第二話 呪いと祈り

 水が流れ込む。「坊ちゃん!」と叫ぶ声がやけに遠くから聞こえる。


「菅原!」

「捕まって!」


 捕まるも何も、

 なんだろう。長い髪の毛そのものが本体になってしまったみたいな真っ黒い影のような外見に、どろどろ、ぶよぶよとした正直あまり触りたくないと思う質感。「坊ちゃん、坊ちゃん」と繰り返す声だけが、それが菅原であるということを示している。

 菅原が、僕と光臣を絡め取る。腕も足もなくなってしまった菅原が大きく体をバウンドさせて、錆殻邸の壁を次々と破壊し、外へ、外へと逃走を試みる。追ってくるのは水だ。

 真っ黒い水だ。


「おまえっ……置いて行け! 俺のことは!」


 めちゃくちゃ至近距離で光臣が叫んでいる。声は嫌になるほど響いているのに顔は見えない。それに、光臣の命令に従う気なんてさらさらない。ずっと死ぬタイミングを探していた人間を、こんなところで都合良く死なせてなんてやるものか。

 僕と光臣は、残念ながら血が繋がっている。僕にもクソ野郎の血が流れている。


「外です!!」


 菅原が叫ぶ。良く晴れた冬の夜だった。雲ひとつない夜空に、小さな星がひっそりと輝いている。月もある。満月だ。


!!」


 錆殻邸の方から──声がした。

 人間の姿に戻った菅原が光臣をアスファルトの上にペッと放り出し、僕のことは大変丁寧な手付きでその場に立たせてくれる。

 光臣は。

 これまで見たこともないほどに悲壮な顔で錆殻邸を見詰めていた。

 本当ならば駆け戻りたいのだろう。あの家に。今、黒い水と、それから菅原が残してきた何らかの術で粛々と破壊されているミノタウロスの迷宮に戻って、そして死にたいのだろう。


 そんなの、僕たちが許すと思うか?


「4年前」


 できるだけ大声を出したかったのに、言葉尻が痙攣した。クソッ。しっかりしろ、僕の声、僕の心!


「父は、交通事故で、死んだ」


 そうだ。首都高で発生した玉突き事故に巻き込まれて。祓いの仕事の帰りだったと記憶している。


「ただの事故だと思ってた、良くある事故……」

「うるさい、黙れ、その声で喋るな」


 声質は遺伝すると聞いたことがある。声変わりを終えた僕の声はきっと、父の声に良く似ている。


「違ったんですよね。それこそ父は、呪い返しを食らった」

「黙れと、言ってるだろう……」


 アスファルトに放り出されたままの格好で、光臣は弱々しく言って黙った。

 菅原が近付いてきて、おもむろに僕の前髪をかき上げる。そういえば灰皿をぶつけられたんだっけ。


「あああ。跡が残ってしまう」

「そう? 前髪があるから目立たないよ」

「大変腹立たしい。菅原が今から行うことを、見て見ぬ振りしてもらえますか坊ちゃん」


 光臣をボコボコにするのを見て見ぬ振りか……今じゃなければ全然構わないんだけど……。


「もうちょっと喋ってから」

「坊ちゃん……なんて慈悲深い……」

「おまえと話すことなんか、何もないと言ってるだろう」

「祓いの力を持っていたのは、だったんですよね」


 菅原には光臣をボコボコにするのを待ってもらわなきゃいけないし、光臣の意志は無視だ。アスファルトに長い脚を投げ出したままで座る伯父が、裸足であることに不意に気付く。なんだよ。徹底的に死ぬ気満々じゃんか。


「おまえになにが分かるっていうんだ」

「あなたと國彦だけが現実で、あの」


 ──と、崩壊する錆殻邸を指差し──


「家の中には虚構しかなかった」


 光臣は答えない。煙草もないから、ただ黙っている。その傍らで菅原が固く握った拳を中空に向けて繰り返し突き出している。素振りだ。ボコボコの下準備だ。


「いつですか。いつ、父の仕事と伯母の仕事が重なったんですか」

「それを言ってどうなる? 逸子いつこは戻らない」


 伯母の名前、逸子だったか。忘れていた。忘れさせられていたというべきか。


「父は祓いを、伯母は呪いを。そういう風に重なったんですね」


 光臣は答えない。菅原の拳がどんどん早くなる。ちょっと怖いよ。


「大きな力がぶつかり合って、結局ふたりとも死んだ」


 父は交通事故で。伯母のことは、分からない。


「それで、父はまあ、成仏した。僕は父の幽霊を見たことがないので、成仏したって判断した。でも、伯母は」

「やめろ」


 両手でくしゃくしゃと髪をかき回し、光臣が唸った。


「そうだ。逸子は、あの家に戻ってきた」

「なぜです!」


 菅原が声を張り上げる。光臣を殴りたくて殴りたくて殴りたくて殴りたくて殴りたくて殴りたくて殴りたくて仕方ない顔と声だ。


「同じだけの強い力がぶつかり合ったら魂ごとぶっ飛びます! そうして坊ちゃんのお父上は川の向こうに、あなたの奥方は地獄行き! 菅原にだってそれぐらい分かります!」


 地獄行きとか言うな。真実だとしてもやめなさい。という僕の心の声は菅原には届かない。


「地獄に、落ちたくなかったんじゃないか」


 光臣の口元に、奇妙な笑みが浮かんだ。


「そもそも錆殻の家で能力がないのは俺だけだった。それを補填するために呼び寄せられたのが逸子だ。仕事をするのは逸子、手柄は俺のもの。錆殻家っていうのはそういう場所だ」

「クズです!!!」

「うるせえ化け物。おい、聞け、俺の弟の能力は錆殻の中でも規格外だった。錆殻という名を捨てたことでほとんど神に近くなった。それと逸子がぶつかったことで、何が起きたと思う?」


 死んだのだ。他にも多くの人間が。

 そのうちのひとりが──僕の従妹だ。


「3歳になったばかりだった」


 光臣に同情することはできない。でも、何者にもなることを許されず、呪いと祈りのあいだで命を落とした従妹には、同情する。

 和ロリに黒いフリルの傘。ああいう格好をしてみたかったんだろう。それがあの子の心残りで。


「國彦には、伯母さんの姿も見えてるみたいでしたけど」

「……あいつも俺と同じだ。能力がない。だから逆に、逸子が逸子に見えている」


 幽霊や呪い、この世のものではない何かには見えなかったってことか。國彦にもきちんと伝えなければなと思う。あの家の中ではみんな死んでるって。生きているのは國彦と、それからこの、クソみてえな父親だけだって。


「もうひとつ」

「まだ喋れって?」


 吐き捨てる光臣の背後で菅原が素早いパンチを繰り出している。やめなさい。

 錆殻邸が崩壊する凄まじい音に気付いたらしいご近所の方々が、家からわざわざ出てきて大惨事を観察している。誰かが警察や消防に通報してくれることを願いながら、僕は続ける。


「國彦には、呪い返しをしてきたのは市岡家だって聞きました。でも今話を聞いた限りだと、ぶつかり合ったのは父の祈りと伯母の呪いだ。市岡家は無関係では?」

「市岡──」


 呟いてよろよろと立ち上がった光臣の顎を、菅原のアッパーカットが打ち抜いた。言葉を失いその場に昏倒する光臣。菅原はやり切った顔をしている。


 話、まだ、終わってないんだが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る