47話 街灯は温かい


 あの一件の後、オレは、橘の横にいた。

 

 彼女は、荷物を持ってすぐに帰ろうとしていたため、『最後まで選手として、登壇したらどうだ?』と言った所、『無理です』とだけ呟いた。


 先輩達は、橘がゴールテープを一位通過で通り過ぎた後に駆けつけた。だが、橘は、それどころじゃないのだろう、俯きがちに荷物置き場まで向かった。


 顧問の先生からは、『ゆっくりと休め』とだけ告げられ、今に至る。

 橘が顧問から去って、オレも後を追おうとした時に、『選手としてあるまじき行動だな』と嘆いていた。


 当然、と言える。


 自分の私情に駆られて、半ば仲間の想いを無下にしたのだからな。

 

 だけれど、オレはその言葉に握り拳を作っていた。


 

 橘は、フラフラと千鳥足のように歩くので、時折、オレがカバンを引っ張っては誘導させた。視線は常時俯き、瞳は真っ黒に染まっている。

 

 オレは、橘の家の方角を知らないため、陸上競技場を出て少ししたところで聞こうと思ったが。


 ぽつり、ぽつり。


 乾いたアスファルトの上に、水滴が模様をつけた。

 

 橘の涙では無かった。天気予報通りに雨が降ってきたのだ。

 

「まじかよ」

 

 なんの前触れもなく、頭上には雨雲が出現し、オレは辺りを見回す。

 近くの公園に東屋のような休憩スペースがあったので、橘に了解を取ることなく腕を引っ張って連れていく。


 八人ほどが座れそうな東屋へと駆け込むが、橘は寒そうに体を抱きしめながら立っている。その衣服は競技用のを着たままの状態で、雨に濡れていた。


「……これ、オレのだけど」リュックに入れておいたタオルケットを橘へ渡す。

 今の橘が自分の鞄からタオルを取り出すことができなそうだったから。それに、オレがこっそりと橘の鞄からタオルを取り出すのはできないし。


 それでも、橘はオレの右手にあるタオルを取らなかった。

 俯いたままだった。

 それが、自分を壊そうと思っているようで、居た堪れなくなる。


 流石にそのままにすることは出来ない為、オレは、橘を座らせようとしたが、脱力したのかゆるゆると座った。


 肩からかけた鞄を身体に触れないよう細心の注意を払い、外す。

 俯いた橘の頭にタオルケットをそっと被せた。


「体、冷えるだろっ?」

「……」

「その格好じゃ、風邪ひくぞ?」

「……」


 何も話さない橘とは裏腹に外の雨音は勢いを増していく。

 このままでは、本当に身体を壊してしまう。


「悪いが、雨拭くからな?」

「…………」

 冗談っぽく言ってみて、『いやですよ』なんて言葉を期待したが、無理そうだな。

「……後から、怒るなよ? …………じっとしてろよな」

 

 オレは、橘の前で中腰になる。橘の頭で被さっているタオルケットで慎重に髪の毛の水滴を拭き取っていく。ゴシゴシせずに、少し押さえつけながら水滴を取る。

 ある程度取れたら、橘が髪の毛をまとめているので、申し訳ないがゴム紐を取る。タオルケットで後ろ髪をまとめてギュッギュと優しく髪の毛全体から水分を抜き取る。


「……」


 にしても、綺麗な髪の毛だな。

 いつも手入れをしっかりとしている女の子の髪だ。


 毛先にも水分がまだあるので、摩擦に気をつけながら、タオルケットにしっかりと押さえつける。自分がやるゴシゴシ拭きは御法度だ。

 オレが原因で髪にダメージ受けたとか、言われても困るからな。


「……」


 ある程度、髪の毛はOKだ。

 だが、本丸の身体の水分は流石に拭けない。

 頭を拭いている間に、橘が話し出すと思って、時間を稼いでいたが…………話す気配はナシ。

 参ったな。


 それでも、橘は寒そうに体を摩っている。

 このまま放置する_____________その選択肢は、毛頭に無かった。


 ただ、タオルケットは、結構雨でぐっしょりと濡れており、これを身体に当てて拭き取るのもな…………。


 そういえば………、さっき近くにコンビニあったよな。

 頭を三百六十度見回すと青色のコンビニがやはりあった。


「ちょっと待ってろな? 今、タオル買ってくるから」

 オレは、鞄を置き、中から財布を取り出して、その身一つで向かおうとした。

 だが、オレの服が背中から引っ張られるので後ろを向く。


「……そんなことまでさせれません」

 橘は、虚な目でオレへ目線を合わせずにそう呟いた。

 ゴソゴソとタオルを取るなり、自分で身体を拭き始める。

 

「悪い、急かせたようだったら、ごめん」

「……なんで、謝るんですか……私の身体なんですから……謝らなくていいです」発した声には重みが一切なくて、今にも折れてしまいそうだ。


「上着も着ろよ?」

「はい」ある程度、水気を取ると、鞄から暖かそうなジャージを着る。


「ゴム紐取って悪かった」

「……いえ、ありがとうございます」オレが出す右手へ左手を差し出してくるので、渡す。しっとりとした手は、やはり女の子だなと思ってしまう。


 そんな橘の横へと座り込んで、止まない雨を見上げる。

 反対方向の東屋の椅子には雨が入り込んでおり、湿っていた。

 それほどの雨なため、帰れないなと頭を悩ませながら、自分についた雨を拭き取る。


「くしょんっっ」

 情けない声と共に、透明な液体が鼻から漏れるので、テイッシュを取り出し拭う。急いでオレは、自分の体や髪をさっきの濡れたタオルで乾かす。


「…………明智先輩。これ、使ってください」

 後輩が自分の鞄から取り出したアディダスのタオルを差し出す。

 それは、普段から橘が愛用していたタオルだった。


「いや、流石に……」

「…………風邪ひかれたら……困ります」

 オレに目を合わせてくれないが、心配してくれているのだろう。

 タオルからはみ出た綺麗な指先は僅かに震えていた。無理して、声や体を動かしているのだ。本当は、辛くて一人になりたいのに。

 それにこのまま、オレが体調を崩せば更に橘のメンタルを壊しかねないかもしれない。


「悪い。洗ってから、返す」

「……じゃあ、交換しましょう」スーパーのレジ袋を取り出して、その中に入れてオレのタオルを渡す。


 そして、橘の甘い香りがするタオルで髪や濡れた衣服の上を乾かす。

 それが少しだけ擽ったかった。女の子の私物に自分の汚い体を当てている事実が妙に居た堪れず軽くだけ拭うことにする。

 

 もし、オレがこの駅伝に来ていなかったら。


 橘はどうしたのだろう。

 この東屋に駆け込んでいただろうか。

 雨に打たれながら、ふらふらと彷徨っていただろうか。


 雨音をふたりで感じながら、その場に留まった。

 まるで、雨が『もう暫くここにいないさい』と助言しているように降り注いだ。


 ざーざーー、ざーざーざー。

 ざーざーー、ざーざーざー。


 

 東屋の周りを木々が覆っているからだろう、東屋は、柔らかな緑の影に浸っていた。強い風が吹かずにただただ空から降ってくる。

 いつもなら、雨という天気が煩わしく思うが、その雨音に耳を傾ける。


 ざーざー。

 ざーざー、ぽちゃん。


 急がしくない今だからか、雨音が落ち着かせてくれる。

 雨が地面へ落ちて、土の香りを引っ張ってきたり、小鳥が共鳴したり、五感がその空間に包まれていく。


「…………」

 橘の横顔をチラッと見ると、心なしか黒い影が薄らいでいた。

 

「いいよな、雨音」目線は合わないが、こっちへ顔を向けると口を開いた。

「……はい。……もうすぐ梅雨ですね」

「あぁ。五月も終わる」

 きっと雨が五月の終わりを告げているのかもしれない。

 頑張ったから、安らぐ六月に入るよって。

 

「わたし……恋……知っちゃいました」

 

 ぽつりと呟くと同時に、橘は瞳をオレへと向けた。

 愛らしいリスっぽい少女の面影を残しつつも、どこか大人びた雰囲気を纏わせた女の子がそこにいた。新しく直面した感情に区切りをつけようとする意思を感じる。


「……明智先輩と話した時は、知らなかったんです」

「……」軽く頷いた。

「自分の中に熊谷睦月くまがいむつき先輩という存在が膨れ上がって……でも……それは違うって否定を何度もしました」

 なぜ、否定した。なんてことは聞かなくていいだろう。 


「これは憧れだって、目標だって……。言葉の意味や輪郭をぼやかして、熊谷先輩の姿を目で追っていました」

「……うん」

「でも、熊谷先輩はわたしのこと見てくれなくて……その視線の先にはいつも明智先輩がいたんです」

「オレ……?」

「……はい」

 長いまつ毛をゆっくりと下げて、思い出すように上を見上げた。


「わたしは、そこで先輩のことを調べました。誰なんだろうって。クラスを探して、いつも横にいる綺麗なかなえ先輩に聞くと『キオペン』の作者だと教えてもらいました。今話題のキオペンだからかと、合点がいったんです」

 神様か。

「オレたちが描いた作品を見るよりも先にオレを知っていたのか」風景からオレへと目線をおろしてくる。

「はい。でも、仰る通り見ては無かったです。それよりも…………中間考査も近かったので」

 明らかな間から彼女が呟こうとしたのが何であるのかを察する。

 おそらく、駅伝で頭がいっぱいで小説を読む時間なんてなかったのだろうな。


「そして、読んで。……あとは……言わなくてもわかりますよね?」

「ぁぁ」

 オレが朝、神様と登校した時に橘が目の前に現れてファンだと名乗った。

 あの時、オレは橘を無駄に勘ぐっていた。

 自分を敢えて注目させていたように感じたからだ。

 

 注目……?

 そういえばあの場には……。


「気づきました?」

 声を聞いて、反射的に目を背けてしまう。

 その機微が彼女を傷つけてしまうと、脳で処理した時にはもう既に遅し。

 向けた彼女の表情は、辛そうに笑っていた。


「そうです。わたしは熊谷先輩に見られたくて、眸の中に私を捉えて欲しくて。明智先輩を利用したんです」


 わかっていた。

 橘が他にも意味も秘めて接してきていたことを。

 神様が作り上げた登場人物が一筋縄ではいけないことを知っていたから。


「最低ですよね、わたし」

「そんなことは」続きを遮るように橘が肩をすくめて話す。

「いまの先輩の顔、見せてあげたいです。____________辛そうですよ?」

「……」

 『利用した』、その言葉だけに感化されて、顔を顰めてしまっていた。


「橘……」

 あの時の相談も涙も嘘ではないと知っているのに、キッカケがどうであれオレは橘と笑う日々が好きになったのに。きっかけなんて大したことない、と言えたらいいのに。

 オレは、『橘』と名前を呼ぶことしかできなかった。


「幻滅しましたよね?」

 前に神様が言っていたっけな。

 『仲良くなりたい本音に、人は利己的な思惑を秘めてる。自分も注目されたい。頭良くなりたい。付き合いたい。ハブられたく無い。仲良くする事で自分の地位や居心地を高める……間違ってないよ』

 

「まさか、幻滅なんてしないよ」

「……ほんとですか?」

「あぁ」

「……だったら、これはどうですか? わたしは、明智先輩と仲良くなって、熊谷先輩と話せるようになりたいってのは?」

 オレを熊谷先輩への足掛かりとしたって事か。

「全然、幻滅してないよ」


「だったら、これはどうです? 明智先輩に嫉妬してたってのは?」

 恋という名前をつけられた今だからこそ、オレに向けていた何かが『嫉妬』も含んでいた事に気づいたのだろう。

「別に」オレは素っ気なく返した。


「だったらっ___________」



「もうやめないか」



 潤みきった眸には、謝罪とつらさが混じり合っていた。

 彼女の本心だろうが、後からつけた感情だろうが、オレはもう橘理央たちばなりおという後輩を見捨てる事はできない。


 深く介入する気はなかった。


 橘を上手く利用して目的の達成を果たそうとしていたのは、オレも同じ事だった。橘には神様が作り上げた設定という名の物語がある、それに付け入ってオレは彼女の物語から発想を得ようと思ったのだ。

 それと、橘が今後文芸部と絡んでいく事が神様の発言から示唆されていた為、ある程度橘理央たちばなりおを探った。文芸部が橘という後輩によって悪影響を生まないかを人知れず懸念していたのだ。

 もしもの時があれば、オレが早めに対処して防波堤の役目を務めようとした。


 さっき橘が『利用した』と発した時、オレは冷やせを浮かべていた。

 橘がオレを利用していた事に、驚いたのもあったが、それよりもオレの思惑がバレていないかが怖くなったからだ。


 浅い関係性であれば、動揺しなかった筈だ。

 昔みたくバカみたいに他の人とかの目を気にせず、大声で応援なんてことしなかった筈だ。

 橘がどういう思惑で走っているかを知って帰ればよかった。

 五区のスタート地点で熊谷先輩と会った時に察して帰ればよかったのだ。

 きっと橘が熊谷先輩を憧れの対象としていたのだと、把握できて満足すればよかった。あの場で橘と熊谷先輩が会う事はマズイと思わず、対面させればよかったのだ。その時にできる、結果を観測すればいいだけだった。


 橘に走り抜けて欲しいからって叫ばなくてもよかった。


 でも、できなかった。

 オレと橘の間に、白の白線を引いた筈なのに、なぜかその白線が……白いテープが取れていた。


 オレの中で、ほんと短い時間だけど、橘理央たちばなりおとの関係を一時では終わらせたくないと思った。


 真っ直ぐにオレへと向けてくる瞳が、どこか昔の俺を映し出してくれたかも知れない。


 関わるなら、責任を持って接するべきだと自分に課していた掟を思い出させた。


「もうやめないか、自分を壊すように否定するのは」

「……こわそうとなんか」

「壊した先には、なんもないぞ」

「へっ……?」不安そうな声を漏らした後輩にオレはしっかりとした表情で続ける。

 

「自分が壊れて、誰かがヒカリのような導きを指し示してくれる。そんなのは都合のいい解釈に過ぎない。その道標が人を迷わす事だってある。弱みにつけられて鴨にされることもある」


 自分もそんな時期があった。

 壊れてボロボロになった壁と血塗れの拳。

 ただ、それだけが残った。

 あと、何百通にも及ぶLONEのメッセージが届いたぐらい。

 壊したところで、自分の気が滅入って自己嫌悪に苛まれて無駄な時間が過ぎるのみ。

 心の中でつぶやくのは、自分を攻撃する疎か者の自分だった。


 偶々、オレは母さんが寄り添ってくれて、涙を一緒に流してくれて、話を聞いてくれて、自分の弱さにそっと温かい手を包み込んでくれた。


 壊れて、壊れた自分を自分が治してはくれない。

 だから、自分で壊してはいけない。

 いつでも、誰かが自分を治してもらえると思ってはいけない。


 寄り添えるほどに余裕がある人が近くにいると思ってはダメだ。


「誰かが、誰かが、誰かが、治してくれる。

 そんなのを期待して壊れてしまうのはダメだ。

 だからさ、たちばな。

 壊そうとしてしまう前にオレを頼ってくれないか?

 オレが帰って、ここにひとりで残る君をオレは想像したくないんだ」

 

「…………」目をキツく絞って、口も何かを堪えるように絞る。

 オレは、アイツからの救いの手を握れなかった。

 もう嫌なんだ。

 誰かが、オレの目の前から遠くへ行ってしまうのが。


「オレを遠ざけて、君が悪役になっても、たちばなの心は泣いてるだろ?」


 その言葉と同時に雨がしとしととした音に変わっていく。

 だが、横で降る涙は溢れるように流れていく。

 あの時に見た涙みたいに優しくすうぅーと溢れていた。

 温かい涙なのだろう。

 ふと雨雲から光が差し、東屋の中心へと綺麗な木漏れ日が溢れた。

 オレたちの足元を照らすヒカリが温かかった。


「また、先輩に涙を見せてしまいました」


 だけど、もう溢れた涙は、出てこなかった。

 一回だけすうぅーと流れたのだ。

 これが心の涙なのだとわかった。


「ごめんな。オレなんかで」

「……いえ、多分、明智先輩だからだと思います」

「……オレが悪いやつみたいじゃないか?」

 初めて、この東屋が神々しく光り始めた。

 その輝きの中にひとりの少女がくすりといつもみたいに可愛らしく笑う。


「えぇ、悪いやつです。女の子を泣かして、嫌な所も見て、汚い感情を吐き出させて、悪役にならせてくれなくて、ひとりにさせてくれなくて、恋を教えさせて」


「嫌な奴すぎないか?」

「でもっ!!」


「それ以上に、温かかったです。明智先輩が手を引っ張ってここまで連れてきてくれたのも。濡れた髪の毛を乾かしてくれたのも。わたしの話をしっかり聞いてくれたのも。横に座って耳を傾けてくれたのも。わたしが危ない方向へ進もうとした時に命綱みたいに引っ張り上げてくれたのも」


「……」目頭が熱くなった。最後のは橘と交わした約束だったからな。


「夜道に走る街頭みたいに温かかったです。泣きたい夜に横にいてくれました」

 にこーっと笑う彼女は、立ち上がった。

 この笑顔が彼女らしい。そんなことをなぜか思ってしまい、アホみたいに口を僅かに開けてしまう。

「帰りましょうか、先輩」

「……あぁ」

 ぎこちない返事と共に立ち上がり、光に包み込まれる公園の出口へと向かう彼女をぼんやりと眺めた。

 きっと、オレが高校生になって初めて誰かに寄り添った瞬間じゃないかと思う。それが橘という後輩になった……その意味を頭の中で転がしながら眩い空の下を横になって歩いた。

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