竹刀三本、心は二つ、勝負は一本

竹尾 錬二

第1話 竹刀三本、心は二つ、勝負は一本

0.


 時を遡ること昭和9年5月4日、皇居内済寧館にて皇太子殿下御誕生奉祝の天覧武道大会が華々しく開催された。

 天覧武道大会という言葉を耳慣れなく思う読者もいるだろう。そんな諸兄に少しだけ説明すれば、天覧武道大会、通称天覧試合とは戦前に幾度か開催された天皇陛下に御観覧を給う武道大会のことである。昭和時代に行われた天覧試合としてはこれが二回目。皇太子継宮明仁親王――後の平成天皇の誕生を記念しての開催であった。当時、天覧の栄に浴するのは武道家として最高の栄誉でもあり、当然、天覧試合に出場する選手たちは人品骨柄、並びにその実力に疑いようのない、全国から選りすぐられた猛者たちばかりである。

 幕末維新から明治大正といった時代を駆け抜け、近代国家としての体裁を確固たるものとしながらも、前時代の勇壮な気風を残した昭和初期。そこには現代とは趣を異にした武道家達の戦いがあった。

 ――さて、剣道の部、府県剣士の二回戦に目を向けてみよう。当時優勝候補として僂指されていた二人の名剣士。彼らは、そこで決勝戦を待たずして激突することになった。

 片や、野間道場で剣道のエリートとして育てられた当代一の名門剣士、野間恒。

 片や、当時隆盛を誇っていた二刀の中で全国一の使い手とも称された、志田三郎。

 

 令和の当世では殆ど忘れ去れてしまった、一刀と二刀、その頂点の剣士の激突に、今一度光を当ててみたい。


1.


 当代一の若手の剣士、野間恒のことを語るなら、まず彼の父の野間清治をことから語らなければならないだろう。

 野間清治は剣道の関係者というより、出版業界に覇を唱えた人物として名を残している。彼の設立した大日本雄辯會は、今日では講談社の名で知られている。現代でも誰でも知っているだろう、日本屈指の大出版社だ。

 そして野間清治は、幕末は千葉周作の時代の北辰一刀流玄武館の四天王と呼ばれた名剣士、森要蔵の孫にあたる。幕末維新は現在では遠き彼方の歴史上の出来事に過ぎないが、昭和初期にはその当事者たちと触れ合った生の記憶がそこかしこに息づいていたのである。

 そんな野間清治にとって、剣道は己のアイデンティティであり、信仰でもあった。彼は、

『(教育として)剣道ほど最も有効な方法はない。最善にして最高の方法は剣道を修行することである』

 という、今日からすれば異様とも思える程の剣道万能の教育理念を持っていた。

 そして、野間清治自身は、アキレス腱の断裂により、剣道を断念せざるを得なかったというコンプレックスを抱いていた。

 清治の剣道への偏執は、息子である恒へと向けられた。清治は恒を、己の信奉する剣道教育の体現者として育て上げようとしたのである。

 恒の最終学歴は、小学校卒業である。清治は恒を中学校に進学させず、家庭の中で講談社の縁で招いた家庭教師による、帝王学を学ばせた。

 そして、己の設立した超党派的な大道場――野間道場にて、剣道教育を施したのである。野間道場には中山博道や持田盛二といった、後に『昭和の剣聖』と呼ばれる程の超一流の指導者達が招聘された。野間清治は彼らを多いに歓待し、当時の東京一とも言われた資産から、多額の謝礼を支払っている。

 野間恒の実力は広くに知れ渡っていたが、学生時代のその戦績は殆ど残っていない。中学校に進学しなかった恒は、当時盛んだった学生剣道の試合に出場する機会が得られなかった為だ。

 しかし――野間道場で当代一流の指導者達に鍛えられた恒は、着実にその実力を蓄えてきた。

 後に当時の野間恒を知る人物達は、彼には鬱屈とした部分があったように語っている。

 それは当然のことだろう。恒は、己が父の理想の為の傀儡であることを肌で感じていたし、ガラスの檻で閉じ込められていたような息苦しさを感じていた。

 そんな恒の実力が衆目の前で披露されたのは、天覧試合の東京府予選である。

 恒は世間に秘められてきた実力を発揮し、危なげなく決勝戦まで登りつめた。その相手は、従兄弟の野間寅雄である。野間寅雄は野間清治に引き取られて育てられ、共に野間道場で稽古した、恒にとって竹馬の友であり、同門の剣友であった。しかし、その成績は大いに違う。寅雄は学生時代から多くの試合を優勝で総ナメにして、試合巧者としてその名を世間に轟かせてきた。当時の学生剣道界で、恒を知らぬものがいても寅雄を知らぬものは居なかっただろう。 

 寅雄は、自由闊達な剣を使う男だった。後には名を森寅雄と改めて渡米し、フェンシングで全米のトップに立っている。

 恒と寅雄の試合は事実上の決勝と言われたが、恒が飛び込みの逆胴で一本勝ちしている。

 この試合結果には、多くの黒い噂が流れた。これは八百長や、野間清治の圧力による忖度であるといった類のものである。

 それらの噂を耳にして、恒はどう思ったのだろうか。

 寅雄と恒を知るある高名な剣士は、後にこう答えている。


『あれは恒の勝ちだよ。俺は寅雄は何とか相手に出来たが、恒の奴にはとても敵わなかった』

 

 父からの期待も、名門の威光も、黒い誹謗中傷も、全てを飲み込んで、剣道で勝つ為だけに育て上げられた最強剣士は、ついに日本最高の栄誉ある試合の場に歩を進めた。

 

2.


 『志田の二刀』を語る前に、少しだけ戦前の学生剣道界の二刀ブームについて語っておこう。

 大正から昭和にかけて、学生剣道界では二刀の使用が爆発的に流行した。二刀を使用する者の少ない今日の剣道界からすれば考えられない規模である。

 これらの二刀ブームは、ナンバースクールと呼ばれた旧制高校などの学生競技に於ける剣道界が大きな牽引役となった。旧制高校間の対抗試合が活発化し、それに勝たんとする弊衣破帽の学生たちが、様々なオリジナルの戦術を編み出したのである。柔道に於いては、後に七帝柔道と呼ばれる寝技中心の柔道。剣道に於いては二刀の使用である。

 日本の剣の歴史上で、最も二刀の剣士が多かったであろう時代が、戦前には確かに存在したのだ。

 当時の二刀の多くは一人一流とも呼べる独学のもので、勝ち抜き戦を行う中で、ストッパーとして運用されることも多かった。

 ある剣士は当時の二刀を回顧して、『道具外れだろうと構わずに、二本の竹刀で打ち続ける荒々しいものだった』と語っている。初心者が引き分け狙いで否応なしに二刀を先輩に命じられることも多かったという。

 また、試合でのモラルも低く、当時の学生剣道試合規定で二刀用竹刀の重量規定が存在しなかったことに乗じて、竹刀の内側をガラス片で削りとり、限界まで軽量化するという弥縫策が横行し、竹刀が試合中に折れる事故も多発した。

 これには、

『菜箸のような細っこい竹刀でちょろちょろやる』

『葦ガラのような竹刀』

『上達の大いに弊害がある』

 などと、多くの批判が集中した。至極当然の事だろう。

 後の剣道十段、小川金之助さえ、

『これは試合に勝たんが為に、審判上の欠陥に乗じて寄効を奏せんとするの流行である』

 との手厳しい批判を加えている。

 それでは、当時の二刀に本物の実力者は居なかったのだろうか。

 否。否である。

 泥中から蓮が大輪の花を咲かせるが如く、混沌とした学生競技での二刀の流行の中からも、二刀に専心し、熟達した幾人もの剣士を輩出してきた。

 第一回の天覧試合では、最高齢58歳にて出場した剣士、本田勧次郎が幕末維新の名剣士、磯貝昇に伝授された二刀を引き下げ出場し、大いに会場を驚かせた。

 当時の大家と呼ばれる剣道家には、古形正しい二刀の遣い方を知るものが少なくなかったのである。

 志田三郎に二刀を伝授した高野佐三郎も、その一人である。早稲田大学剣道部の主将であった志田は、戦前に剣道界の東西の巨人と呼ばれた、高野佐三郎から直々に古形を残した二刀剣道を教授された。

 その要諦は、大刀と小刀と糸で結び、二刀を一刀の如く連動して遣うことにあったという。

 当時の剣道の大家は、保守的で学生界隈での二刀の流行を善しとしない者が多かったが、志田の二刀に対しては、

『あれは、本物です』

『よく出来ていますな』

 と例外的な程高い評価を示している。

 当時の天覧試合の記録を紐解いてみても、

『彼の二刀流は、比較的に正しい型を残し、頗る変化に富んだ器用な技を有っている』

 と非常に高い評価を得ていた。

 事実、彼は早稲田大学在籍中には『志田の二刀』とその名を轟かせ、郷里の栃木に戻ってからのその二刀で無敵を誇ったという。

『その迅いことと言って瞬きする間もない』

 とまでに評された志田の二刀は、多くの強敵を倒してきた。実質的な予選リーグにあたる一回戦では、志田以外は全て警察官の猛者だったが、全てを下して順当に歩を進めている。

 志田の二刀で特徴的なのは、志田の乱十字と称された、十字の構えである。当時から剣道に於ける二刀の構えは、太刀を上段に、小太刀を中段に構えた上下段の構えであり、それは今日まで続いているが、志田は大小の竹刀を十字に組んだ堅牢無比な構えを好んで遣ったという。

 筆者も二刀剣士との手合わせは幾度となくあるが、十字を使った技を使用した相手は、山口県の旧武徳殿で稽古をつけて頂いた、ある高齢の範士八段の先生の一人きりである。頭上で十字に組んだ竹刀で攻め手の竹刀を受け止め、大刀で胴を抜く仕草は芸術的でさえあった。志田の十字も斯くの如き絶技だったのだろうと想像してやまない。

 学生剣道の流行によって育まれた競技の技と、古形正しい二刀の伝承。その二つをハイブリッドした、当代一の二刀剣士は、天覧の栄に浴する名誉を賭けて、野間恒とここに激突する。 


 

3.

 野間が勝つか、志田が勝つか。事実上の決勝戦とも呼ばれた試合は、二回戦の第一試合に行われた。

 審判の中野宗助が鋭い瞳で両者を睥睨する。彼は『足の宗助』と言われ、後に剣道十段を授与される大家の一人である。

 観客達は試合の開始を固唾を飲んで見守る。

 一礼。

 ふと、志田は思う。天覧試合に出場しているもう一人の二刀剣士、藤本薫を。彼と戦うならば、決勝だ。10歳下の奔放な逆二刀の遣い手に、志田はシンパシーとライバル心を抱いていた。だが、今戦うべきは野間だ。この如何ともしがたい強敵だ。

 ふと、野間は思う。自分が府県予選で下した従兄弟、寅雄の事を。彼のように学生剣道界で活躍し、存分に賞賛を浴びたいと思う嫉妬心が野間にはあった。だが、今の相手は志田だ。この二刀に難敵にどう戦うか。


 野間恒と志田三郎は一刀と二刀の竹刀を蹲踞して向き合わせた。

 中野宗助の『始めっ』という号令と共に、双方が静かに腰を上げる。


 裂帛の気合と共に、志田は竹刀を乱十字に組んだ。

 剛中の剛と謳われた堅牢無比の構えだ。野間はそれに正眼で相対する。

 野間は寡黙な人物のように語られるが、その剣道は突き飛ばされた相手がガラス戸を破って吹き飛んだという逸話があるほどの激烈なものだ。

 その野間をして、志田の鉄壁の守りは難攻不落であった。

 野間が一歩出れば、志田が一歩下がる。

 志田が一歩出れば、野田が一歩下がる。

 ただ一進一退の攻防が、一分間余りも続いた。

 三本の竹刀が軋み合い、時間が水飴のような粘性を帯びる、濃密な一分間であった。


 先に仕掛けたのは、野間であった。噛みつくような鋭い小手打ち。鬼出電入の妙技であったが、志田三郎は小太刀の鍔元にてこれを受け止めた。――あらゆる技を受けとめ、受け流す小太刀の妙。それこそが二刀遣いの真面目である。

 野間は志田の二刀の堅牢さが想像以上であることを見て取るや、構えを中段から脇構えとへ変化させた。これは金の構えとも呼び、臨機応変の妙に適した構えであるが、今日の剣道では形稽古以外で目にすることは滅多にない。乱十字と脇構え。現代での剣道では消え去った構えを以て、両者は対峙する。


 再び、睨み合いの時間が続く。双方必殺の威力の技を持つが故に、迂闊な一撃は繰り出せない。

 その静寂を破ったのは再び野間。

 脇構えを解き、左片手の突きを放つ。二刀のリーチが一刀より短いことにつけ込んでの、伸展力を最大限に使った奇襲技である。

突き飛ばされた相手が戸板を破ってもんどり返る威力を秘めて、竹刀が獲物を喰らう蛇の速度で志田の突き垂へと伸びる。

 されど志田もさるもの、野間の渾身の片手突きを前にゆるりと身を退き、胸板にすら触れさせなかった。

 二刀剣士は、大刀と小刀、二振りの竹刀の間合いを自在に使い熟すため、距離感に優れる。日本一の二刀の志田ともなれば、その間合いへの明るさは三千世界を見渡す観世音菩薩の仏眼の域とも言えるだろう。

 涼しい顔で野間の技を凌ぎ続ける志田ではあるが、その胸中は決してなだらかなものではなかった。大小の竹刀を木綿糸で結わえて鍛えた志田の二刀は、一二一如の連撃である。左の小太刀で小手打を払ったなら、同時に大刀が相手の面を割っている——それが志田の二刀の常だ。それが、小手に対して返す一手も打てず、突きも擦り落とすでもなく、ただ後退することでしか躱せなかった。野間の技の鋭さは志田の心胆寒からしめていたのである。

 中段からの小手打ち、脇構えからの奇襲の片手打ち――共に志田に凌がれた野間がとった次なる構えは、左諸手上段の兵字構えだった。不退転の決意を秘めた火の位である。極めて攻撃的な構えであるが、志田の乱十字に対して有効な構えであるとは言い難い。十字構えは交点を中心に山型に上部を防御できるので、手元を上げるだけで上段からの技の多くを凌ぐことが出来るのだ。

 加えて、志田の腕なら打ち下ろされる竹刀を小太刀で捌きながら、己の大刀を正面へと差し込むことが適うだろう。野間の上段は、志田にとっても千載一遇の好機であるのだ。

 ……勝ちたい、東京一と呼ばれるこの男に。早稲田大学の在学中に、志田の竹刀は野間と交わる機会を得られなかった。高野佐三郎と中山博道。それぞれ当時の東京を二分する大家に学んだ正派の剣士だ。我が二刀、彼の男の一刀に届くや否や。志田は野間の上段から一刀が瞬く時をこそ待つ。

 野間は、時折己を飲み込みそうになる剣道に対する黒い情熱を、努めて飲み下した。彼の剣道人生は、父の人生を規矩としたものだった。如何に剣道の上達を讃えられようと、野間の人生には父清治の影が操り人形の糸のように絡みついていた。

 それでも。それでも。

 今この場で竹刀を握っているのは、この私だ。この強敵と対峙しているのは、他の誰でもないこの私なのだ。しがらみによって雁字搦めであった野間の剣道だが、如何に竹刀を振るかは誰にも縛れない己の自由なのだと全てを振り切り、渾身の一刀を繰り出した。

 その出鼻を逃さんと志田の小太刀が持ち上がる。

 瞬間、野間の竹刀がくの字を描いて軌道を変えた。

 志田は左の脇腹に鈍い痛みを感じた。天覧試合の為に仕立てた留塗りの胴台を、野間の竹刀が迅雷の如く走った。

 ——野間恒が勝負を託したのは、東京府予選で野間寅雄を下した逆胴であった。剣友でありライバルであった寅雄を相手に勝負を決めた一本を今一度、志田三郎という最強の両刀遣いを相手に、己の全てを賭けたのだ。

 三本の審判旗が高らかに翻る。二本目、という中野宗介の号令と共に、失点を取り返さんとせん志田が前に詰める。だが如何せん、もう残り時間がない。二人は濃密な間合いの攻防で五分という試合のほぼ全てを消費し尽くしていた。二人の間で最後の剣気が弾ける。あと一打、繰り出せるや否や——

 試合時間終了を告げる大太鼓が、済寧館道場に鳴り響いた。

 勝負の軍配は、逆胴の一本勝ちを以て一刀の野間恒へと上がったのだ。

 二人は蹲踞し、合計三本の竹刀を納め、折り目正しく礼をした。

 面金の物見の間から、両雄の視線が交わった。己が魂をぶつけるような試合を終えた二人の間には、余人には計り知れない感情の交錯があった。

 ——届かなかったか。志田は悔恨を飲み下して、勝者の野間を讃える微笑みを贈る。

 野間恒は、勝ち続けることこそ、己が破った剣士たちに返す最上の礼と覚悟を決めて、修羅の炎を赤黒く瞳に宿し、次の試合へと歩を進めるのだった。

 

4.

 

 さて。最強と最強の戦いは幕を閉じた。本来ならここで擱筆すべきだろうが、蛇足ながら勝者、野間恒のその後の戦いを眺めてみよう。

 恒は準決勝に進み、遂に天覧の栄に浴した。準決勝では神奈川県の猛者、瀬下喜一を下し、優勝候補との下馬評の通り、決勝戦に進出した。そこで、恒は再び二刀の猛者と相まみえることとなる。

 相手は香川県の育んだ若き逆二刀の遣い手、藤本薫である。

 野間恒は志田三郎とは全く違う剣風の二刀、藤本の猛攻に初太刀一本を許すも、二本を取り返し、遂に念願の天覧試合優勝を果たした。

 野間恒の父、野間清治が幼少の頃から恒に注いだ狂気じみた剣道教育は、ここに結実したのだ。

 恒の胸中は如何であったか――それは分からない。

 剣士としての将来を嘱望されていた恒だったが、その後父の清治が急逝すると、後を追うように29歳の若さで大腸癌で早世した。

 志田三郎は後世に多くの二刀剣士を育む指導者になれただろう逸材であったが、その後の太平洋戦争に向かいつつある日本の政局の下で、戦時下剣道への切り替えの余儀なくされ、戦後剣道の禁止、並びに学生剣道界での二刀の禁止が長引いたこともあり、後世にその名を知る者は殆どいない。しかし、彼が遺した二刀に対する教えの覚書の幾つかは、今も二刀を稽古する剣士達の標となっている。

 

 行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。澱みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたる試しなし。



 


 

付記


 本作は歴史的事実を基とした創作です。

 意図的に史実とは異なる、あるいは誇張された描写を行っております。

 あくまで創作としてお楽しみください。

 以下に、本作を執筆するにあたって参考にした文献の一部をご紹介致します。


参考文献


 昭和の二刀流ビルマに死す 南堀英二 2007年9月14日


 武蔵の剣 剣道二刀流の技と理論 佐々木博嗣 平成15年5月20日 


 剣道百年 庄子宗光 1970


 昭和天覧試合 皇太子殿下御誕生奉祝 1934


 中山博道有信館 1993

 

 昭和武蔵 剣聖 中倉清の生涯 2001

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