転生聖女と五人の変質者

本田翼太郎

第1話 走れ聖女! ぶっとべ皇子!

 大人になれば全力で走る機会はなくなると、清宮結衣きよみやゆいは思っていた。


 その前提が正しいのなら、大学二年生は大人ではない。


「誰か、助けてください!」


 文字通りの全力疾走。髪を振り乱して、結衣はキャンパスを駆け抜けていた。


 その背を、一馬身遅れて長身痩躯の美青年が追いかける。


「待ってくれ! 僕だよ。カルニエ皇国、第一皇子、レオニダス・フォン・ヴァンシュタインだ!」


 彫像のように整った顔は中性的で、気品と自信に満ちあふれていた。さらさらとした金髪が追い風を受けて、優雅にたなびいている。


ーー立ち止まるわけねえだろ。


 変質者に追われたら、大声で助けを呼びながら逃げなさい。小学校の担任教師からの教えは、今のところ功を奏していない。


「なんなんですか、あなたは! ひ、人違いですうう」

「婚約者である僕のことを忘れたというのか! 君への愛をつづった恋文の束を、この胸に秘める純情を伝えるために造らせた白薔薇の庭園を!」

「頭おかしいんじゃないですか!? だいいち、あなたは誰ですか」

「カルニエ皇国、第一皇子、レオニダス・フォン・ヴァンシュタインだ!」

「ひいぃぃ、誰か、助けてください!」


 自称、レオニダス・フォン・ヴァンシュタインの追跡は執拗だった。


 すでに結構な数の学生とすれ違っているのだが、誰ひとりとして救いの手を差し伸べてはくれない。


 演劇サークルの悪ふざけだと勘違いでもしているのか、遠巻きに白けた笑みを浮かべるだけだ。


 都会の人間は薄情だと聞いていたが、よもやここまでとは。


 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる老人たちのいた故郷の田舎町を、結衣は生まれて初めて懐かしんだ。


「ひ、ふ、へ、も、もう無理……」


 息も絶え絶えになり、足がもつれる。


 派手にずっこけそうになった結衣の体を、滑りこんできたレオニダスがすかさず支える。


 ちょうど膝枕をされているような格好になった。


 エントランスを行き来する学生達が、何事かと、興味をあらわに展開をうかがっている。


「大丈夫かい、マリアベル?」


 蒼白になった結衣の顔を、レオニダスはさも心配そうに覗きこむ。


 流れた前髪が片目を隠し、翡翠色の瞳が潤んで色っぽい。


「いや、たとえ君が大丈夫だと答えても、君の美しい体に傷がついたら、僕は自分自身を許せないだろう。それが毛先ほどの傷だとしても、僕の心は針のむしろに刺されたような痛みに晒されてしまうだろう。ねえ、大丈夫かい、マリアベル?」


 かすり傷ひとつないが、衆目の好奇に晒された乙女心は瀕死だった。


 痛む脇腹を押さえながら、貴様の頭が大丈夫かスカタンが、と結衣は毒づきそうになる。


 息が切れてさえいなければ、実際に言葉にしていただろう。


ーーさては、妄想癖の変態だな。


 純日本人顔の自分を、どこぞのマリアベルさんと間違えるはずもないと、結衣は思った。


 なんとなく聞き覚えのある名前なのだが、答えを導くには酸素が足りない。


「ずっと探していたんだよ。この世界に産み落とされてから、ずっとね。いったいどれだけの夜を数えたと思う? 満天の星が夜空を彩ろうとも、僕の心はずっと深い闇に落ちていた」


 レオニダスは片手で自分の顔を覆い、反対の手で地をしめす。


「あるいは、僕は暗い海の底に沈む貝だった。今日まで希望を捨てずにいられたのは、君という一粒の真珠が、この身の内側で輝いて、この息苦しい世界を照らしてくれていたからさ」


 エントランスに、二時限目の始まりを知らせる鐘が鳴り響いた。


 レオニダスは、さも口惜しそうに唇を噛む。


「いかん、もうこんな時間か。僕たち二人の仲を嫉妬する誰かの仕業か、いや、二人の再会を祝福する天使が、聖堂の鐘を打ち鳴らしたに違いないね。これから必修科目の試験があるので、しばし失礼するよ。心配することはない、またすぐに会えるさ」


 抱き起こされて、乱れた髪を手櫛で整えられる。


 颯爽と立ち去るポエマー皇子の背を、結衣はぼんやりと眺めた。


 興味をなくした野次馬が、そこかしこへと引いていく。


ーーいったい何がしたかったんだ……?


 初対面の人間からこのような仕打ちを受けるいわれはない。


 結衣は穏やかな人生を送ることを信条にしており、これまで他人との衝突をできる限り避けて生きてきたのだ。


 衣服の乱れを直して、廊下の脇にあるベンチに腰かける。


 息が整うのを待つあいだ、今日一日の出来事を思い返す。


 自称レオニダスの追跡が始まったのは、一限目のテストを終えて教室から出た直後だった。


 背後からのめつけるような視線を感じはしたものの、思春期特有の被害妄想ぐらいにしか捉えていなかった。


 振り返ってみれば、その時から目をつけられていたのだろう。


 真後ろの席にイケメン来たぜ、よっしゃ大安吉日! と、心の中でガッツポーズをした過去の自分の浅はかさが、今さらながら悔やまれる。


 それにしてもだ。


 意識のどこかに引っかかりがある。


ーーマリアベルとレオニダス


 両方とも耳なじみのある名前だった。


ーーん、ああ、待てよ……


 結衣は思い当たり、あっと声をあげた。


ーーそんなはずはない。だってそれは……


 聖女マリアベルと皇子レオニダス、その二人は、結衣の夢によく現れる人物だった。


 しかし、知られているはずはないのだ。


 幼い頃から繰り返し見てきた異世界の夢を、結衣はこれまで誰にも話したことがない。


 おもむろに視線を落とすと、トートバッグに見覚えのない封筒がまぎれこんでいた。


 裏には白い薔薇のシールで封がしてあり、『レオニダス・フォン・ヴァンシュタイン《白馬聡一》』と、差出人の名が書かれていた。

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