第三話 錆殻逸子、或いは異界
光臣が帰宅したので、國彦からの伝言を伝えた。光臣は「そうか」とだけ応じて、すぐに黙った。夕食は、菅原謹製のビーフシチューだ。僕と菅原はテーブルを囲み、光臣はいつも通りにテレビ前のソファで食事をした。
会話はない。そのはずだった。
「おい」
壁の時計が22時を示す頃。風呂を使ってからベランダで煙草を吸っていた光臣が、口を開いた。僕も菅原もそれぞれお風呂に入って、もう寝ようとしていた。
「なんですか、光臣さん。坊ちゃんは明日も学校だからもう寝なくちゃいけないんです」
「冬休みだろう」
それはそう。でも明日は書道サークルの飲み会が──忘年会はまだ先なので、忘年会の前に一回飲みましょう! ってことで飲み会があるので──
「座れ」
光臣が床を指差す。「嫌です」と菅原が即答する。
「私と坊ちゃんはこっちの椅子に座りますので、光臣さんがソファか床に座ってください」
「おまえ、口ばっかり達者になりやがって」
ああもう、また揉める……。
菅原に頼んで彼の椅子を光臣に譲ってもらい、僕と光臣が椅子に座って対面し、菅原は僕の背中を守れる位置に立ってもらった。これで、光臣が何を言い出しても、何をやらかしてもある程度は対処できるだろう。
「市岡凛子と話をしたのか」
「……直接は、それほど」
「狐の話は聞いたか」
そう、その話。
市岡凛子さんから直接ではなかったけれど、響野憲造が市岡凛子さんから預かっていたメモ帳にある程度のことは書いてあった。菅原の両手が背後から僕の肩をぎゅっと掴む。あったかい。大丈夫。僕と菅原は、大丈夫。
「逸子伯母さんの話ですよね」
光臣が頷いた瞬間、部屋の明かりが落ちて、すぐまた灯った。「ああ」と菅原が感情の読み取れない声を上げる。
一瞬。
ほんの一瞬で、ここもまた異界となる。
錆殻を染める呪いはそれほどまでに強いのか。
「伯母さんは、短い期間ではありますが、けもの憑きの一族のところに身を置いていたことがあるそうです」
「それぐらいは知っている」
そうだよな。伯母がどういう力を持っているのかを知った上で、力を持たない光臣は彼女と結婚したんだ。
「でも、そのけもの憑きというのは、市岡さんではありません」
光臣は黙っている。表情も変えない。
リビングからベランダに通じる窓ガラス。今はカーテンによって閉ざされている窓ガラスが、大きく揺れている。まるで、何かに体当たりをされているような。
床も天井も軋んでいる。タチの悪い家鳴りだ。
「呪い返しをしたのは市岡さんだとか、はたまた僕の父親だとか……かなり色々推理していたようですが」
「俺は、狐を扱う家を市岡しか知らない。それに俺を、俺だけでなく家族を巻き込んで呪いをかけるようなやつがいるとしたら──」
「僕の父ですか? くだらない。父はそんな人間じゃない」
「何もかも知ってるような言い草だな?」
「知ってますよ。あなたよりは」
父は。
善良な人間だったから死んだ。
それだけだ。
それでじゅうぶんだ。
「呪ったのは伯母。呪いの道具は従妹」
光臣は何も言わない。
笑い声が聞こえる。
ゲラゲラ、という男性の声と、クスクス、という女の子の声。
僕の肩を掴んだ菅原の手が溶けている。どろりと溶けて、まるで汚泥のようになって、僕の体を包んでいく。
僕と菅原は、まるでひとつの生き物のようになる。
光臣には見えているのだろうか。
「外法、とでも言いますか。仏教用語だから正確には違うかもしれないけれど」
伯母。錆殻逸子。
彼女が扱う呪いには、人間の体が必要だった。穢れを知らなければ知らないほどに良い。幼ければ幼いだけ呪いに向いている。そういう体を攫って、けもの憑きの伯母は呪いを繰り返した。
そう、攫って。
「関東圏、特に東京都内の一部地域で生まれたばかりの赤ちゃんが行方不明になるって事件が多発してた時期がありますね。僕が生まれる前の話だから、図書館で当時の新聞を確認しました」
「……逸子がどういう術を使うか、俺が知ってたと思うか?」
光臣は演技がうまい。だからテレビ番組にも良く呼ばれる。今の光臣が本当のことを言っているのか、死んだ妻の罪を隠そうとしているのか、僕には分からない。
僕の視界も次第に狭まっていく。菅原が、この部屋に、異界と化した場所に充満するたくさんの憎しみから僕を遠ざけようとしている。
ほとんど何も見えない。そのまま喋った。
「それに較べて、僕の父は本物だった」
光臣がどんな顔をしているのか、分からない。
「聖人だった」
だから、光臣は自分の代わりに仕事をする人間として、逸子伯母を選んだ。
他者を犠牲にしながらでしか、望みを叶えられない人間を。
『光臣さん』
女の人の声がする。
『パパ!』
女の子の声がする。
光臣は答えない。
聞こえていないからだ。
『光臣さん、わたし、よくやったでしょう? ねえ光臣さん、どうしたら満足してくれるの? 諢帙@縺ヲ繧� 光臣さん、あなたに褒められたくてこんなにたくさんの呪いを作ったのに。光臣さん、わたしを見て。谿コ縺励※繧�j縺溘> 光臣さん、あなたの子どもを産むわ。力を持つ子どもを産んで、その子を使って最高の呪いを育てるわ。光臣さん。わたしのことを愛してる? それとも、わたしの呪いが欲しいだけ? もしそうなら、蜈芽�縺輔s、わたしは最後にあなたを呪うわ。錆殻という呪われた家を、水の底に沈めてやる。蜈芽�縺輔s、あなたはわたしがどういうけものを使うのかにも興味がないのね。狐。狐を使役する。でもそれだけじゃない。蜈芽�縺輔s、見て、 豁サ縺ォ縺溘> これがわたしのけもの。蜈芽�縺輔s、あなたを水の中に引きずり込んであげる。それで、ねえ、蜈芽�縺輔s。豁サ繧薙〒縺励∪縺�◆縺� 縺ゥ縺�@縺ヲ諢帙@縺ヲ縺上l縺ェ縺���� 一緒に、おしまいになるまで、一緒にいましょうよ 縺�▽縺九≠縺ェ縺溘r谿コ縺励※繧�k 縺�▽縺九≠縺ェ縺溘r谿コ縺励※繧�k 縺�▽縺九≠縺ェ縺溘r谿コ縺励※繧�k』
聞こえていないのに。
『ママ、やめよう、パパには聞こえてないよ』
視界の端で、黒いフリル付きの傘が揺れた。
同時に、菅原の溜息も。
「光臣さんをここに残して去るのは簡単ですが」
菅原の声が大きく響く。光臣が驚いた様子で顔を上げる。
「入り口を開くのは比較的簡単ですが、閉じるのは面倒なんです。分かりませんか?」
僕には何も見えない。
だから菅原が何をしようとしているのかも、
わか
ら
ない
。
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