第2話:死んだ人間を捕虜とは呼ばない

 あの日から一カ月が過ぎた。

 多少の痺れが残る左足は、かろうじて切断こそ免れたものの、もとのように走ったり跳んだりすることはできないだろう、と、面談した医者は事務的に言った。


 農作業を毎日している農夫などは、歩けるようになったりすることもあるそうだが、辺境の農夫などたまたま頑丈だっただけだろうから参考にはならんがね、と付け加える。その話に何の意味があったのかは、わからない。

 まあ、毎日、ばたばたと死んでいく大量の戦傷者と向き合ってきたのだ。まして、彼にとっては敵国の人間。事務的にもなるだろう。


 国に戻れば紫紺戦傷勲章だ、冗談が現実になったが笑えない。

 その冗談を笑い合った女は、すでにこの世にはいないからだ。

 あれほど渇望した退役だが、もはや退役の意味を失っていた。

 どうして俺はあの時もっと、必死に動かなかったのだろうか。

 一歩でも動けてさえいれば、彼女もここにいたかもしれない。

 そんな考えが浮かぶたびに、胸の奥にきりきりと痛みが走る。

 真紅の将校服の男の情報も、当然とはいえ何一つ得られない。

 愛する女性の仇と憎んでも、ここにいる限り何一つできない。

 悔恨にさいなまれ続けても、それで何か変わるわけでもない。

 そう自分に言い聞かせても、いつも同じ後悔をし続けている。


 軽い痺れの残る足と、そして遺された手首の薬指にはめられていた指輪。

 国のために戦って得られたものは、その二つだけ。


「アイン、今日も陰気な顔だね。また婚約者のことを考えていたの?」

「エルマードか……。いい加減に放っておいてくれないか?」


 埃っぽい食堂で、野菜くずがかろうじて入っている薄いスープに、小麦の味どころか豆粕まめかすやらなにやらの味とニオイの方がよっぽどきつい代用パン(おがくずが入っているとのもっぱらの噂だ)を浸してもそもそと食べていると、いつもの元気な声が聞こえてきた。


 エルマードだ。小柄な彼の、少年のように甲高い声が耳に障る。ふわふわの金髪を頭に乗せた平和そうな顔が、また妙に可愛らしいのが、癪に障るときたものだ。


「ねえ、つらいならお話しよう? ボクでよければ相談に乗るよ?」

「……いらん。構わないでくれ」


 この収容所で、いつの頃からか、彼は妙に付きまとうようになった。

 俺を見つめるこの少年の、傷痕ひとつない滑らかな頬が紅潮している。こいつはどうせ、戦闘とは無縁の場所で、間抜けな捕まり方をしたのだろう。こちらの気も知らずに、いつも話しかけてくる。


 正直、面倒くさい奴だが、いつも頬を紅潮させた少年が、そのきらきらと輝く淡い青紫の瞳──この瞳といい、金色の髪といい、どちらも見たこともない、非常に珍しい色──をまっすぐ向けてくる。


 なんだか、妙に懐いてしまった子犬を相手にするようで、憎めないどころかどこか気が休まるというか、奇妙に口が軽くなり思わずしゃべりたくなってしまうというのが、また妙に気に障る。


 初めてこいつと遭遇したときは、自分の階級から所属部隊、収容された経緯、そしてミルティをいかに敬愛し、彼女と築く未来をどれほど楽しみにしていたかなど、とにかく異常なほどぺらぺらとしゃべってしまった。

 よっぽど会話の相手に飢えていたのかというと、別段そうでもなかったのだが。


「ね、お話しようよ。ボク、アインのこと、もっと知りたいから」


 初対面時に個人的なことまで全部しゃべったことが、よほど嬉しかったのだろうか。以来、俺を見つけてはそばに寄って来るようになった。ずいぶんと暇な奴だ。


「いつも言っているが、最初に全部しゃべった。それ以上はない」

「そんなこと言わないでさ。……となり、座るね?」

「勝手にしろ」

「えへへ、うん、勝手にするよ」


 何が嬉しいのやら、俺の隣に座ると、顔をしかめながらパンをかじり始める。

 まったく、何を考えているのか全く分からない。

 先に食べ終わり、空になった食器をまとめると、席を立つ。


「あ、待ってよ! ねえ、アイン!」


 慌ててパンを口に押し込み、むせるエルマード。

 苦笑しながら、そのふわふわの頭をくしゃくしゃっとなでる。幼い弟のようで、放っておくのはなんだか気が引けた。


「……ゆっくり食えばいいだろう」

「だ、だって、アインが先に行っちゃうもん!」


 仕方なく待ってやると、エルマードが嬉しそうに微笑んで、そして鬼気迫る勢いで必死にパンをかじり始めた。頬をめいっぱい膨らませて、リスかお前は。


 口をもごもごさせながらようやく立ち上がったエルマードを見届けると、食器を片付けるために移動する。エルマードが、後ろを慌ててついてくる。

 だが、ほかの連中も片付けを始めていて混雑が始まっており、奴はなかなかこちらに近づくことができなくなっていた。待って、と訴えてくるが、さすがにそこまでは付き合いきれない。

 ──そう思ったが、いつものことだ。待ってやることにする。きっと、俺に弟がいたとしたら、こういう思いになったんだろう。




 毎日が虚ろに過ぎていく中で、俺は、どうして一緒に死ななかったのか、ただそれだけを考えていた。

 前線付近までポンコツ列車に詰め込まれ、今日も死体処理に駆り出される。

 戦死者の埋葬は、大きく掘った穴に、その死体を並べて、そして土をかけるだけ。自軍の兵はまだマシな扱いなのだろうが、奴らにとってはいま、この穴に転がっている死体はすべて、敵。


 故にだろう、ごみを埋めるがごとく、尊厳の欠片もない放り込み方をせざるを得ないありさまだった。それでも埋めさせてもらえるのは放置しておけば腐敗するし、最悪の場合、魔素マナ転写によって「生きる死体」にでもなられたら本当に厄介なことになるからだ。


 もっとも、以前は埋葬の手間が無いように、法術で骨まで灰になるほど焼いていたというから、連中も法術に使う魔素マナが惜しくなってきたのだろう。


 そうして俺たちは、来る日も来る日も、味方だった死体を片付けさせられていた。本当は一人一人、丁寧に埋めてやりたい。だが、日々生産される死体を迅速に処理せねばならないとなると、馬車に積まれた死体を穴に放り込み、埋めるしかないのだ。


 憤っても仕方がない。この地は、完全に敵の手に落ちたのだ。百二十年余り続いたこの街の街並みは完全に瓦礫と化し、もはやどのような街だったのか、その名残も見えない。


 あのとき、手に残ったミルティの手首を、俺は、断腸の思いで、その死体が転がる穴の中に横たえた。

 彼女の体は見つかっていない。爆風で粉々になったのか、巻き上げられた土砂の下に埋もれてしまったのか――俺自身、意識がもうろうとしたまま回収され、気が付いたらここ、捕虜収容所となった、市庁舎にいる。部下たちも、一緒に捕虜になっていた。


 収容所の人間に片っ端からミルティのことを知っている者がいないかを聞いたが、その消息を知る者はいなかった。医者も、そのような名の患者はいないだろうと言った。デリエールの家名でも聞いてみたが、しょせん片田舎の豪農にすぎない家名など、知る者はいなかった。


 捕虜という立場になった身に、それ以上の自由などあるはずもない。故に、あの場所にはもはや戻ることもかなわず、ただ、手首から先だけ――その薬指にはめられた、貧相な婚約指輪だけを遺して消えた婚約者を探す手段もなく。


 友軍の撤退が進み戦線が遠くなったせいなのか、以前は毎日のように送り込まれてきた捕虜も、最近はほぼ新顔を見ない。送り込まれてきた捕虜に話を聞いても、明るい栗色の髪をした、淡い碧の瞳の女性など、見たこともないという言葉ばかり。


 こう言ってはなんだが、引きちぎられたような状態ではなく、なかなかきれいな切断面をしていたから、おそらく破裂した法弾の鋭利な破片が、彼女の腕を切断したのだろう。せめて、彼女の最期が苦痛の少ない終わり方であったと願うしかない。


 かつての部下はそんな俺を気遣ってくれたし、例の少年もやたらとしっぽを振る犬のようにまとわりついてくるのはある意味、救いですらあった。だが、それでも心は疲弊し、摩耗していく。


 ──そんな、ある日のことだった。




「アイン、コイツはどこに運べばいいんだ?」

「いつもの焼却炉だそうだ」


 ドルクが、やれやれとぼやきながら木箱を持ち上げる。


 持ち上げた箱の中身は、重要度が低いと思われる文書。一番上には、捕虜の仲間が出したと思われる待遇改善を訴えた要望書。粗末な草皮そうひに馬鹿丁寧な字で切々と書き綴ってあるが、この収容所の偉い人にとっては重要度は極めて低いものだったらしい。日付を見ると数日前になっているから、受け取って即、破棄したのだろう。

 受け取ってくれただけ、御の字と考えるべきなのだろうか。


「アイン。オレたち、いつになったら解放されるんだろうな」

「さあな。俺たちに人質としての価値があるうちは、帰れないってことだけは確実だが」

「模範囚は、奴らの国に住むって条件を呑めば早く出られるらしいが、その噂、ホントかな?」

「さあな」


 模範囚になってわずかに早く出られたところで、ミルティに会うことができるわけでもない。どうでもいいことだ。


「それとさ、アレだよアレ。お前は何だった?」

「……アレ?」

「ホラ、いくつか質問に答えて、水晶玉握らされて面接受けた、アレだよ。オレはへい種合格だったけどよ」


 ……ああ、思い出した。


 なんだかよく分からない、意味不明な質問と、こっちを侮辱するような質問をいくつかされたアレか。


 最も気分が高揚するときはどんなときかとか、目を閉じると星が見えることはないかとか。

 無性に女を抱きたい、犯したい衝動に駆られることはないかとか、女を抱いたときに星がまたたくような感覚はないかとか。

 人を食いたいという衝動に駆られないかとか、生き血をすすりたいと思わないかとか。


 どうも敵国であるアルヴォイン王国の連中は、我がネーベルラントの住人のことを、色情狂か、でなければ人食い人種かなにかだと考えているらしい。


 精神を疲弊させて情報を引き出す新手の尋問かとも思ったが、ミルティを失ってすっかり戦意喪失していたから大して考えることもなく、正直にペラペラしゃべっていたような気がする。


 尋問の割には軍機に関わることは何も聞かれなかった気がするし、先に挙げたような馬鹿にしているのかと思うような質問ばかりだったから、もうどうにでもしてくれとばかりに素直に答えていたはずだ。


「――アレ、模範囚として開放されたあとの待遇に関わるって、もっぱらの噂だぜ。お前は何だったんだ?」

「……特おつ種合格――だったはずだ」

「特乙種……? なんだそりゃ?」

「お前は丙で俺が乙なんだから、甲、乙、丙の順番なんだろう」

「それって、甲種だったら何かいいことがあるのか?」

「知らん」


 アルヴォイン王国の領土の多くは山岳地帯、魔素マナを豊富に含んだ鉱石が比較的多く採掘できるが、耕作地にできる場所は少ないらしい。


 とすると、もしドルクの言う通りなら、色情狂でも人食い人種でもなさそうな、人畜無害な人間を選別し、鉱山奴隷や農奴にしようというのだろうか。それとも、使い捨てに近い開拓民として、荒れ地にでも送り込むつもりなのだろうか。


 鉱山奴隷や農奴はまっぴら御免だが、屯田兵とんでんへいとして土地を耕し国を防衛せよ、と言うのであれば、どうだろうか。開拓した分をある程度、自分の土地として認めてもらえるなら、その生き方もありかもしれない。戦争の際には真っ先に駆り出されそうだが、そのときは逃げおおせてやるのも一興だ。


 ドルクの手に入れた噂がどこまで信じられるのかは分からないが、ちっぽけな領主貴族の五男坊として生まれ、宮廷に任官するのもままならず、この戦争に活路を見出すような生き方しかできなかった俺だ。ミルティを失った今となっては、ネーベルラントにこだわる理由も無くなった。

 ただ――


「ただ、なんだ?」

「ドルク、気づいているだろう? この収容所、以前はウチの女兵士や女士官も、多くはないとはいえ、収容されていたはずだ。だが最近、その姿を見ないように思わないか?」


 ――そう、ずっと疑問に思っていたこと。


 この収容所に送り込まれたとき、女も、少ないとはいえ何人かいた。女たちは別棟に収容されたとはいっても、確かにいたはずなのだ。

 だが、最近、その姿を見ていない気がする。女性棟としてあてがわれた塀の向こうで見かけていたはずの、女たちの姿を。


「そりゃおめぇ……たちだ。いろいろと使い道・・・はあるんだろうよ」


 ふん、と鼻を鳴らすドルク。

 たしかに使い道・・・はいろいろあろうが、しかし、本当にそうなのだろうか。


「それこそ、オレが知るかよ。――さあ、とっとと片付けちまおうぜ」


 そこの角を曲がれば、あとは出口だ。外の焼却炉まで歩くのは面倒くさいが、やれと言われたことをやるのが模範囚への道。

 そう思いながら角を曲がろうとしたときだった。


 冗談のようなタイミングで、将校と接触する。将校だと判断できたのは、階級章と飾緒モールのおかげだった。


「貴様、死にたいのか!」


 理不尽にぶん殴られたあと、さらに床に散らばった紙の束を、怒鳴られながら拾い集める。


 どうも、将校のほうも何やら紙の資料を手にしていたようで、何やら慌てているが、俺は俺で、自分の木箱に入っていたはずの屑紙を拾い集めていた。

 その中に、どうやら間違って将校の分まで手に取ってしまっていたらしい。


「触るな!」


 紙の束を、ぶん殴られながら奪われる。

 将校はずいぶんと慌てていたらしく、結局、もう一度罵ってみせたあと、足早に立ち去っていく。


「災難だったな」


 笑いながら差し出されてきたドルクの手を払いながら、立ち上がる。

 くそっ、ドルクの方が先行して歩いていたのに、なんであいつは回避できて、俺の方が将校の体当たりを食らうことになったのか。


 毒づきながら箱を持ち上げようとすると、雑然と放り込まれた紙の中に、『極秘』の印が押された紙が混じっていたことに気づく。もともと入っていたものに俺が気づいていなかったのか、それともあの将校が持っていたものなのか。



 ――興味を惹かれ、その紙を引っ張り出した時の俺は、これが運命の分岐点であったことを、知るはずもなかった。




 甲種試験適合捕虜移送先の変更 ベイターインク防疫給水研究所 

 移送実施日 雪虎の月 第23日 アテラス駅発 18:1/2




 その見出しの下に書かれたいくつかの名前の一つにあった、見間違えようのないもの。

 何度も目にしてきた、いずれはその家名が、俺のものに変わるはずだった名前。


 ミルティアーネ・プルナ・デリエール


 見間違うものか。

 愛する婚約者、ミルティの名が、そこに在った。


 ――そして通常は、死んだ人間を捕虜・・と呼ぶことは、ない……!


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