9 鏡に映るのは

 睡眠と食事をしっかりとって体力を回復したヴィヴィは、起きて歩けるようになると着替えのドレスを与えられた。

 寝ている間に着せられていた寝間着も上等な絹でできたものだったが、新しいドレスも華やかで贅を尽くした、労働には向かない丈の長さの品だった。


(こんな感じで、着方は間違ってないかな)


 銀の飾りボタンの付いた紺色のベルベット生地で仕立てられたドレスを着て、ヴィヴィは部屋に置かれていた大きな鏡の中を覗く。

 農民の娘であるヴィヴィにとって、鏡は用途は理解できても不思議な存在だった。

 流線状の金細工の枠が美しい鏡に映るヴィヴィの姿は、まともに肉がついて健康な姿を取り戻していると同時に、自分ではない誰かのように冷めた顔をしている。


(私はあの人が好きじゃない。でもあの人の言うことを聞く以外に、今の私にできることはないから)


 ヴィヴィがいるのはどこかの知らない城の中で、庭を歩いている兵士も、部屋の掃除に来る召使いも、皆よそよそしい他人である。


 冷たい石の壁に囲まれた部屋で一人鏡の前に立ち、ヴィヴィは深く息を吸って吐く。肌触り良くヴィヴィの身体をぴったりと包むドレスは、麻の服とは違いすぎて逆に気持ちが悪かった。


 テーブルの上にはドレスと一緒にもらった金や銀の装身具がいくつか置かれていたが、身分が低いヴィヴィにはそれらをどこにどう身に付ければいいのかがわからない。


(すごく綺麗な品だとは思うけど)


 細かな筆使いで花々が描かれた金の円環を手にして、他にすることもなくヴィヴィは深緑色の瞳でぼんやりとその輝きを見つめる。


 そうしていると部屋の扉が前触れもなく開き、初めて見る顔の少年が現れてヴィヴィに話しかけてきた。


「それは耳に付けるんだ」


 背が高くほっそりとした顔をした少年は、ヴィヴィが手にしている装身具を一瞥すると、部屋の中に入ってきて直接身に付ける手伝いを始める。

 その硬質な響きの声を聞いて、ヴィヴィは少年が以前レオカディオと話していた人物であると気がついた。


「あなたは……」


 一度だけ聞いた名前を思い出そうとして、ヴィヴィはじっと少年の顔を見た。しかし声を聞いたことはあっても、顔は見たことがなかったので、見つめたところでまったく名前は思い出せない。


 少年はヴィヴィが会話を聞いていたことを知らないので、ヴィヴィが思い出せなくとも普通に名前を言った。


「僕はサムエル。お前がレオカディオ様の寵姫なら、僕は近習だ」


 黒い高襟の服を着たサムエルはそう言って小さく微笑むと、慣れた手付きでヴィヴィの耳に円環状の飾りを付ける。


 耳飾りもサムエルの手も冷たかったが、ヴィヴィはどんな態度で話しかければいいかわからず黙って立っていた。木細工の人形になった気持ちで、ヴィヴィはされるがままに金銀や宝石で飾り立てられる。


 サムエルもしばらく何も言わなかったが、やがてすべての装身具を付け終えると、ヴィヴィの肩に手を置いて話しかけた。


「お前は、レオカディオ様が苦手か?」


 答えづらい上に不躾な質問だと、ヴィヴィは思った。

 何も言わずに鏡に映った顔を曇らせることが、その問いへのヴィヴィの答えである。

 それは思い通りの反応だったのか、サムエルは淡々と話を続けた。


「そうだよな。あんな人と一緒にいたくはないよな」


 そしてサムエルは鏡を通して、真っ直ぐに迷いのない瞳でヴィヴィを見つめた。


「だがレオカディオ様のことが苦手でも、さっさと好きになった方が得だぞ。せっかくお前も生き残ったんだ。この先楽しく暮らしたいだろ?」


 簡単に奪われたり与えられたりする弱者であるヴィヴィの想いを、サムエルは理解していないわけではなかった。理解した上で、心を捨てろと助言をしていた。


 サムエルの言葉は、合理的に考えれば正しいのかもしれない。

 だが死んだ父や姉、そして自分を生かしてくれたテオのことを考えると、ヴィヴィはそのまま頷くことはできなかった。


「でもあの人は……」


 ヴィヴィはレオカディオへの拒絶を口にしようとした。しかし支配される存在でしかないヴィヴィは、その先の言葉を続けられない。


「レオカディオ様は悪人かもしれないが、彼に気に入られるのは悪いことじゃない」


 サムエルは身分は違ってもレオカディオと同じ側に立っているので、ヴィヴィの言えないこともはっきりと言った。


 鏡に映るヴィヴィは、金の円環を耳に付け、首に宝石を連ねた飾りを下げて、胸元の開いたドレスを着て立っている。過剰な装飾はヴィヴィの幼さの残る美貌を引き出して、ある意味ではよく似合っていた。


(じゃあ私は、あの人にお礼を言うべきなの?)


 そこには垢抜けない農民の少女であったヴィヴィは、どこにもいない。自分が希薄になったような感覚に、ヴィヴィは水に溺れたときと同様に息ができない気がして気持ちが悪くなる。


 しかしサムエルはヴィヴィの苦悩に構うことなく、再び部屋の扉を開いて手招きした。


「準備ができたなら、出かけよう。レオカディオ様が待っている」


 サムエルの指示に従って、ヴィヴィは慣れない踵の高い靴を履いて部屋を後にする。

 外を歩くのは久々であるはずだったが気分は晴れず、ヴィヴィは罪の意識に囚われたまま意味のない思考を続けていた。

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