8 温かな食事

 その後また寝てしまったヴィヴィは、何かわからないけれども美味しそうな匂いに鼻をくすぐられて、同じ場所で目を覚ました。


(何の匂いだろう)


 食欲をそそられて目を開けると、うっすらと覚悟していた通り、ヴィヴィを捕らえた男の白く美しい顔が見下ろしている。


「やっと、ちゃんと起きてくれたか」


 戦場にいたときとは違う、鮮やかに赤い丈長の衣を着た男は、真っ白な陶器の器を手にしていた。


 壁に小さく設けられた窓からは自然な光が差し込んでいたので、夜ではない時間のはずである。


 ヴィヴィの頭の中に、男に言うべきことがいくつか思い浮かぶ。しかし空腹には勝てず、ヴィヴィは白い器をじっと見つめた。


「食べ物……」


 気づけばヴィヴィは、かすれた声でつぶやいている。

 すると男は意外そうに、器を持っていない方の手をヴィヴィの小さな額に置いて話しかけた。


「声は出せるんだな」


 大きくてかたい大人の男性の手に触れられて、ヴィヴィは怖くなって押し黙る。

 そうしたヴィヴィの反応を面白がるように、男はそのままヴィヴィの頬を撫でて、くちびるを指でなぞった。 


「まずは、食事か」


 男はそう言ってにっこりと微笑むと、ヴィヴィから手を離して器に添えられていた銀の匙を掴んだ。

 器の中身は、どうやら羊の乳を使ったスープのようだった。


 白い湯気をあげる温かなスープをすくった匙を、男がヴィヴィの前に差し出す。

 久々に目にしたまともな食事に、ヴィヴィは考えるよりも先に口を開けて、匙の中のスープをすすった。


「急がず、ゆっくり食べろ」


 男に促されるままに、ヴィヴィはほどよく冷めたスープを咀嚼し、熱された羊の乳の甘い匂いごと噛みしめる。

 口あたりの優しい味のスープには、細かく刻まれたきのこや塩漬け肉が溶け込んでて、ヴィヴィがこれまで食べてきたものとは違う複雑な風味の香草か何かが入っている。


(どうしよう。すごく美味しい)


 ゆっくりと時間をかけてスープを飲み込み、ヴィヴィは胃に温かいものが広がるのを感じた。

 長い間飢えに耐えてきた身体が多幸感で満たされて、何も考えられなくなると同時に、さらなる満足がほしくなる。


 一口だけではまったく足りず、逆に空腹感を覚えたヴィヴィは、小鳥が餌をねだるように再び口を開ける。


 すると男はもったいぶって焦らしてスープを匙ですくい、二口目、三口目をヴィヴィに与えた。

 身体を起こす力のないヴィヴィは、男に主導権を握られた形で、食事を続ける。


 そうしたやりとりを繰り返し、男が手にしていた器は空になる。


 ヴィヴィはまだ食べ足りないと思ったが、男は空の器を寝台の近くのテーブルに置いた。


「今日はこれくらいにしといた方がいいだろう。飢えた者が急に食べ過ぎると、胃けいれんで死ぬ」


 男は涼やかな横顔で、ヴィヴィの生死に関わる事柄について語る。

 どう考えても男はヴィヴィの人生を弄ぶ敵であり、憎むべき対象であるのだが、優しいと言えば優しかった。


 男は椅子を一脚寝台の近くに寄せると、そこに座ってヴィヴィの顔をじろじろとのぞき込んだ。


「君の名前は?」


「……ヴィヴィ、です」


 男に尋ねられて、ヴィヴィは声の出し方を思い出しながら答えた。あまり人と話したい気分ではなかったが、男の態度には人を従わせる何かがあった。


「ヴィヴィか。見たとおりの、可愛い名前だ」


 所有権を確かめるようにそっと、男がヴィヴィの名前を呼ぶ。そこでやっと男は、自分の名前を名乗った。


「俺はレオカディオ。オルキデア帝国の将軍だ。一応、王家の血も引いている」


 肩書きや血筋について語るのは、それでヴィヴィが安心すると考えているからだと思われた。


 最初にヴィヴィが察した通り、レオカディオという男はオルキデア帝国の中でも身分が高い存在であるようだった。

 レオカディオの高貴な雰囲気のある整った顔立ちをちらりと眺めて、ヴィヴィは改めて納得する。


「じゃあ王子様なんですね」


「王子と言うには、遠い親戚だが」


 少し照れた表情で、レオカディオはヴィヴィの推察を訂正した。


(でもどうしてそんな人が、私なんかを助けたんだろう)


 ヴィヴィはレオカディオの立場がわかっても、なぜレオカディオがヴィヴィを生かして介抱するのかが理解できずに不安だった。

 だからヴィヴィは、言葉を選んでおそるおそる問いかけた。


「あなたは、私をどうしたいのでしょうか」


 小さな顔の大きな瞳は戸惑いを隠せず、ヴィヴィはレオカディオと目を合わせられずにいる。

 本質を探るヴィヴィの問いに、レオカディオは一瞬だけ考え込み、そしてまた口を開いた。


「そうだな。俺は君を……、まあしいて言うなら寵姫にしたい」


 レオカディオの浅い反応は、ヴィヴィの不安を晴らすようなものではない。

 聞き慣れない言葉に、ヴィヴィは問い直す。


「寵姫?」


「俺のお気に入りの女、ということだ」


 レオカディオはヴィヴィの頭に手を伸ばし、今度はヴィヴィの赤いくせっ毛をかき混ぜて答えた。


 それからしばらくの間、レオカディオの長い指はヴィヴィの髪で遊んでいた。

 かつて髪を撫でてくれたテオの手とは違う、得体の知れない優しさがレオカディオにはある。


 レオカディオはヴィヴィを家畜の仔羊に似た存在として扱っているようで、微妙に違う態度をとっていた。

 愛玩という概念をヴィヴィが理解するのは、もう少し先のことであった。

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