アステロイド・シティ【二回目/解題編】

 感想ノートの【二回目】って何、という話ではあるのだけど、それはそれ、あまりに気に入って四回観た結果、流石に色々考えつくことがあって追記をしたくなったというのが一つと、あとは、巷の感想を眺める限りあまりにもこの作品が理解されていなそうなのがもう一つ。そういうわけで、もう一度なんか書かないとスッキリしないなという気持ちになってしまい【二回目】を書くことにした。


 ただ、一つ断っておくと、というか断言しておくと、この映画は別にここから数千字以上に渡って語る内容がわかっていようがいなかろうが。そしてそれに共感してもらえようがもらえなかろうがと関係なく、ほんとうにいい映画だ。

 けれど、あまりに「わからない」という感想が世に溢れているので少なからず「わかった」と思っている身としては何かを語ってみたいなとは思う。このような経緯なので、以降の文章はかなり順を追った「解説・解題」の体で書かれる。


 で、じゃあ何を語るのか、何が理解されていなくて怒っているのかといえば(そう、もはや半ば以上怒っている)、この作品における入れ子構造、劇中劇の構造のもたらすものについて、というのがその中心になるだろう。もちろん、そればかりでもないのだが、重心としてはきっとそこになる。

 いや、これについては本当に驚いているのだけど、「没入感が削がれるからメイキング番組パートは不要だったんじゃないか」なんて感想が大真面目に存在していて……しかもYouTube動画を投稿したりする「映画好き」層にさえ……だから、いや、え? 本当に? という感じなのである。


 まあ、そろそろ愚痴るのもよそう。

 本作の入れ子構造の話をするんだった。


 さて、この映画は二つのパートが交互に語られるようになっている。ひとつは、劇中劇である舞台演劇「アステロイド・シティ」であり、もうひとつは、そのメイキング番組だ。


 前者はフルカラーのシネマサイズ映像であり、後者は白黒のTVサイズの映像で表現される。舞台劇のパートに入る前には脚本の表紙のようなカットインがあり、その映像が舞台劇の第何幕のどのあたりであるかが示される。どちらがどちらかがわからなくなるということはない。


 そして、この劇中劇の入れ子構造には(本当は言うまでもないことなのだが)重大な意味がある。この映画でいちばん重要な、と言っても過言ではないくらいにある。言いつくすことができないくらいにある。断言するが、この構造でなくなってしまっては、そもそもの言いたいことが全く言えなくなるような映画である。


 なぜか。それは、この映画が終始、「いま・ここ」と「いつか・どこか」を入れ子にし、そしてそれらをどうつなぐのかということを描き続けている映画だからだ。手を変え品を変え、繰り返し、幾重にも。


 では、この映画に描かれる「いま・ここ」と「いつか・どこか」とは具体的になにか。もちろん全てではないが、以下に羅列してみよう。


 たとえば、「観客席」と「舞台の上」。

 あるいは、「うつつ」と「夢」。


 たとえば、「地上」と「宇宙」。

 あるいは、「日常」と「戦場」。


 たとえば、「此岸=生者」と「彼岸=死者」。

 あるいは、「現在」と「過去」。


 このようなふたつの場所はつねに離れていて、ひとつになることはない。であれば全く関係がないのかといえば当然そうでもない。ふたつの場所はいつも何らかの手段で、それも手段で繋がっている。

 その手段があるということ、また、それがあることはなにをもたらすのかということ、この映画は終始それを語り続ける。


 そのことを最も象徴的に示すセリフは映画の最後半の場面にある。主人公のオーギー(を演じている彼)が「芝居がわからない」と呟きながら舞台を抜け出し、セット裏に行く。そこには先のシーンで「宇宙人」を演じていた役者が着ぐるみを半脱ぎで座っていて、裏方スタッフに何やら熱っぽく語っている。


 宇宙人役の男は「僕の演じる宇宙人は隠喩メタファーだ」と語る。

 オーギー役の彼はそこに通りかかり、「何のだ?」と問う。

 宇宙人役の彼は「わからない、謎だ」と返す。


 このやり取りは非常に重要である。


 そのことを説明するにあたり、そもそもメタファーとは何かというところに立ち戻ってみよう。メタファーとはであり、言葉(あるいは物体、出来事)に「別の意味」を持たせることだ。

 だから、メタファーとして用いられた言葉はを持つ。「ここにも在るし/あちらにも在る」存在となる。しかも、それはこっそりとは行われない。目に見える形で行われる。ただし、しれっと行われる。


 つまり、メタファーとは「ここにも在るし/あちらにも在る」存在であり、しかも「目に見えてそうでありながらも、わざとらしくない」存在だ。そのような存在はこの映画の中には溢れている。


 最もわかりやすいもののひとつが「宇宙人」であり、別のひとつが「役者」だ。


 「宇宙人」はもちろん宇宙にいる。だが、ときには地上にも現れる。

 「役者」はもちろん舞台上にいる。だが、舞台を降りても職業役者である。


 かれらは二つの世界のどちらも行き来することができると言う点で、在り方をしている。


 これを踏まえて先のセリフに戻る。「の演じるだ」と言う彼は「役者」であり、しかもそのシーンにおいては「舞台裏の、着ぐるみを半ば脱いだ役者」である。この場面の彼は、まさに「宇宙人=役者=メタファー」そのものの存在である。あまりにもはっきりと。

 こう言い換えることすらできるだろう。「僕は地上にも宇宙にもいるものであり、舞台の下にも上にもいるものであり、ある意味と別な意味を持っているものだ」と。彼にははっきりその自覚がある。だが、同時にという。


 そんな「謎」である彼の存在を鍵とした上で、この映画の各場面を見ていこうと思う。そうしてみれば、この映画の中に常に「此処いま・ここ其処いつか・どこか」そして、それらを行き来するものが在り続けていることがわかる。


 では、解題に入ろう。


 ● 


 まずは冒頭、TVセットの場面。司会者(今後も幕間のたびに現れる)により、この映画が新作劇とそのメイキングで構成されることが語られ、そして脚本家により、舞台の設定(1955年、アメリカの砂漠にある小さな町を舞台とする...etc)についての解説が行われる。


 そして劇中劇のプロローグ。カラーの画面に変わる。「グレープフルーツ、アボカド、ピーカンナッツ、牛、トラクターに乗用車」を運ぶ「貨物列車」が砂漠の線路を走る。列車は同時に「軍人たちと核弾頭」を運んでもいる。ここで列車は「日常」と「戦場」を結ぶ。

 そして、この劇の舞台である砂漠の小さな町「アステロイドシティ」もまた、そこを訪れる人にとっては「ここ」から「どこか」への通過地点にすぎない。人口87人、隕石によりできたクレーターと、その傍らにある宇宙観測所が特徴の町である。


 第1幕。主人公オーギーは息子のウッドロウがジュニア宇宙科学者として表彰されることになったことで、その式典に参加するために子どもたち(15歳のウッドロウと、まだ幼い三つ子の妹)を連れてアステロイド・シティへ向かう。しかし道中で車が故障してしまい、レッカー車でアステロイド・シティまではたどり着くものの、結局彼は義父に迎えを求めることになる。彼と義父は不仲である。


 町には続々と来客が訪れる。ウッドロウと同じく表彰を受けるジュニア科学者たちと、その家族。バス旅行で表彰式の見学に訪れた小学生たちと、引率の女性教師。そのバスに乗り合わせた流浪のカントリーウエスタン・バンド。皆(少々のトラブルがありつつも)それぞれのモーテルへと案内されていく。


 さて、オーギーは子どもたちに、実は三週間前に母親が死んでいたこと、だから今回の道程には同行できなかったことを告げる(生者―死者)。

 死者はどこに行くのか、「天国」か、「宇宙」で星になるのか。オーギー自身は無神論者でありそれのどちらも認めていない。ウッドロウもまた、態度を決めかねている。幼い三人の妹たちは、母の死自体をうまく理解できておらず、自分たちがなにかをすることで母が蘇ることもあるのではないか、と考える。この時点ではまだ、「生者の世界」と「死者の世界」をつなぐ鍵は見えてこない。


 幕間メイキング、オーギーを演じる役者と脚本家コンラッドの運命的な出会いが描かれる。劇中のある場面における、脚本家にも合理的に説明できないオーギーの内面を役者の彼は端的に言い当て、劇中のとあるシーンをその場で演じる。

 それを見て、脚本家と役者は恋に落ちる(彼らは同性愛者である)。登場人物のオーギーとその役者である彼はここでは完全に重なり、「舞台の上と下」を完璧に繋いでいる。


 第1幕のつづき。カフェでオーギーは有名女優のミッジと出会い、食事中の彼女の写真を撮る。オーギーは自分が戦場カメラマンであることを彼女に伝える。彼は「日常と戦場」を戦場から持ち帰る「写真」で繋ぐ存在である。


 ウッドロウはジュニア宇宙科学者として、(ミッジの娘のダイナを含む)ほか四人の子どもたちとともに表彰を受ける。ウッドロウの発明品は「天体への画像投影の研究」であり、月に星条旗を投影して見せる。ウッドロウの発明品は「地上と宇宙」を地上から宇宙方向に繋いでいる。

 また、その直後、宇宙観測所でのシーンでウッドロウは、常に観測所で受信している「宇宙からの謎の電波」を「銀河歴なのでは?」「今日の日付だ」と看破する。ウッドロウは地上と宇宙を間接的に繋ぐことにおいて、替えのきかない役を担っている。


 再びメイキング。舞台の出演を取りやめ何処かへ去ろうとしているミッジ役の女優を演出家が引き留めようとする場面。しかし、演出家は直接は現れず、ウッドロウ役の(かつ、その時点ではの)彼が演出家からの手紙の内容を女優に語り、引き止めに成功する。そして、「才能溢れる」彼は正式なウッドロウ役となる。

 この場面で示されるのは、舞台の外でもウッドロウ役の彼は誰かと誰かを繋ぐ役目を果たした、ということだ。そして、劇中でのミッジはオーギーとのロマンスの果て、ウッドロウの新たな母親になることが示唆される存在でもある。


 再び第一幕の続きへ。いくつかの小さな、しかし示唆的な台詞がある。


 「超秀才は第三次世界大戦を引き起こす」と親たちは考えている(日常―戦場)、そして、その超秀才たちはといえば「記憶ゲーム」を楽しんでいる(現在―過去)。それぞれのキャラクター性と挙げられる固有名詞にはどことなくイメージに重なりがある。

 モーテルの窓越しに話をするオーギーとミッジ。ミッジのヌードシーンの台本読みをオーギーは見学する。「虐待されるアル中を演じたい。でも私悲しくも才能ある喜劇役者」とミッジは語る。役者という存在が万能ではないことを示すようにも聞こえる(舞台=虚構の内―外)。

 ウッドロウの幼い妹たちは母の遺骨をオリジナルの儀式で埋葬しようとし、祖父に止められても激しく反抗する。彼女たちには「生者の世界」と「死者の世界」に対する幼児なりの想像力が生まれている。


 そうして、第一幕のクライマックス。いよいよ「宇宙人」が現れる。


 ストップモーションアニメの形式で現れるUFOと宇宙人は画面上でいかにも異様で異質であり、しかもなぜか、。その動きにも表情にも、尋常ではない妙な愛嬌がある。UFOから降り立った宇宙人は、咳払いを一つすると、アステロイド・シティの町名の由来ともなった小隕石を持ち去ってしまう。そして、その決定的瞬間をオーギーは写真に収めることに成功する。


 そして幕間、演出家のパーソナリティと彼の離婚についてのメイキングパートを挟んで、第2幕では宇宙人を目撃してしまった登場人物たちが、大統領命令に基づき軍により町に閉じ込められることになった様子が描かれる。


 ● ● 


 宇宙人の登場は小学生たちにも大きな影響を与えている。子どもたちの教師であるジューンは予定通り宇宙についての課外授業を進めようとするのだが、子どもたちは宇宙人のことばかりが気になり、授業は進まない。そんな彼女に助け舟を出したのは流浪のバンドマン、モンタナだった。


 ウッドロウもまた、宇宙人の行方が気になる。ダイナと、研究所の職員女史とともに飛び去ったUFOの行先を検討する。結局大まかな方向しか検討はつかないのだが、ウッドロウとダイナはふたりとも「時々、地球外の方がくつろげると思う」という点で意見が一致する(日常―宇宙)。


 一方その親達もまた、お互いが孤独に抱えてきた悩みを共有する。オーギーとミッジの二人は自分たちが「致命傷を負いながら痛みの深さを見せない」人間であるという点で意見が一致する。ここにある対比は「ほんとうのこと」に対する「つくりごと」とも言えるだろう(内面―外面)。


 五人の”超秀才”のひとり、舞台の冒頭から繰り返しなにかと無謀な挑戦を行ってきたクリフォードはいよいよ父に「何がしたい? 何の意味がある?」と問われ、答える。「何かに挑んでなきゃ誰も/気づかない/僕の存在なんて/宇宙では」。ここでも”超秀才”は「宇宙」が見えて(しまって)いる存在として描かれる(日常―宇宙)。


 直後のシーン。ウッドロウはいくつかの示唆的な台詞を放つ。「(宇宙人の到来で)世界は一変した」「明日もわからない」「宇宙には何がある?/人生の意味かも」。

 しかし、それを聞く彼の祖父とオーギーはこれからの生活の相談で手一杯で、ウッドロウの話を掘り下げるには至らない。その後の彼らの会話では、家族であっても完全にはわかり合えないが、しかし許しあえる、というようなことが描かれ、「潤滑油」を抱えた幼い三姉妹のカットで場面は終わる(自己―他者)。


 そして夜になり、”超秀才”のひとりであるリッキーは電話線をジャックし、オーギーの撮った宇宙人の写真を町の「外」へ送信するべく、学校新聞の制作仲間に連絡をとる。


 第2幕が終わり、幕間へ。脚本家による演技セミナーの場面へと映る。生徒は本演劇の主な役者たちである。ここで語られることは、この演劇のテーマが「infinity(字幕上は”永遠”)」であることと、「人生の心地よい眠り」の場面が後半で重要になるということだ。「人生の心地よい眠り」の中で人は別れた人や亡くなった人に出会う、あるいは夢を叶えたりする。いずれにせよ、そのような「眠り」はということが強調される(現―夢)。



 ● ● ●



 そして、町への隔離生活が続いた登場人物たちが「奇妙な感情的次元を呈し始める」との示唆に続き、「」との注釈付きの第3幕。リッキーの学校新聞作戦は成功し、宇宙人の到来は全米に知られるところとなった。アステロイド・シティは以前封鎖されたままだが、その封鎖網の前に観光客と土産物屋が溢れる光景が描かれる(彼らは特別に客車を接がれた「貨物列車」でやってきている)。


 小学生たちの親もアステロイド・シティまで訪れているのだが、隔離場所が違うためカメラ越しにしか会えない。教師のジューンはその事を気にかけるのだが、当の子どもたちはといえば宇宙人をモデルにした工作や絵画、作曲に「想像力」をふくらませる。

 特に宇宙人についての音楽についてはモンタナたちバンドマンの伴奏つきで歌われ、ジェーンとモンタナを含めみんなでダンスを踊る。ここでは授業は放棄され、日常の様子はもうない。


 そしてオーギーがミッジの台本読みに付き合わされる、窓越しの会話の場面。第2幕にある同様の場面のリフレインであるのだが、オーギーの様子がおかしい。ミッジが演じる予定の台本(、ということになるか)を読むだけのはずが、その場にあった電球を彼は台本に沿って「ほんとうに」破壊する。それだけにとどまらず、台本読みをやめたあとも彼はトースターに自ら手を置き火傷を負うという不可解な振る舞いを見せる。

 これを見るミッジが「ほんとうに火傷してる」と驚くのだが、これが劇中劇「アステロイド・シティ」のただしい脚本上のリアクションなのか、火傷する「芝居」のはずが本当に火傷をしたオーギーにほんとうに驚いてしまっているのかは、観客である我々にはわからない。


 加えて、このシーンにはもう一つ重要な意味がある。先述した通り、オーギーを演じる彼は「劇中のある場面における、脚本家にも合理的に説明できないオーギーの内面を完璧に」語ったことで完璧なオーギー役と認められたのだが、そのシーンこそがまさにこの場面なのであった。脚本家は「なぜオーギーが火傷をしたのかわからない」と苦悩していた。しかし、役者にはそれは即答できる内容だった。

 つまり、このシーンは本来、オーギー役の彼が演じる上で最も迷いのない場面の一つであるはずだ。だが、本当にそうなのか。それはいまやオーギーにもミッジにもわからなくなってしまっている。


 その後は、軍人と隔離対象者の小競り合いを挟んで、観測所の研究者女史と”超秀才”たちの場面へ。”超秀才”たちに機材を盗まれた女史は「(何かを企んでいるなら)わたしも一緒に」と彼らに語る。彼らはウッドロウの発明品を用いて、宇宙に向けて何らかのメッセージを送ろうと画策するのだが、どのようなメッセージにするかは決まらない。続けて、女史はウッドロウを個別に呼び出し、「あなたの価値は好奇心」「これは一生に一度の価値があること」と語る。


 その日の夜。”超秀才”たちの中で最優秀者の表彰を行うため、隔離対象者皆が一同に揃う。合わせて、隔離を終了することが通告されて皆は沸き立つ。


 しかし、その直後、再び宇宙人が現れる。

 宇宙人は、盗んでいった隕石を返すとどこかへと去って行ってしまう。


 これにより隔離の終了は撤回、との発表がされたことで、場は大ブーイングで大荒れに。その混乱に乗じてウッドロウはダイナに発明品を用いて告白し、両思いとなる。

 混乱の中、オーギーを演じる彼は言う。

「なぜオーギーは火傷を?」

「芝居がわからない」

 彼は舞台上に据えられた非常口のような扉から舞台裏へ去って行ってしまう。

 この時点での彼は、かつて「完璧」にわかっていたオーギーが火傷をした理由がもうわからなくなってしまっている(人生の意味を喪失したことの示唆)。


 舞台にいることを放棄して去った彼は、(先に「鍵」になると述べた)宇宙人を演じる彼との短い会話、「僕の演じる宇宙人はメタファーなんだ」に関するものと、そして演出家との会話(「芝居がわからない」「いいんだ、物語を続けろ/君は完璧だ」)を経て、新鮮な空気が吸いたいと告げ、劇場の非常口を出る。舞台の外の、更に外へ。


 そして、彼は非常階段の踊り場に立つ。

 すると、真向かいの建物の踊り場に女性の姿がある。


 彼女はオーギーの妻(つまり、ウッドロウの母)を演じるはずだった女優である。しかし、出演する場面はカットされてしまい、写真だけの出演となった。その彼女と、その「カットされてしまった場面」をそこで演じることで、オーギーを演じる彼はこの芝居の意味を再確認する。では、それはどんな場面だったのか。


 その場面は「夢の中」の「宇宙人の母星(の、衛星)」での会話として演じられるはずだった。そこでオーギーは亡き妻と出会う。いくつかの会話を経て、彼女は彼に「あの子(ウッドロウ)は遅咲きなの/新しい母親が必要よ」だと告げる。それを受け入れ、オーギーは彼女の写真を撮り、泣く。続けて、「現像できるかしら」と彼女、「僕の写真だからね」と、オーギー。

 さて、実はこのシーンの時点で、脚本家は亡くなっているとおぼしい。直後にはそれを示唆するシーンも挿入される。であれば、「新しい母親が必要」という、(自分のことはいいから次に向かってほしいのだと告げる)死者の言葉は、。脚本が書かれたときにはそのような意図はなかったのだが、しかし、今ではそのような文脈が必然的に乗る。そのように、脚本家=恋人の書いた言葉を劇中では妻を演じるはずだった彼女が語っている。芝居の外で。夢の中で。そして、

 ここで、ウッドロウの言葉を思い出してみたい。彼は以下のように言っていたのだった。

「宇宙には何がある?/人生の意味かも」

 人生の意味も芝居もわからなくなってしまったオーギー役の彼は、こうして必要なものすべてを取り戻し、舞台へと戻っていくのだった(人生の意味の再獲得)。


 メイキングシーンへ。ここでナレーターから脚本家が実は初演の半年後に自動車事故で死亡していたという事実が観客(わたしたちだ)に告げられる。


 そして回想。脚本家はセミナーで「人生の心地よい眠り」について書きたいのだが、書けないのだと語る。すると、役者たちが口々に「目覚めたければ眠れ」と力強く告げる。それは合唱になる。そのさなかを、隕石を持った宇宙人が()歩いてきて、場面は終了する。


 エピローグ。モーテルでオーギーが目を覚ますと彼の家族を除いて客は誰もいない。昨深夜に隔離が解除され、すでに皆モーテルをあとにしたのだという。祖父は幼き三姉妹が埋めた遺骨を掘り出そうとするのだが、を自称する彼女らの激烈な反対に遭い、諦めてその場に埋葬することを決める。そして母に告げる最後の言葉としてウッドロウは言う。「もう神は信じない」。


 チェックアウトを済ませた彼らはカフェに立ち寄る。じつはウッドロウは”超秀才”の最優秀賞受賞者として奨学金を受け取っていた。使い道はきっとダイナになる、とオーギーに告げる。オーギーには、ミッジの連絡先がカフェの店主を経由して手渡される。そうしてロマンスの気配だけを残し、家族はアステロイド・シティを去り、エンドロールを迎える。



 ● ● ● ○



 いかがだっただろうか。(実は語りきれないことはまだまだあるのだが)こうしてはじめから終わりまで確認していけば、この映画において入れ子構造が必須のものであることはもはや明白なことであろうと思う。この映画では常に”此処”と”其処”が入れ替わり、そしてその両者の中を共通の存在として役者は動き続ける。観客であるわたしたちさえも巻き込んで。入れ子構造はそのためにこそ必要なのだ。


 ときに地に足の着いた日常であり、生者の世界であり、観客たちの世界である”此処いま・ここ”と、ときに遠い宇宙のように非日常であり、死者の世界であり、役者たちの世界である”其処いつか・どこか”。そしては現実の外への想像力や、他者を理解しようと試みることや、遠くを見ようという好奇心をもつ人間だ。

 その第三項的な運動をウェス・アンダーソンは「人生の心地よい眠り」と呼び、わたしたちに「目覚めたければ眠れ」と告げるのだった。


 たとえば、”此処”を現実、”其処”を虚構と呼ぶことは容易い。だから、此処/其処を内包するこの映画自体をまとめて結局は虚構の側だと告げることも容易い。なら、虚構に意味などないのだということもまた容易いように思える。現実にのみ価値があるのだと述べることも。

 しかし、虚構をつくるのはいつだって現実の人間である。彼岸の死者がかつては此岸の生者だったのと同じように。


 わたしたちは眠るように虚構を作り出す。わたしたちはそこで、別れた人や亡くなった人にさえ出会う。わたしたちは夢を見る。そして、その夢を叶えたりもする。そういうことが、「目覚めたければ」こそ必要なのだ、と本作は告げている。虚構=宇宙には答えはないのだった。宇宙には謎だけがあり、そこに棲み、そこから到来するものもまた、メタファーのメタファーとしての謎だけなのだった。しかし、それでも、宇宙には人生の意味がある(と、信じることができる)。そのことを”どうにかして”描こうとしたこの映画には、一本だけの筋が通っているのではない。敵/味方のような二項対立があるのでもない。いくつもの”此処”と、いくつもの”其処”と、それらを繋ぐ”何か”たちのが、入れ代わり立ち代わり、星々のように運動し続けている。





さて、以降は付記おまけである。本筋から外れてしまうため拾いきれなかったいくつかの要素を簡単に箇条書き形式でまとめておく。


・冒頭、故障したオーギーの車の症状を、修理工は、今まで見た同様の故障事例二件(ひとつは軽症で、ひとつは重症)と違う「三つ目の未知の症状」であり、修理不可能であると告げる。車からは謎のパーツが飛び出し、火花を上げて転がりまわる。この「三つ目」の「未知(謎)」の症状という言葉は、これまでの読みを踏まえるとどこか意味深に響く。たとえば、二項対立の否定?


・母から「遅咲き」と評されたウッドロウと恋仲になる少女、ダイナの発明品は「宇宙線で植物を急速成長させる装置」である。彼女はデモンストレーションで花を咲かせて見せる。ダイナが「遅咲き」のウッドロウにふさわしいということが示唆されている。ちなみに野菜を急成長させると有毒化してしまうらしい。ある面では(戦場に毒性野菜をばらまくなど)兵器的な利用も可能であり、ある面で反商業的でもある。


・一方でウッドロウの発明品、天体への画像投影装置について彼は「星間広告にも応用できそうだ」と語っている。こちらは戦場においてはプロパガンダ、平和的には広告利用が示唆される。ウッドロウとダイナのカップルは発明品もやんわりと対になっている。


・ウッドロウはその発明品を用いてダイナに告白する。ハートマークに二人のイニシャルを添え、月にそれを投影する。一方、オーギーを演じる役者と、その妻を演じるはずだった女優の場面において、女優の彼女は正面から見るとハートマークに見えるようなウィッグを着用している。


・エンドロールで流れている楽曲「You Can't Wake Up If You Don't Fall Asleep」の歌詞について。この楽曲はタイトルである「目覚めたければ眠れ」をありとあらゆるシチュエーションで言い換え続ける(詳しくは検索してみてほしい)というものである。

 同じような内容を、別の表現に置き換え続けること、という点で、この映画とこの楽曲のスタイルは完璧にリンクする。英語話者にとっては映画の補助線あるいは答え合わせのようなエンドロールであるのかもしれない(英語話者でないおれには想像することしかできない)。


・この映画の登場人物たちはどうやら実在する映画人、演劇人らを多くモデルとしているらしいのだが、おれには全くその手の知識がないので一切触れないことにした。興味がある方はそのあたりは別途パンフレットや解説を試みる記事に当たってみてほしい。

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