめている。

各自が楽譜を手に持ち、演奏をする為の移動が始まっていた。


そうだ、リュシエンヌ!!


慌てて元居たテーブルを見ると、呆然と立ち尽くすリュシエンヌの姿が見えた。

きっと不安なはずだ、早く彼女の元へ戻らなければいけない。

上着を腕にかけ、足を踏み出そうとした時、同じ様に立ち尽くすアレシアの姿が目に入った。

日の当たらない場所にいるが、それでも周りの人に比べて真っ白だ。

この白さだけでも注目されるのは仕方ないのかもしれない……。


しかし、何を真剣に見ているのか?

遠くを見るような彼女の目線を辿ると、その先にはリュシエンヌがいた。

アレシアはまったくの無表情で、なぜかリュシエンヌのことを、ただじっと見つめていた。

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