46話 真っ白のゴールテープ



 気づけば、私は、コースを牛歩の如くどっさりと横切る。

 木の横に佇んでいる熊谷先輩へ足を引き摺らせたように近づく。


 端正な顔立ちと完璧なモデルスタイル。

 襷を渡す際に、心を落ち着かせるような声でのエール。

 女性にしては長身だからだろうか、まるでカモシカの足。

 その脚から織りなす、走りは宙を歩く魔法使いのようにリズミカル。

 熊谷先輩の走りは、誰もが目を止め、心を躍らせ、『頑張れっ!』と応援させるほどに魅力的。

 顔や首から流れ出た汗にさえ、綺麗だな、と思うほどに、熊谷先輩は愉しそうに大地を走っていた。

 

 そんな私の憧れの人。


 そんな人が私の走りを見にきてくれた…………。


 中学時代に私が部活に入って、秋頃、先輩は辞めた。

 勿論、高校受験があるから。

 だけど……先輩には推薦が山のように来ていた。

 顧問は、秋以降も部活しないか、と言っていたのに辞めた。

 

 だから、私は、高校も熊谷先輩と同じ場所にした。

 短い期間かもしれない。

 愉しそうに走る先輩とあの空間で共にしたい。

 

 その一心だった。


 でも、現実は違った。

 私が入学する前に熊谷先輩は、陸上部を辞めていた。

 それも、先輩の得意種目だった長距離を辞めて、短距離に移っていたと言う。一、二年はずっと長距離以外の種目に励んでいた。


 私の目からは、涙が溢れた。

 その事実を知って、名前も知らない陸上部の先輩の前で呆然としながら涙をこぼした。

 その涙の意味は、きっと…………とは違かったのだと思う。


 な、なんでここにいるんですか。


 ずっと、私が走るところから目を逸らしていたのに。

 ずっと、私への挨拶の時に目を逸らしていのに。

 ずっと、私に話しかけてくれなかったのに。


 ずっと、私を_____________________走りつづけさせたのに。

 


 なんで、今は、目を逸らさないんですか。

 なんで、応援してくれるかもって、期待してしまうんですか。

 なんで、貴方の綺麗なフォームに近づけたか、聞きたくなっているのですか。

 なんで、私は、貴方の……熊谷先輩の笑顔ばっかり思い出してしまうんですか。


 なんで、私は、泣いてしまっているんですか。

 

 分からない。自分でも分からなくて、目尻から大量に温かい雫が私の手に溢れた。目元へ押さえつけた手から、いろんな感情を乗せた涙が丸まって流れていく。


 ぽたぽたと目の前が潤んだから、目を瞑った。

 真っ黒で何も見えないのに、自分の瞼の裏には、汗のように流れていくほんのひと時の熊谷先輩と喋った過去が映し出された。

 中学の春と夏にだけ先輩と、話した思い出だ。


「たちばなっ!」


 私は、目を開けて再び、熊谷先輩を見た。

 その瞳を私は、真っ正面で見たかった。

 優しく誰でも包み込むような、透き通った瞳を。


 だけど、熊谷先輩はわずかに切なげだった。


「な…………なんで、来たんですかっ!」

 熊谷先輩はぎこちなく笑う。

 その笑みが、嫌いだった。

 先輩が時折見せる、嘘笑い。


「私のこと嫌いなんですよねっ!? だったら、来ないでくださいよっ! 私から逃げ回ってくださいよっ!!」

 自分でも制御できない怒りに私は包まれていた。

 そう、わかっている。自分がどうしようもなく素直じゃ無いことを。


「橘っ! 今は、走れっ!!」

 わかってるよ。明智先輩。

 でも、今だけは…………。


「私にとことん嫌われてくださいよっ! 理想なんて、憧れなんて、無かったことにしてくださいよっ!」右手をシュッと振り下ろす。怒りをそんな動作で表現する私は滑稽だ。

 止まらない涙が水はけの良い茶色のタータンに落ちる。雨や汗のために設計されている。涙は想定していない事だろう。


「でも……でもっ!」自分の足元には水溜りができていた。

 多分、午後から雨が降るっていう天気予報が当たったのだろう…………。


 そのある筈もない水溜りには、胸の高鳴りを抑えられない少女の姿があった。


 だから、言わせてください。

 もう、貴方に会うのは、これで最後なんですから。


 終わらせよう、自分の気づいた想いに。


「熊谷先輩を想うと胸が苦しいんですっ!!!! ……熊谷睦月に……恋したんですっ」


 ボヤけて見えた熊谷先輩の表情はわからなかった。

 鳴り響いた声音を地面は吸収してはくれなかった。

 清々しいほどに真っ青な空すらも流してはくれなかった。

 後ろから聞こえた足音を消し去った私は、無我夢中でその場から離れるために、ゴールテープへと突っ走った。

 

 目の前は、涙でいっぱいだった。

 だけど、私のお腹には、真っ白のテープを通り越した感覚だけがやけに感じ取れた。

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