パンドラの箱

蟹蒲鉾

パンドラの箱

 ある人物が「殺人を禁止する装置」を発明したと全世界に報道されたのは、僕が生まれるよりもずっと前のことでした。隣の家のおばあちゃんは会うたびに、その時のことを話してくれます。


 装置はその話題性含め、世界全体に影響を及ぼしました。

 殺人の被害者遺族は「もっと早ければ」と嘆き、とある国は職を失いました。この発明を禁忌だ、パンドラの箱だと批判する団体も現れました。しかし、そういった一部の小さな声は発明を喜ぶ大勢の人々の声に、いつしか押しつぶされてしまいました。

 殺人罪を始めとした必要のない法律は各国政府によって消され、成り立たなくなった死刑制度は終身刑に置き換えられました。

 装置の機能で殺人が一切なくなった一方で、殺人という罪が抜けた穴を埋めるように暴行や強姦といった犯罪が増えました。装置が禁止するのは殺人そのものだけのようでした。人々は落胆しました。

 それでも世界は少しだけ平和に近づきました。少しだけ平和な世界で人々は娯楽を求め、いつからか装置を発明した人物について噂するようになりました。白髪の老人でいかにも博士のような格好をしているだとか、実は複数人で何か悪いことを企んでいる集団だとか、根も葉もない噂が好き勝手に広まりました。正体は天才美少女でもうすぐタイムマシンも作ってしまうなんて噂もありました。

 装置が発明されて一ヶ月が経過した頃のことです。発明家の正体に対する盛り上がりも落ち着いてきたところに、さらなる話題が舞い込んできました。死んでしまうはずだった人がまだ生きているということが世界各地で報告されているというのです。病気で余命宣告されていた人はみるみるうちに健康な体を取り戻し、銃で心臓を撃ち抜かれた人は何事もなかったかのように起き上がったそうです。

 装置が考える「殺人」は原因によらず、人が死ぬことでした。

 人が死ぬという当たり前の現象が無くなった世界からは、ありとあらゆる問題がなくなりました。意味のなくなった戦争は終わり、必要のなくなった法律は全て消えました。代わりに暴行に強姦、違法薬物の使用などの行為が増加したものの、人々はそういった行為を問題だと認識しなくなってしまっていました。そうして、世界には一種の完全な平和が訪れました。

 平和な世界で人々はさらに娯楽を求め、演劇、音楽、スポーツなど、様々な娯楽業が発達しました。


 少し間が空いて、僕が生まれる百数十年前。「殺人を禁止する装置」が突然、その機能を停止しました。何の前触れもありませんでした。

 娯楽という娯楽に飽きてしまっていた人々は、人が死ぬとわかった瞬間から「殺人」という新しい娯楽に没頭しました。そこかしこで簡単に人が人の手で殺されます。刺殺、撲殺、絞殺。文字通り何でもありでした。そのうち、どれだけ早く殺せるかを競う人や、殺し方の複雑さを競う人が現れました。全員が全員、人を殺したいわけではなかったのですが、自分が殺されないために相手を殺すこともありました。もちろん、殺人を行う人を裁く法律はありません。

 殺人の流行は人口が以前の二割程度に減少して、危機感を覚えた人々が法律を整備するまで続きました。法律ができた直後も、それまでの感覚で殺人を犯してしまい、法に裁かれる人が続出しました。


 僕が生まれる頃には装置の発明当時の人口とおおよそ同じくらいにまで増加していました。それからも徐々に増えています。

 おばあちゃんの昔話はここで終わりです。僕はこの話を聞くたびに怖くて泣きそうになります。もちろんこの話自体も怖いけれど、何よりもこの話をしながら箪笥の上を見るおばあちゃんの顔が怖くて仕方がありません。いつもは優しいおばあちゃんをこんなに怖い顔にしてしまうものが何なのか。気になって一度見たことがあるけれど、そこには不思議な色の箱のようなものがあるだけでした。

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