第5話 子ども部屋の個室が与えられるには 1
老紳士は、少し間を置き、静かに述べた。
米河君、あなたの弁は、確かに筋が通っておる。
それと同時に、すさまじい怒りもこもっておる。
私はもちろん、あなたのこれまでの弁を甘えだのわがままだのと述べるつもりはない。そんな言葉でも出そうものなら、間違いなく、私をサンドバッグ代わりに言論でボコボコにしてくることくらい、目に見えておる。その言論もまた、単なる感情論ではなく、筋を通してくることは明らかじゃからのう。
私自身は、別に、ただただ子どもを群れさせてテキトーに遊ばせておけば何とかなるなどとは思っておったわけではない。
あのような部屋割りになったのは、敷地の問題や職員の児童に対する管理体制を簡便化するためという、今の御時世であればいいわけにもならんような要素は全くありませんでしたと言えば、それはあからさまな嘘であろう。
古語の「ほんのちょっと、かりそめの」噓ではなく、「見るからに露骨」という現代語の意味としての「あからさま」であるがな。こんなことは無論君には釈迦に説法でしかないが、あえて、申しておこう。
かりそめだろうが露骨だろうが、ともあれ、当時はあのような部屋割りの下、今ほど職員数もなく、その分、多くの子どもらがあの地におった。それこそ、反比例ですな。小学校の算数レベル。何も中学受験レベルとは申さぬ。それで、当時と現在の差は説明できます。
そんな場所で、果たして、中学生以上は個室にしてとか、そういう措置は無論取りようもなかったし、当時の社会情勢を考えてみれば、一般家庭において子ども部屋のそれも個室なんかが与えられた家庭が、どれほどあったでしょうか。
貴君におかれては、この部分は生まれていないなどとの抗弁は無論認められん。
さあ、昭和で30年代。貴君の御両親が子どもの頃じゃ。
その頃、子ども部屋、それも、個室を与えられるとしたら、どのような条件下になるか、ちょっと、考えてみてごらんなさいよ。
一つ、貴君のよく知る方の事例をお出ししよう。米河君は、大学卒業後、岡山市南部の学習塾で教えられたことがありましたね。そのときの高学ゼミの武藤先生とおっしゃる方は、自作農家の一人息子さんで、A高校から慶応義塾大学の商学部に進まれたと聞いております。
武藤さん宅は、裕福と言えるかどうかはともあれ、自作農、英国の産業革命前のいわゆる独立自営農民・ヨーマンとも申すが、その典型のような家庭であった。
そんな中、武藤君は成績優秀な学生時代を送られたわけであるが、そのような家庭において、では、子ども部屋をというまでもない話ではないか。
これは無論、子だくさんとまでは言えない都市部の勤労者の家庭なんかでも、武藤君の少年期のような形で、なんとなく、子ども部屋、一人っ子ともなろうものなら否応なく個室と、そういう話にもなったでしょうよ。
しかし、私のおったよつ葉園は、そんな状況の正反対というべき場所じゃ。
昭和50年代ともなれば、余った部屋を高校生の個室として対応した時期もあったようであるが、移転後はそのようなスペースもなくなり、昔ながらの大部屋のような場所しか与えられなかったようである。
そんな場所で勉強なんかできるかと、貴君はお怒りになるでしょう。
じゃが、そんな場所であっても、貴君はともかくとして、多くの子らにとってはそれでも、施設外の元居た環境に比べれば安全な環境であった。
次善の策として機能していたとまで申せばこちらの詭弁であろうが、そんな程度の環境を与えただけで当時の職員らが満足していたとするなら、それは大きな間違いであることもまた当然の見立てとなりましょう。
かのZ氏もそうであるが、貴君におかれても、その当時のことは懐かしい思い出などにはなり得んのは、必然である。
じゃが、そんな程度でも、当時は成立っていたのも、確かな事実である。
この状況について、私はこう考えます。
当時はまだ、家制度や大家族といったものへの郷愁や未練のようなものが、社会全体に残っていたからではないか。
今私が述べた社会的な状況と私見に対して、貴君の御意見を伺いたい。
あくまでも貴君の恨み骨髄の披露ではなく~いや、正直参ったわ(苦笑)、社会的に見て私の指摘したことが妥当であるか否かを問わせて頂きたい。
おいかがかな?
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