第九話 苅谷久秀
「初めまして。
礼儀正しい口調で名乗った男性が、苅谷夜明さんの父親だった。
苅谷久秀さん。仕事は、奇しくも昨日言葉を交わしたばかりの近藤栄教授と同じく、民俗学の研究者をしているのだという。
小柄な男性だった。僕よりも少し背が低い。どちらかといえば華奢な体躯に、浅黒い肌。現場に出るタイプの研究者だとひと目で分かる。白髪混じりの黒髪をうなじの辺りでひとつに結んだ彼は、
「錆殻光臣さんの甥御さんだと伺いましたが」
「は、はい。そうです。こちらは、僕の保護者代理をしている菅原です」
「こんにちは」
秘書だとか相棒だとか言うよりは『保護者代理』の方が分かりやすいだろう。ペコリと頭を下げた菅原を見上げ「こんにちは」と苅谷久秀さんは穏やかな声で言った。
「おふたりのことは、響野さんからお聞きしています。あの件についての依頼を、受けておられるとか」
あの件。
どの件とも取れる表現だ。
「悪魔の件ですね」
菅原が先に反応した。久秀さんは僕と菅原、そして傍らでメモを取っている響野の顔を順繰りに見詰め、
「食堂に移動しましょうか」
と言った。僕たちは、苅谷夜明さんが入院している個室の前に立っていた。
久秀さんに先導され、病院の食堂にやってきた。かなり大きめの総合病院である。食堂も広い。お昼と夕飯のちょうどあいだぐらいの時間帯ということもあってか、人の姿はまばらだった。窓際に置かれた丸テーブルを囲んで、席に着く。
「悪魔の件ですか」
久秀さんは呟いた。菅原が大きく肯く。
「私たちは──私と坊ちゃんは、光臣さんから悪魔祓いの案件を預かっています。依頼人とも面会しました。ですが、なぜ彼らが悪魔に苦しめられているのかが分からない。赤の他人である私から見ても、依頼人──に加えてその子どもたちが、久秀さんのお嬢さんに行っていた行為はあまりにも悪質です。悪魔に呪われたっておかしくない。ですが、お嬢さんは今、この病院にいる。何もかもが、奇妙にいびつです。どう思われますか」
ものすごい早口だった。僕も響野も、不覚にも呆気に取られていた。初対面の人間相手に菅原がこんなにたくさん喋るところを見るのは初めてだった。
苅谷久秀さんもまた、呆気に取られていた。黒髪を頭のてっぺんでお団子にし、ハイネックの黒いセーターにブラックデニム、大きな丸いフレームの眼鏡をかけた菅原は端から見ても端正な美男子だったし、明確に変人だった。
「悪魔に呪われたって──おかしくはない」
久秀さんが、菅原の言葉をなぞるように繰り返した。菅原が大きく首肯する。僕も同じ気持ちではあるけれど、感情の開示が早すぎる気がしないでもない。
「なるほど……そういう気持ちで……」
「久秀さんは先方の保護者、もしくは加害児童当人とは面会されているんですか?」
菅原が口を閉じた隙を突いて尋ねた。久秀さんは首を横に振り、
「学校自体が『いじめ』という行為を認めていませんからね。会えませんよ。弁護士さんだけが頼りです」
「なるほど」
弁護士。そういえば昨日近藤教授に貰った『市岡家』の人間の名刺、その肩書きも弁護士だったなと思い出す。
「学校側は今もその態度を崩さないんですね」
今度は、響野が口を開いた。今も、ということは。
「ええ、はじめから、ずっと」
苅谷夜明さんが自死──未遂──を試み、夏休み真っ只中の浅瀬船中学校から救急車で運び出されたのは、たしか8月の初めのことだ。これは響野の書いた電子版週刊ファイヤーから得た情報なので間違いはないと思うのだけれど、苅谷夜明さんをターゲットにいじめ、加害行為を繰り返していた児童5名は、何らかの手段を使って夜明さんを真夜中、無人の中学校内に呼び寄せたのだという。
そこで何かが起きた。もしくは何かを、見た。
「七不思議をご存じですか?」
また菅原だ。今日ほんとに良く喋る。
「七不思議?」
久秀さんが首を傾げる。
「そうです。浅瀬船中学校の七不思議。悪魔が出てくるものです」
「ああ。はい。それに関しては、知っています」
「では話が早い」
話が早いと思っているのはおそらく菅原だけだ。僕と響野は置いて行かれている。「話?」と久秀さんが訝しげな声を上げる。菅原は堂々とした口調で応じた。
「私の想像ですが、夜明さんは七不思議の再現を行った。そうして、悪魔に遭遇した」
「……」
「……」
「……」
かなり複雑な沈黙が落ちた。僕は焦っていた。実の娘がいじめ加害に遭った上、現在意識不明の重体で入院を余儀なくされている父親にどうしてそういうことを言うんだ菅原。なんなんだおまえは。響野の口元は薄っすらと笑っている。笑うところじゃないのに。なんて不謹慎な人間なんだ。不謹慎だからこそ出禁になっているはずの記者会見に飛び込んで行ったり、人の神経を逆撫でしまくる記事を書けるのだろうけど。そして、苅谷久秀さんは。
沈黙していた。くっきりとした二重瞼の眼を大きく見開き、真正面に座る菅原を穴が開きそうなほどに強い視線で見詰めていた。
怒られたらどうしよう。まずは菅原に謝らせなくてはならない。
「悪魔に、遭遇した、ですか」
やがて、久秀さんが口を開いた。想定していたほど、怒りの色は宿っていない声だった。
「夜明が……」
「気になっているんです。あの学校の七不思議。全部ご存じですか?」
菅原の問い掛けに、久秀さんが膝の上に置いていた両手を丸テーブルの上に乗せる。右手の中指が欠損しているのに、不意に気が付いた。
「一つ。午前零時に南棟にある音楽室から校庭を見下ろすと、そこには魔法陣が書かれている。
二つ。魔法陣を見てしまった生徒はその日から一週間以内に保健室の四つ目のベッドに横にならないと悪魔に取り憑かれる。尚、保健室には二つしかベッドがない。
三つ。悪魔に取り憑かれた生徒は、対価を支払わなければならない。
四つ。北棟にある理科室の標本資料置き場には、悪魔から逃れられなかった生徒の遺骨が納められている。
五つ。中央棟にある職員室の机は、不定期に増減する。
六つ。職員室には悪魔が潜んでいる場合がある。
七つ目は──欠番でしたね」
冷静な声だった。それにあの面倒臭い内容をきちんと暗記している。
「これでも研究者の端くれです。夜明が──娘があの学校の用務員室で血を流して昏倒したという一報を受けた際、まず気になったのが奇妙な七不思議でした。親として他に気にするべきことも、山ほどあったというのに……」
「奇妙、ですか」
「そうですね。定番のトイレの花子さん、勝手に演奏する音楽室のピアノ、増える階段、その手の怪異がひとつも参加していない。逆に『悪魔』という『学校の七不思議』に登場するには少しばかり生々しい存在や、『悪魔から逃れられなかった生徒の遺骨』という子どもを怖がらせるにはやり過ぎとさえ感じるワードが含まれている」
「あくま」
菅原は、どうしても久秀さんと会話を続けたいらしい。
「いると思います?」
僕は、正直、いる派だ。
だって見てしまったから。光臣の首を締めるバフォメットを。そうして光臣は、病院に緊急搬送されたから。
久秀さんは曖昧に首を揺らした。肯定とも否定とも取れるその動きに僕らが戸惑う瞬間を待っていたかのように、女性の声が響いた。
「苅谷さん?」
「ああ──先生」
久秀さんが振り返る。僕たち3人も視線を上げる。
女性が立っていた。菅原と同じように全身黒尽くめ。黒くて艶のある生地のノーカラーシャツに、裾が足首の辺りまでくる真っ黒いロングスカート。高いヒールのブーツを履いていて、これもまた色は黒。髪も黒だが短く刈り上げられており、薄い紫色のレンズが目を引く円形のサングラスをかけていた。
「こちらは?」
ヒールを鳴らしながら近付いてきた女性が、僕たちを示して尋ねる。「記者です」と響野が名刺を差し出しながら言った。
「記者。……ああ、昨日の会見を荒らしていた」
「え、見てくれたんですか。嬉しいな〜」
全然褒められていないのに照れる響野。どうかしてると思う。
「こっちは昨日の会見で暴れてた錆殻光臣さんの甥っ子とその保護者です」
流れるように紹介されてしまい、「はじめまして」と頭を下げるしかなくなってしまった。女性はサングラスの奥の瞳を大きく瞬いて、「あらまあ」と言った。
「錆殻光臣に──甥が?」
「はい、あの、ええ……」
「きつね」
菅原が、素っ頓狂な声を上げた。今日病院に入ってから、菅原はずっとおかしい。
だが、女性の反応は違った。
「あら」
薄いベージュのリップを塗った口元を綻ばせた女性は、そう言って笑う。
「もうご存じなのね? 苅谷さん、ご紹介を?」
苅谷久秀さんが、慌てた様子で首を横に振る。それはそう。今この場では、なんだか妙なことが起きている。理解しているのは菅原と──サングラスの女性だけ。
「はじめまして、もうお気付きのようだけど」
「はい。菅原は気付いております。でも、坊ちゃんと、響野さんは、まだなので」
「じゃ、自己紹介しないと。S県から参りました、市岡神社の宮司、
──狐だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます