第2話 覚醒 

 泥のように重い体を感じながら、高橋良介は、目を覚ました。泥のように重い体と一言で言うが、それは単なる言葉の綾であって、そんな簡単に片付けられるような目覚めではなかった。




 全身、約六十兆個もあるとされる細胞が、まるで、その細胞一個一個が、鉛を主成分としてできたかのように感じられたからであった。二日酔いのせいもあったろうし、頭が完全に覚醒していないためか、ともかく、何処までも重く重く自分の体を感じていたのである。


 それに目やにのせいかどうかはわからないが、目も開けることができなかった。体が動かない、手も足も動かせない、そして目も開けられない。半覚醒の状態で、ただただ、必死でもがいていると、昨日からの出来事が、まるで覚醒剤常習者が陥るフラッシュバックのように、自分に襲いかかって来るのを感じていた。




その異常に重い体と、半覚醒状態の頭の中を、ストロボ写真の連写のように、昨日の出来事が高橋の頭の中で光っていったのだ。




「日本人離れした程の肌の色が白いむちむちとした長い両足」


「異様に短いスカートと、その、奥に見え隠れするレースの黒い下着」


「ぞんざいに大きく開かれた両足」 


 …… 


「まるで鬼のような形相」


「無我夢中で首を絞めている自分の両手」




 はっ!と、高橋は、覚醒した。




 そうだ。自分は、昨日、自分の中学校に通う女子中学生と、フトした弾みで肉体関係を持ってしまったのだった。




 それだけでは終わらなかったのだ。その関係後、彼女は、突如、豹変した。


 高橋に、このことをマスコミや警察にバラすと脅したのだ。彼女の要求は、口止め料として一千万円であった。丁度、昨年、二十年近く連れ添った妻と離婚して、慰謝料やら養育費やらで、今の自分にはほとんど金が無かったのにである。


 それなのに一千万円の金を要求されたのであった。


 で、カッときて、彼女の首を絞めたのだ。




 いやいや、どこか違う、そんな簡単な筋書きではなかったように、徐々に思い出してきた。


 狭い廊下を這うようにヨロヨロと歩いて、台所へ行った。今は夏で、この台所には、エアコンが入っていない。しかし、今日は、いつもと違い、もの凄く綺麗に片付いていた。




 そう、先程の彼女、名前は小西真希といい、学校では札付きの問題児であった。既に、中学一年生時代から、学校に来たり休んだりの連続。中学二年生の時には、エンコー(援助交際)をしているという噂まであった。




 担任の先生や学年主任の先生は、さじを投げ、教頭の高橋良介に、彼女の更正を依頼してきた。それは、また校長命令でもあった。高橋は、旧の帝国大学でもある某国立大学文学部心理学科卒業の肩書きを持ち、今まで、数々の不登校児の相談や、万引きや傷害事件の生徒の指導に当たり、めざましい活躍をしてきていたのである。




 まだ、五十歳にもなっていないのに、全生徒数千五百人を超えるマンモス中学校の教頭に任命されたのも、その活躍が認められたからにほかならないのだ。


 


 しかし、自分の家庭生活は、そうはうまくいかなかった。妻とは、昨年、離婚。妻は、二人の娘を連れて実家へ帰っていた。高橋の両親は、公務員同士で職場結婚。その後、若いときに二人ともガンで死んでいて、この世には既にいない。高橋には、弟と妹がいるが、二人とも、他県で自分と同じように学校の先生をしていた。


 そんな、堅い職業の家系であった。




 そうだ。そうそう、いよいよハッキリと思い出してきた。


 


 昨日の昼、市の中心街から離れた、付近には縄文や弥生時代の遺跡がある、小高い丘の上に建っている高橋良介の一軒家に、小西真希は、チャリンコ(自転車)で現れた。




 最初、玄関のインターホンが鳴ったので、玄関に出てみると、髪を赤く染め、唇はゼリー状のような真っ赤な口紅で塗られ、マスカラで両眼を大きく見せた、小西の顔があった。しかも、薄いTシャツに、スカートは超ミニ、ルーズソックスにサンダルという格好。




「一体、どうしたんや?小西君」


「いや、ちょっと先生に、相談したいことがあって……」




 高橋は、既に、一年前から、彼女の専属カウンセラーの役を引き受けていたような形になっていた。普段、めったに心を開こうとしない彼女が、こうして、自ら、何かの相談に自分のところにやってきてくれたのである。




 喜ぶべきことでもあった。ようやく、今までの指導の効果が出てきたのだ。


小西は、悪びれるそぶりも見せず、家の中に入ってきた。


 深刻そうな顔をしているから、やはり、何かの相談に訪れてきたのは間違いがなさそうだ。さっそく、エアコンの効いた応接室へ案内した。


 高橋は、喉が渇いているだろうと思い、コーラをコップに入れて、応接室に持っていった。彼女は、うまそうに一気にそれを飲み干すと、




「先生、相談したいことがあるがやけど、でも、この部屋の奥、チョー臭くない。きっと、台所の、お皿やお茶碗、洗ってないがやろう?」


「まあ、それはそうやけど、それは、今日の相談とは、何の関係もない話なんやから、そんな台所の話は、置いといて、一体、今日はどんな相談なんや?」 


「それより、少し時間を頂戴」




 と、それだけ言って、小西真希は、ずんずんと廊下を歩いて、高橋の家の奥にある台所に向かった。そこには、確かに洗ってない皿や茶碗が山積みされていた。


 単なる札付きの不良少女だと高橋自体が内心思っていたのとは大違いで、小西は、驚くほどてきぱきとその山盛りになった皿や茶碗を洗っていったのだ。その後、外の部屋の掃除もしてくれた。


 そして、応接室に戻ってきたあと、


「あーあ、暑い、暑い」を繰り返したのだった。




 そうだ、今、思い出してくるにつれて、そういう細かい話の展開を、徐々にだが、明確に正確に思い出し初めてきていた。


 だが、高橋が、完全に元の記憶を取り戻した時に、自分の横には、死体となった小西真希の姿も、確かに存在したのである。


 それもまた、厳然たる事実であった。長く乱れた赤い髪。美しく化粧された死に顔。長く伸びた白い両足。高橋は、逃れられそうにもない現実から、目をそらすことは、絶対に、できなかったのである。




 その時のことである。高橋の頭の中で、突如、大音量でタイプライター音が鳴り響いたのだった。




「ヘンタイ、キョウトウ、オシエゴヲ、ゴウカンノスエ、サツガイ!」と。




 そのタイプライター音と同時に、漆黒の脳内をバックに、白抜きの大きな文字も、また、高橋の大脳新皮質の中に、突如、浮かび上がったのだった。




 いや、しかし、これは違う、違うのだ!そうではないのだ。




 高橋は、ようやく昨日の事件の全貌を、ほぼ、完璧に思い起こしていた。


 「絶対に、俺は、強姦なんかしていない、あれは合意の上だった」と、ようやく、死人以外は誰もいない部屋で、高橋は大声で叫んだ。しかし、それは、高橋の、大脳の中の別の脳神経細胞から生み出されてきた連想的思考によって、ものの見事に崩れ去っていったのだった。


一、俺は、現在、T県T市立D中学校の現役の教頭、年齢四十七歳である。


一、俺は、昨日、自分が担当している在校生で不良少女の小西真希の相談を受けた。


一、俺は、その時、確かに、小西真希と関係を持ってしまった。


一、俺は、つまり、教師としてのあるまじき一線を越えてしまったのは間違いない。


一、そして、急に、開き直った小西真希に、大金の一千万円を要求された。


一、俺は、昨年、離婚したばかりで、そんな大金は用意できる訳がない。




 まるで、入学式や卒業式の時に、広い講堂の演題横に張り出される「式次第」のように、昨日のことが、頭の中に羅列されるのであった。特に、次の、




一、その金銭トラブルがもとで、確かに、俺は、小西真希を殺してしまった。


 


 こればっかりは、誰にどう弁解しようとも、どうにもならない冷たい現実だった。




 いや、それでも、違う、違う、と、高橋は、心の中で何度も繰り返したのだった。小西真希の殺害は、どうしようもない事実だが、そこに至るまでには、もっともっと別のドラマがあったのだ。しかし、今、それを誰にどうやって証明できると言うのであろう。


 現役の教頭が、特に問題児とされ、その個別相談に乗っている教え子と関係を持つと言うのは、それだけで社会的には重罪なのだ。それに加えて、すったもんだの末の殺害である。




 高橋良介の逃げ場は、ここで、全くないことが、完全に認識されたのである。




 だが、その冷たい事実は認識はできたものの、心理学の専門家を自称していた高橋自身も、ここから先の展開が、全く読めなかったのだ。自分で自分の心が制御できないのだ。




 ともかく、自分は、在校生と関係を持ってしまった現役の教頭である。その彼女を、殺してしまった殺人犯である。


 どんな途中経過があるにせよ、この冷たい現実は、巨大な天井となって、自分に覆い被さってきているのだ。一体、これからの自分は、どうなるのであろう?




 変態教頭、教え子を強姦の上、殺害か?いや、何度も繰り返すようだが、決して、あれは、強姦なんかではなかった筈なのだ。




何故なら、台所の後片付けや居間や廊下の掃除が終わり、応接室に戻ってきた小西は、「あーあ、暑い、暑い」を繰り返し、




「んでもって、ここも、暑いのよね…」と、両足をぞんざいに開いて見せた。




異様に短いスカートと、その奥にハッキリと見えるレースの黒い下着。そのレースの黒い下着の中に、チラっと「何か」が見えたような気がした。




その瞬間、高橋の頭の中でバチッと音がして、大脳内にあるヒューズが切れた。


 高橋は、ズボンのベルトを思わずはずして下半身を出してしまった自分をかすかに思い出していた。




 それから、先の記憶は、残念だがほとんど思い出せない。


しかし、高橋が、満足げに最後の一滴を放出し尽くした時、突如小西真希は態度を一変したのだ。




「こ、これは、強姦や、強姦や。ケーサツやマスコミに訴えてやる!」と。


「口止め料は、一千万円や」とも、付け加えたのだ。




「ハ、ハメられた!」と、高橋が、小西真希の前で、叫んだ時、 


「ザケンジャネー、ハメられたのは、こっちのほうやろうが!」との、鬼のような形相の小西の顔が、思い浮かんだ。


とこんな具合で、小西真希は、高橋に一千万円の口止め料を迫ったのだ。




「あ、あいつは、最初から、この俺を、陥れるつもりで…」




 高橋は、台所の冷蔵庫から這うようにして持ってきた、冷えた缶コーヒーを1本、ぐっと飲み干すと、応接室のカレンダーを見た。




 西暦202X年8月20日土曜日。腕時計を見ると、午前6時32分だった。




「ち、ちきしょー、あ、あいつは!鬼か、悪魔だったのか!


 しかし、しかし。あ、あんな短いスカートを履いてきた時から、お、お、俺も、早く、罠に気づくべきだった」、高橋は、何度も何度も、繰り返した。


 そうなのだ。




 小西真希は、台所の後片付けの後は、今度も勝手に掃除機を探してきて、廊下や居間の掃除を始めたのだ。男所帯の独り暮らしである。確かに、雑多で、チリやホコリが舞っていそうな部屋だった。部屋の掃除中に、




「百円玉、メーッケ」と、身長165センチはあろうかという小西は、腰をかがめた。


 レースの黒い下着が、もう、丸見えであった。いや、もしかしたらこれも最初から計算の上での行為ではなかったのか?




 もう一度、腕時計を見た。午前6時43分。もはや、一刻の時間の猶予もないのだ。




 小西真希の両親は、父親は銀行員で母親は薬剤師であった。恵まれた家庭だっただけに、両親の嘆きは大きかった。父親から、泣いて、娘のことをよろしく、と頼まれていた。




 しかし、既に、校内では有名な札付きの不良少女となってしまっていた小西真希の指導は容易ではなかったのだ。




 だが、それ故に、まだ、高橋にとっては、逆転のチャンスはあるように思えた。最近は、家を二、三日空けることもあったという。小西のスマホの電源は切ってあるから、例え、GPS機能付きの最新式のものであったにせよ、彼女の居所は、決して分からない筈だ。




 彼女の今までの行動からして、家族も直ぐには、警察に捜索願いも出しはしまい。


 更にうまい具合に、これから三日間は、中学校の行事は、一切無かった。盆明けであって、学校が動き出すのは8月22日の月曜日からである。




「今日、明日が、勝負やな」と、高橋は、つぶやいた。


 もはや、高橋は、自分がこれからどういう行動を取るべきか、十分に理解できてきたのである。何といっても、自分は現役の教頭なのである。いくら、小西真希の仕掛けた罠にハマッタとしても、決してこのままで社会的には通る訳がない。このことがバレたら総てが終わりなのだ。




 で、どうする?




 だが、ここから、高橋は、少々、不思議な行動に出始めたのだ。




まず部屋のエアコンを最強に効かせ、死体の小西真希の周囲に冷蔵庫で冷やしてあったアイスノンを並べた。その上から、毛布と布団を掛けた。これは死体が腐敗しないための措置であった。それは誰にでも理解ができる行為であった。




 しかし、高橋は、次に、今ほどの応接室に、一台のノートパソコンと、冷えた缶コーヒーを2本持ち込んだのだ。一体、何をする気なのだろう?


 もう一度、腕時計を見た。午前7時丁度。


 その時から、高橋は、狂ったように、パソコンのキーボードを打ち始めた。




『けだるい殺人者』


 


 と、最初に打ち込んだ。どうも、小説のようである。きっと、高橋は今朝起きがけの体調の悪さからその題名を思い付いたのかもしれない。 ともかくも、高橋良介は、朝飯も昼飯も食わずに、一心不乱でパソコンのキーボードを打ち続けたのであった。


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