第27話 手紙。


「やっぱり、思い出せないや」


 その言葉が私たち二人の背筋を凍らせた事は、言うまでもなかった。


 私たちは、必ず兄は全てを思い出し、自暴自棄になる、そう思っていた。


 だけど、今の兄は、哀しそうだが涙も流さずに「私が朋恵から笑顔を奪ったんだな。本当に済まなかった」そう言い頭を下げた。


 私は、違うと思った。

 そうじゃ無いと思った。


「本当に悪い事をした。私が朋恵の楽しい学校生活を踏み躙ったんだな。本当に済まなかった」もっと頭を下げて、さっきまで泣かなかった涙が溢れた。


 違う、私への涙を流さないでよ。

 もうその涙は、沢山もらったよ。だからっ。


「私はもう大丈夫だから。兄さんの恋人はっ」

「記憶にない人よりも、私は妹……朋恵の方が大切なんだよ」


 流した涙を拭い、目を細めて笑顔を作る。

 それは幼い頃から私を勇気づけたお兄ちゃんの強さを象徴する笑顔だ。


「私にも恋人がいたんだね。……スマホの写真にはそんな人も無いし、家の方へ一回帰った時も部屋には何も無かったから、その手の方はからっきしダメだとばかり思っていたよ」

「その恋人は、居ないんだよ?」声が自分でも分かるが、涙声になってしまっている。


「そうだね。でも、私の記憶にはこれっぽちも残っていない。だから、他人事のように感じているのかもしれないね」


 天井を見上げながらそう語る兄は突然、神から天命を承った者のように実感が湧いていないのだろう。スカーレットさんなるアメリカ人と恋人だったという事実を。


 だけど、何故名前も伝えたのに、知っていたであろう現実を伝えたのに、思い出さないのか。


 それは、事故に遭う前の兄がそれ程までにスカーレットさんとの思い出に蓋を強力に閉めたからに他ならない。


「それ、まだ見てないんだろ?」兄は、私が手に持った未開封の封筒を指差した。


「多分、同じような事書かれているよ?」

「いいよ。私の罰だからね。悲しい気持ちになる義務がある」

「……」


 顔には疲れが出ていた。

 兄は、落ち込んでいたのだ。当たり前だ。

 自分の記憶が無い事でここまで罵詈雑言を浴びせられたのだから。


「英語だよ?」

「読めるさ、僕こう見えて、英語だけは、ネイティブ並みに話せるから」

「……」


「あれ……なんで、英語話せるんだっけ……」兄は小さな引っ掛かりを覚えた。

 私は、目をぱちぱちさせて、顔を小刻みに動かしながら困惑した兄に封筒を渡す。


 兄は受け取り、ふぅ〜と一息吐きながら、封を綺麗に手で開けて中を開けた。


 中には、二枚の手紙が四つ折りで入っていたが、手前の紙から取り出して、一枚の紙にすると、


「なんだ……これ」目元を拭っても溢れ出る。その手紙の文章は恐らくまだ読んでいない。ポタポタと涙が手紙に落ちて、じんわりと手紙に染み込んでいく。


「お兄ちゃん! 大丈夫っ⁉︎」つい、お兄ちゃん呼びしてしまったが、お兄ちゃんは気づかずに袖で目を拭うも溢れ出ては止まらない。


「ごめっ……ともへっ。わた……し、このてがみぃ……よめそうにないっからぁっ」私に手紙を渡してくる。嗚咽混じりに泣くお兄ちゃんは初めてかもしれない。


 私は、受け取って、手紙を見ると前回とは違った文字で、所々よく見ると端の方が切れているし、汚れも目立つ。

 まるで、封筒で送る前にこの手紙の保管が悪かったよう。


「暁さん、いつもより少し、ゆっくり読んであげて」

「えっ?」


 二階堂さんはどこかこの手紙が何であるか分かっているよう。


 私は怯えてこの封筒から逃げた。


 でも、本当は………。


「読みます」



 _____スカーレット・ミラー

 

 お久しぶりです。

 日本から出発して十日ほど経過したけど、大輔は、私に逢いたがってるかな? ふふっ、君は私の事が大好きで大好きで堪らなかったからね。


 まぁ、そう思う気持ちも分かるよ。だって、私もそうだから。


 楽しかったよね、大学生活。大輔と出会ったのは、大学外の


 どうやら、呑気に文章を綴れないようです。


 人が最愛の人に最期、どんな言葉を残すか……大輔と見た映画の後にそれで意見が食い違ったよね。


 私は、愛してる。って言葉。

 大輔は、自分の事は忘れてくれ。って言葉。


 真反対な言葉。


 二人でこのことについて小一時間話したんだよね。結局、お互い譲らずにその場は終わったけど、今だからこそ、思う。


『前を向いて』って意味なんだよね。


 愛してる、忘れて。全く別の言葉だとその時は思っていた。

 だけど、本当はコインみたいに表裏の関係だった。


 愛してるは、いつだって最愛の人との出会いと別れの言葉。


 勿論、おくゆかしい日本人の君は、照れくさいから大事な時しか言わなかったけどね。


 私、寝る前も起きた後も言ってたでしょ?


 大輔は、愛してるを聞いていつも頭をふんわりと掻きながら『おはよう』『おやすみ』ってしか言ってくれなかったけど。その嬉しそうに頭を掻いて口元を歪ませて笑う大輔が好きだった。ううん、今も好きだよ。


 そして、大輔の忘れては、君が私を愛していたからこそ、最期の言葉としたんだよね。大輔は、私が今まで会った人の中で一番優しい人だった。心が澄んでいたって言葉の方が日本人らしいかな? 


 そんな大輔に私は初めて恋をしました。


 そんな君は、忘れてもらう事が相手にとっての最良の選択だと思ったんだよね。


 それが前を向いて、明日を生きて欲しいから。


 私のだってそうだよ? 


 愛してるは、私一人の言葉じゃ無い。


 色んな人に出会って多くのことを学び、今度は、君が愛してるって言う番だよ。だから、君には前を向いて、誰かを愛して欲しい。


 そして、誰かに前を向く力を与えてあげてね。


 

 愛してるよ、大輔。




 兄の目から涙が溢れて、顔がぐしゃぐしゃになる程泣いていた。

 そこには、理知的な兄の面影はなく、愛しい恋人の死を悲しむ男の姿だった。


 滴り落ちる雫を拭うこともできず、ただただ嗚咽を漏らし、喪失感を胸の辺りをギュッと握りしめて抑えていた。


 もう一つの手紙は、さっきのスカーレットさんの文章ではなく、家族からの謝罪の言葉だった。スカーレットさんと大輔お兄ちゃんの愛を認めていた。幾つもの謝罪の言葉と


「娘を愛してくれてありがとう」という感謝の言葉だった。


 その手紙の中にひっそりと、写真があった。


 後ろの白紙のところに『スカーレットと大輔の出会いの場にて初めてのデート』と書かれていた。


 その場所は、兄が雪崩で事故に遭ったところだった。


 写真に映る、二人は、楽しそうに満面の笑みで肩を寄せ合って、ピースをしていた。兄は、ぎこちなかったが、溢れんばかりの笑顔だった。


 兄とスカーレットさんは、北海道の雪山で出会った。もしかすると、大学のイベントか何かが出会いだったのかもしれない。その後、二人は意気投合し、恋人となった。


 私は、その写真を渡した。

 もう、遅れて渡すのは、してはいけなかったから。


 兄は、それを見て笑いながら泣いた。


 懐かしむような笑いで、過去の線が一本に繋がって、全てを思い出したようだった。


 だけど、兄の目から涙は止まらず、落ち続ける。


 私は、そこで言葉を投げかけようかと思い、前屈みになるも、二階堂さんは、右手で制する。きっと泣き止み方を知っているから、と言った眼差しを私へ向けた。


 私が手紙を渡すと、兄の手元はスカーレットさんの形見二つ……いや、三つに増えた。


「そうか……そうだったんだな。そこにいたんだな……レティー」


 胸元で光り輝くペンダントを握りしめた。


 写真のスカーレットさんの胸元にもお兄ちゃんと同じようなペンダントがぶら下がっていた。


 彼女の愛称を呼びながら握った。


 何度もその愛称を口遊む。


 大事なものに触れるように優しく丁寧に包み込んだ。

 すると、兄さんの目元から涙はうっすらとゆっくりと引いていった。


 まるで、スカーレットさんが兄の背中を摩って『前を向いて』と囁きかけているようだった。その言葉が違うフレーズだったとしても『前を向いて』って意味なんだと思う。


 もしかすると、今までペンダントに触れて泣いていたのは、スカーレットさんを感じたからだろうか。


『……』

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