第36話 嫌な空気と液状化

 開かれた扉の中からはカビ臭い臭いが一気に噴き出してきた。

 思わず鼻を押さえて顔をしかめる。

 ここが八年間開かずの扉だとしたら中にある空気はひどく澱み、毒へと変わっているはずだ。


「待って下さい、法術で空気を浄化して……よしおっけぃ。リーシャさん、換気お願いしていいですか」

「任せて! 【ウインドストーム】」


 リーシャが突き出した両の手にヒュルヒュルと風が集まっていき、放たれる。

 突風とまではいかないが、それなりに強い風が階下へと吹き込んでいった。


 何度かおなじ事を繰り返し、そろそろと階段を降りる。

 ゆっくりと進み、もし眩暈を感じたらすぐに退避するつもりだったけれど、無事に浄化と換気は出来ているみたい。


「明かりはまだ生きているみたい」


 階段は薄暗いが、足元にある発光石が私達の存在を感知して光り始める。

 カビ臭い臭いは消える事がないが、先程よりはだいぶマシ。


 でも体に纏わりつく嫌な空気はその濃度をあげていっている。

 階段を降り切るとまた扉、さっきと同じ事をリーシャにしてもらい、中へと入った。

 念の為にと用意しておいた松明に火を灯してみると――。


「う……なによ、これ……」


「やば……」


「気色悪いなぁ……」


 壁、床、天井全てに刻まれた字、字、字。

 一部の隙間もなく、重なるようにして書かれたその文字は全てが赤く黒く、血で書いたような色合いだった。


 そしてさらに血の気が引くような光景。

 それは整然と並べられた人形達の姿。

 まるで生きた人間をそのまま人形にしたような、作り物とは思えない精巧さ。

 

「ひぃっ!?」


 あまりに異様な光景に息を呑んでいると、リーシャが怯えたような声を上げた。


「どうした!?」


「あ、あああの人形がこっち、私を見たような」


 顔面蒼白になったリーシャはバルトの腕を掴み、小さく震えていた。

 地下室は広く、二十五メートル四方はある。

 壁には扉もついているので、この部屋だけということはなさそうだった。

 

「……行きましょう、奥の、部屋から……何か感じます」


「ねえええまずいよ! まずい気配がすごいよ!」


「ばっか! 何言ってんだ! 八年間誰にも見つけられ無かった秘密の場所だぞ! ここで行かなきゃ冒険者じゃねぇ!」


「やだやだやだやだ!」


 どうやらリーシャはこの濃い、瘴気に似た空気にあてられてしまったみたいね。

 無理もないか。


 リーシャは最近になってヒーラーとして修練を積んでいる。

 それのおかげで負のオーラや瘴気に敏感になっている。


 呪いの指輪の件の時とは違い、リーシャは聖職者の力の片鱗を身に付けた。

 それゆえにバルトよりも敏感に感じ取り、精神にダイレクトな衝撃がくる。


 処女宮でみっちり鍛え上げた私は何の問題もないけど……。


「ブレイブハート」


「あ……」


 勇気凛々になる術をかけると、リーシャは落ち着いた。

 ついでにバルトにもかけておく。


「大丈夫ですか?」


「うん、ごめん、ありがとう」


「俺にまで悪いな」


「もっと酷くなるかもしれませんから一応です」


 部屋の奥の扉に手をかけ、引いて……引けない……。

 錆びついてるのか分からないけどピクリともしない。


「あか、ないぃいいふんぎぎぎ! 駄目だ硬いや」


「かしてみろ」


「あう、お願い」

 

 バルトが剣先を扉の隙間に差し込み、テコの要領でぎこぎこと動かしていくと――。

 ガシャン! という音と共に扉が横にスライドした。

 おぉい! スライド式とか聞いてないんだが!?


「うわ……」


「ここもか」


 扉の中は小さな部屋になっていて、ここもまた、先程の人形部屋と同じように壁と床と天井に謎の文字の羅列が書き連ねられていた。


 部屋には事務机と椅子、書棚が置いてあるだけのシンプルなもの。

 机の上には埃が厚く積もった瓶が置かれ、その中には少量の液体と――小さな骨が入っていた。


「なんですか……これ……」


「こいつは恐らくピクシーの成れの果て、だろうな」


「ピクシーの捕獲は法律で禁じられているはずじゃない!」


 手乗りサイズの羽根が生えた人型の妖精、ピクシー。

 その可憐な姿と常に発光している性質上、多くの人の心を奪い、観賞用として十年前までは乱獲されていた生物。


 十年前に規制法が施されて、今では全く見なくなった生き物でもある。

 絶滅はしていないだろうけど、人の目に入る場所にはもう現れないだろうと言われている。


「密売、だろうな」


「金に物を言わせて買った、って事ですね」


「ひどい……」


 所有者のプロヴィデンス卿が死に、彼以外誰も訪れる事がないこの部屋で静かに緩慢な死を迎えた。

 そして朽ち果て、液状化してしまったのだろう。


 ピクシーの成れの果ての隣には一冊の分厚い書物と沢山のノートが置かれており、どれもやはり厚い埃が積もっていた。


「……調べないでもわかります。この本、かなりヤバイですね」


「あぁ、嫌なオーラがプンプンしやがる」


「体の中に手を入れられて内臓を触られているような、そんな感じがする」


 分厚い書物はかなり年代物であり、表面には複雑な魔法陣が描かれていて、何枚も栞が挟まれている。

 そして私はこれを見た事があった。


 処女宮の授業で配布された羊皮紙に描かれていたのがこの本だ。

 遥か昔に行方が分からなくなったこの本の名前は――。


「ネクロノ……ミコン……」

 

 大昔の頭のおかしい魔導師が書いたとされる魔導書で、この本に関わった人の全てが怪死、この本を巡って血で血を洗う争いが起きた、魔導師が晩年を過ごした国が滅びた、などという様々ないわくを持つネクロノミコン。

 プリシラを苦しめた特級呪物なんて軽々飛び越え、禁忌の書とさえ言われるこれは。


 --超級呪物ネクロノミコン。


 これは、ヤバい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る