戦国時代コメンタリー

第16話 趙魏韓

 しんの天下統一、おめでとうございます。後半はひどいチート戦でしたね。おかげさまでその対抗馬であるちょうが「六国の盾として最後まで頑張った国」的な印象になっておるのやも知れぬ。と言うわけで、まずは史記と十八史略での比率の変化を見てみよう。


   史記 史略 史記比 史略比 比率対

趙  11316 2106 10.16% 15.55% 152.97%

魏  5245 1000  4.71% 7.38% 156.71%

韓  2362  334  2.12% 2.47% 116.23%

田斉 5644 1643  5.07% 12.13% 239.27%


 いや並べると田斉でんせいが凄まじいな? ともあれ、十八史略で趙のバリ推しが、かんに較べても圧倒的であったため「さすが趙氏の国に仕えた人の書いた歴史書……えこひいきが凄まじい……」と考えておったのだが、こうして並べてみると、むしろ魏より薄くなっていた。韓はまぁ、だいたいの場合空気なので……あの国は人材がいろいろ豊富なのに、国としては悲惨であるな。やはり都をていにしてしまったからいけないのかな(本日の濡れ衣)。



◯趙


 その先祖がしんと同じである、と示される。ここが「十八史略的に」どのような情報トリガーになっているのか、が気になるところである。

 同じ紂王ちゅうおうの臣下の子孫が、片や三代以来の中原文化を守るために戦い、片やそうした文化を粉砕すべく侵略をした、と言う感じなのであろうか。気になって仕方がないので、史記しき司馬遷しばせんによるコメントを見てみた。


吾聞馮王孫曰:「趙王遷,其母倡也,嬖於悼襄王。悼襄王廢適子嘉而立遷。遷素無行,信讒,故誅其良將李牧,用郭開。」豈不繆哉!秦旣虜遷,趙之亡大夫共立嘉爲王,王代六歳,秦進兵破嘉,遂滅趙以爲郡。

馮王孫ふうおうそんより、こう聞いたそうである。「趙の最後の王、趙遷ちょうせんの母は遊女であった。悼襄王とうじょうおうより愛されたため嫡子の兄、趙嘉ちょうかを差し置き王となった。品行悪く、讒言を鵜呑みにしたため良將の李牧りぼくを殺し、郭開かくかいを用いてしまった」と。これがデタラメであるはずなどない。秦が趙遷を捕らえたあと、趙の遺臣らは趙嘉を王に据え、だいにて六年抵抗した。しかし結局は滅んだ。』


 ……むう、なにひとつとして手がかりがないな。と言うかコメントと言いながら完璧に事績ではないか。

 やはり、最前線で秦と多くの戦いを繰り広げたから重んじられた、以上の意味合いはないのやも知れぬ。あるいは「宗家を滅ぼしてのうのうの覇者ヅラしたクソ晋を滅ぼした三晋」を良きものとして扱った、として紐解くべきなのやもしれぬが、まあ胡乱な臆断を重ねても仕方があるまい。ここはいったん、改めて記述を追うこととしよう。


 趙氏のうち、はじめに人物像に言及があるのは「趙衰ちょうすいは冬の日、趙盾ちょうとんは夏の日」。左伝さでんを引けば文公ぶんこう七年とのことで、思い切り同時代的コメントである。これはたぶん「この表現がカッコイイ!」的動機であろう。でもなくば、あえてこの両名をここで特記する意味がわからぬ。と言うか、これを歴史事績として特記するならば「趙盾弑君」あたりもセットにせねば成り立つまい。

 趙盾が霊公れいこうを殺害し、成公せいこうを立てたからこそ、晋で紹介した「公族、余子、公行という三族がうまれ、卿たちの力が強まるきっかけになった。」なる wikipedia 記事がものされたことになる。なた様より情報を頂戴し、これが左伝宣公二年、すなわち霊公が殺された年の末尾にある、とのことであった。いわく「冬,趙盾為旄車之族,使屏季以其故族為公族大夫」。まだ別の箇所の内容も混じって入るが、確かにここを取材元として良さそうな印象がある。ならば諸侯の持つ権力が減衰する契機として、趙盾弑君が記述されねば事績の流れを把握するのは難しくなる。

 ならば難しくなるとわかっていながらも、省いた、と評価すべきであろう。何故か。とりあえず趙は「ヒーローでなければならぬ」のだ。

 無論、ただの牽強付会である。とは言え十八史略の記述は、おおむね趙氏が正義のヒーローであるが如く書かれておる。これはこれとしてきっちりと拾っておくべきであろう。

 こののち、襄子が織田信長の説話よろしい真似(まぁこちらが先だが)を決めたため豫譲に恨まれたなど、ほっこりするエピソードも、ある。が、なべて趙子趙侯はヒーロー扱いである。ある程度知名度が確立されておる武霊王とて、その末路が餓死であったにも関わらず「譲位しました」て話を終わらせておる。


 なので史記の記事が分厚いことを差し引いた上で、なお「十八史略が、趙の評価にバフをかけた」も、まぁ言って言えないことでもあるまい。もっとも、王位が恵文王けいぶんおうを経て孝成王こうせいおう悼襄王とうじょうおう」にまで至ると、そうした名分論にて趙王を養護するのも難しくなっていくようである。そのため国防周りのエピソードは国君の手元を離れ、趙奢ちょうしゃ(いやおらぬが)、藺相如りんしょうじょ廉頗れんぱ、そしてひと世代遅れてやってきた、李牧れんぱといった英雄たちの奮戦むなしく、「無能な王の無能により」亡国と成り果てた、とする。


 こうして綴ってみたところ、改めて史記に思いを寄せることとなった。司馬遷が著述に魂を燃やしたのは「天道是か非か」を世に問うゆえであった、とされる。趙は圧倒的強者である秦に立ち向かい続け、綺羅星の如き英雄をも輩出し、尚も滅ぼされた。天は、いったいなにを思い、斯様なる試練に天下を落とし込んだのか。偉大なる漢の素地を確保するため、と言うには、その犠牲はあまりに大きすぎるものではなかったか。

 そうした史記の抱く叫びが、もと趙宋人の曾先之にとり都合の良いものであったのは間違いないだろう。とは言えどちらかと言えば文人であったろうから、綺羅星の如き武人にはやや興味が薄い印象もある。このあたりが魏や斉の厚さにつながっておるようにも思える。



◯魏


 先に語った如く、魏の文字数は比率は趙よりやや重くなっている。とは言え三晋分立までの展開は駆け足である。すでに趙でも書かれたから、というのも大きかろうが、それ以上に食客について楽しく語り過ぎである。オドートクが大切なのはまあわからぬでもないが、田子方でんしほう李克りこくについて大いに稿を割くよりも前に書くべきことがあろうに。

 兵家の大家たる孫子の存在を退け、呉子のみを登場させているのは興味深い。これは孫武なぞおらず、孫臏がおればオッケーという感覚なのであろうかな。


 惠王けいおうについては記述がもろもろ胡散臭い印象も拭えぬ。十八史略的爆笑ポイントと言えば龐涓ほうけんを盛大に喪い魏の隆盛にブレーキを掛けたあとに王名乗りを開始したこと、であろうか。ただこの辺りは様々な歴史書でそもそもの記述に揺れが激しいそうである。わざわざ田斉に出張らせてネタキャラぶりを発揮させておるあたり、まあ曾先之もあまり好んではおらぬのだろう。その後迫りくる秦に対しフラフラするも一瞬だけ信陵君しんりょうくんが頑張りましたと書き、滅ぼす。魏の人材が好きなだけであり、王に対してはどこまでも辛辣な態度が伺える。



◯韓


 三晋ラストは戦国七雄の中でもだいたい真っ先に忘れられるかんである。魏と同じレベルのスピードで分立にたどり着いたと思えば、韓のことは放置して豫譲よじょう荊軻けいかといった人物と並び讃えられる聶政じょうせいについて盛大に語る。


 その後の世代の宰相である申不害しんふがいについても紹介し、滅ぶが、韓としての記事は聶政≒韓その他、位の勢いである。魏と同じく、割と国そのものについてはどうでも良い扱いなのが美しい。



 ◯



 以上、三晋各国の記述を追って参ったが、まぁ趙とその他、とは言え各地に人物はいた、といった総論となろうか。刺客列伝の採用ぶりがすさまじい。とは言え聶政を扱う意味がどこにあったのであろうかな。韓の記事が薄くなってしまうこと避けるための措置であったのだろうか。


 曾先之の編纂時の想定で「秦に最期まで抗ったもの」のイメージの中には、少なからず金に立ち向かったもの、元に最後まで抗ったもののイメージに重なるところも少なからぬのであろう。そしてこのとき、趙の人々、また荊軻には多分の同情が込められたのであろう、と推測しうる。


 後日改めて十八史略を南宋滅亡まで読み通し、どのような感情を曾先之が抱いていたか、妄想をつのらせたいものである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る