第五話 僕

 光臣は病院送りになった。


 僕や菅原が何かをしたわけではない。あの得体の知れないヤギ──バフォメット?──に首を絞められ、口の中を弄られた光臣は、意識不明の状態に陥った。べそをかく國彦を尻目に僕は光臣の後頭部及び頬を数回引っ叩き、菅原に「そのようなやり方では目を覚ましませんよ」と注意され場所を譲ったら菅原が光臣の胸ぐらを掴んでものすごい勢いで揺さぶり始めたので、これはこれで死ぬかもしれない──と思って救急車を呼んだのだ。


 リビングでとんでもない騒ぎが起きているというのに、伯母、光臣の妻であり國彦の母親である女性は姿を見せなかった。救急車には國彦も一緒に乗り、菅原の運転する大型バイクで僕たちは後を追いかけた。


 幸か不幸か、光臣は死ななかった。その夜のうちに意識を取り戻し、しかし念の為一泊だけ入院することになった。國彦が光臣のマネージャーを勤めている女性に連絡を取るところを見届けて、僕たちは帰宅した。疲れていた。ひどく。だが、「疲れたー寝るー」などと言ってすべてを放り出すわけには、いかなくなっていた。

 帰宅してすぐ、菅原が玄関に盛り塩を置いた。。フン、と鼻を鳴らした菅原が、


「生意気なんですよ」


 と言いながら新しい塩を持ってきた。塩が白いままで保たれるまでかなりの時間がかかったし、菅原が毎回ので掃除が大変だった。


「菅原、あれは」


 時刻は午前4時。もう朝だ。今日の午前中の講義は捨てよう、と決める。


「なんだったの……」

「坊ちゃん。一旦お風呂に入って、それから寝ましょう」


 菅原が、僕の言葉を遮った。珍しいこともあるものだ。


「風呂に?」

「そうです。お風呂にも塩を入れましょう」

「……あったまるから?」


 尋ねると、菅原は小さく肩を竦めて笑って、


「そうですね、そういう効果もあります。坊ちゃん、私は」


 と、言葉を切った僕の大切な相棒、唯一の家族、世界一の秘書はカーテンが開け放たれたままのベランダに視線を向けて、


「あのバフォメットが、憎らしい」


 そう呟いた。

 菅原が、こんな風に個人的な感情を剥き出しにすることは滅多にない。喜怒哀楽の怒と哀が抜け落ちてしまったような男だ。その彼の口から「憎らしい」なんて響きが飛び出すなんて。正直、ぎょっとした。


「……あれは、バフォメットってことでいいのかな」


 どうにか絞り出す。菅原は長いまつ毛をゆっくりと上下させ、


「便宜上、そう呼ぶしかないと考えています。本当の名前がある可能性も高いですが、わざわざ当たりボタンを押して喜ばせてやる必要なんかない」


 やっぱりなんだか、菅原らしくない。そういえば、そもそも菅原は今回の浅瀬船中学のいじめ加害児童の親族からの依頼を光臣から丸投げにされた際、「七不思議の七番目がわかってしまった」などと口走っていなかったか。七不思議の七番目と、あの奇妙な、便宜上バフォメットは何か関係があるのだろうか。

 訊きたいことは山ほどある。だが、今問い詰めても、菅原は口を開かないだろう。彼は僕の相棒で、家族で、秘書で、そしてともだちだが、それ以前に『』というひとつの人格を持った存在である。無理やりに答えを吐き出させても、何の意味もない。僕と菅原を繋ぐ信頼関係にヒビが入るだけだ。だから。


「お風呂入って寝る」

「塩を用意しますね」


 そういうことになった。

 風呂に入って体を温め、僕はすぐに寝室に入った。「おやすみ」と声をかけた時、菅原はまだリビングの椅子に座っていた。朝陽が彼の端正な横顔を照らしていた。


 正午。目を覚ます。菅原はリビングのソファに倒れて眠っていた。

 炊飯器の中に残っていたご飯でおにぎりを作って食べ、菅原の分は皿に乗せてラップをかけてテーブルの上に置き、バックパックを背負って大学に向かった。今日の午後は、出席しなくてはいけない授業はない。ゼミも。だから、久しぶりにサークルに顔を出すことにした。玄関に置いた盛り塩は白いままだった。


「こんちはー」


 声をかけて、部室に顔を覗かせる。部屋の中には墨の良い匂いが漂っていた。


「あ、錆殻くん!」


 と、爽谷芽衣子先輩が声を上げる。


「ねえ、ちょっと、大丈夫なの!?」

「はい?」


 お久しぶりですと頭を下げようとしていたのを、ものすごい勢いで遮られた。最近の僕は遮られの星にでも照らされているのだろうか。菅原といい……。


「SNS! すごいことになってるよ!」

「は?」


 自慢じゃないが、僕はそれほどSNSに対して熱心な感情を持っていない。友人や同期生、それにサークルメンバーの独り言や撮影した写真なんかを見るのは好きだけど、赤の他人が何を言っていても然程気にならないし、爆発炎上しているアカウントなんて以ての外だ。そういう人間の背後には結構な確率で得体の知れない存在──怪異とかそういう──がちらついていることがあり、中途半端な気持ちで目撃した瞬間事件に巻き込まれることだって少なくないからだ。


「ねえさくら! 錆殻くんに見せたげてよ!」

「いや……」


 見たくないな、SNS。あと僕は一応『錆殻』の名前で大学に籍を置いているが、本当の苗字は錆殻じゃない。

 桜、と呼ばれているのは爽谷先輩の傍らで墨を磨っていた一年先輩の部員・さくら恵未めぐみ先輩だ。爽谷先輩と桜先輩は交際している。あと、書道部の部室は全面畳敷きだ。

 ロングスカートの裾を払って立ち上がった桜先輩が、黙って僕の目の前に画面の割れたスマートフォンを突き出す。液晶画面には何らかのSNSアプリが表示されており、更に──


『凄腕霊能者の身に何が!? 深夜の緊急搬送!!』

『錆殻光臣(48) 今夜18時より緊急会見』

『浅瀬船中学校いじめ事件と錆殻光臣の関係とは? 今夜すべてが明らかに?』


「うっわぁ……」


 そんな言葉しか出てこなかった。光臣……タレントじゃないんだから……いや、タレントなのかな……。


「光臣さんって錆殻くんの保護者でしょ? 倒れたん?」


 桜先輩の肩に顎を乗せながら爽谷先輩が好奇心を隠そうともせずに尋ねる。桜先輩と爽谷先輩のあいだには15センチぐらい身長差があるから、爽谷先輩はものすごく背伸びをしている。

 桜先輩が何も言わずにその場に正座をしたので、爽谷先輩はつんのめって転んだ。


「ちょっと! 恵未!」

「重かったから……」

「重くないでしょ! 羽のように軽いでしょ!!」


 透けるような金色にブリーチした髪をさらりと払いながら言う桜先輩と、ガルガルと食ってかかる黒髪ベリショの爽谷先輩。仲良しだ。


「で、だいじょぶなん」


 桜先輩の声は──僕に向けられている。

 灰褐色のカラコンを入れた目がじっとこちらを見詰めている。

 僕は溜息を飲み込んで、先輩たちに倣ってその場に正座した。


「正直良く分からないです。伯父が昏倒した現場には僕も居合わせたんですが、病院に搬送後は家族……従兄弟が伯父のマネージャーさんに連絡したりと、色々片付けてくれたんで」

「そっか。一応さ。一応伯父さん、親戚じゃん? で保護者じゃん? だから、なんか大変なことになりそうだったら……先輩たちに相談しなよ?」


 爽谷先輩の声に滲むのは好奇心に加えて、明確な優しさ。くちびるを引き結んで、桜先輩の手の中の、液晶画面が信じられないぐらいバキバキになっているスマートフォンを見詰める。何をどうしたら、こんなにめちゃくちゃなことになるんだろう……。


「爽谷と私に相談できないことなら、コンちゃんもいるし」


 桜先輩が言った。コンちゃん。書道部を何かと気にかけてくれる、宗教民俗学担当の近藤こんどうさかえ教授──。

 コンちゃん教授なら、何かを知ってるんじゃないだろうか。バフォメットはともかく、狐憑きの市岡家についてなら。不意にそんな気持ちになった。

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