第4話 中国での小学校生活〜青島編2.〜

第4話では、母親が日本に帰国することを理解し、涙が止まらなかった思い出しかない。


私は入学日になるまで、母と幼い弟が寝泊まりしていた学校内の訪問者用宿泊施設で一緒に寝泊まりしていた。

ある晩、母から基本的な中国語を教わった。


「你叫什么名字?は、名前はなんですか?という意味だよ。」

「何歳?は、你几岁了?」

「数字は、こうやって数えるんだよ。日本と違って指はこうやって動かすんだよ。」


この時は、母と繰り返し喋って練習をしていたから、自分の中でもうフレーズは覚えたと思っていた。


ある日、いよいよ私が実際のクラスメンバーに混じり、まずは体験で宿舎に寝泊まりすることになった。

8人一部屋。

部屋は入り口から入り、広さは横長。

ベッドの頭側は壁側に配置されていた。

部屋の入り口が部屋の真ん中に位置し、

部屋の左右入り口付近と、一番奥の窓際にベッドが2台ずつくっついて配置されている8人部屋だった。

左右のベッドの間の中央は通路になっていた。

私のベッドは、部屋に入って右側入り口に一番近いベッドだった。


当時は緊張していたのか全く覚えていない。

寂しさはあっただろうか。それも全く記憶していない。

徐々に視界が暗闇に慣れ、ぼんやりと天井やベッドのシーツの模様が見えてきた。

部屋は静かだった。

入学後、消灯後は普段みんなヒソヒソとお喋りしていたのだが、この日は私という新しい子が部屋にいることで、みんなは私以上に緊張していたのかもしれない。


すると、私の横に寝ていた女の子が私に小声で話しかけてくれた。

「你叫什么名字?」


聞いたことある言葉だと思った。

あんなに母と訪問者用宿泊施設で練習していたのに、意味をど忘れしていた。

「あ、これママと練習したな」という記憶すらなかった。

ただひたすらに「これ、この発音、音のイントネーション聞いたことあるな。なんだっけ。」ということしか考えられなかった。


何度も練習していたので、正しい発音でその子が発言した言葉を、聞こえるか聞こえないくらいの声で復唱してみた。

意味すら忘れていたので、耳で聞いて覚えた言葉の「音」の記憶を引っ張り出して、復唱をした。


私がなかなか答えなかったので、その女の子はもう一度私に同じ質問を聞いてきた。

私はついに黙りこくってしまった。

どう足掻いても、聞いたことあるなぁとしか思えず、意味はさっぱり思い出せなかった。

うつ伏せになって肘を立て、暗闇の中でぼんやりと見える枕の輪郭をただぼーっと、視線でなぞった。

女の子はついに諦めたのか、もぞもぞと動く音がしたので、寝る姿勢を変えたのだなと、なんとなく察した。

それでも私は申し訳なさという気持ちはなく、ひたすらあの言葉の意味を考えながらいつの間にか眠りについていた。


次の日私は授業に出ることになった。

母親と担任の先生に連れられ、教室へ向かう。

大理石の廊下は下から石の冷気が上がってくるようで、やはり肌寒く感じた。

今までは、母と弟と共に学校敷地内で過ごしていたから、校舎内の学生たちの話し声、戯れる声がとても大きく聞こえ、疎外感とも言えるものを感じた。

まだ自分は部外者だという気持ちがあったのかもしれない。

慣れればその場のうるささも気にならないのだが、初めての場所は五感が鋭く働く。

大理石の匂い、廊下の寒気、子供達の喧騒、廊下ですれ違う先生たちを下から見上げる感じ、ロッカーを開け閉めする音、先生を呼ぶ生徒の声…

これらの音を耳でしっかり拾っているが、緊張で意識は別のところにあった。

教室は1年3組。

先生に背中を押され入る。

先生の入室と共に教室内のざわつきが一瞬にして収まる。

この時先生が何を話していたか聞き取れなかったし、覚えてもいないが、

多分先生はみんなに私の紹介をしていたと思う。

そしてみんなが一斉に大声で何かを言っていた。きっと返事だったと思う。

教室の席は一列ずつ、きちんと距離を取られて配置されていた。

私は真ん中の列の一番後ろの席に座らされた。

記憶を辿れば確かその時間の授業はテストだった。

私の席にもテストの用紙が置かれた。

何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。

先生に何か言われたが何を言われているのか全くわからなかった。

母は教室の前方の扉の前で立って私を見つめていた。

私はその時、先生は私にこのテストを解けと言われた気がした。

なんで何が書いてあるのか分からないのに問題を解かなければならないのか、

焦りと、不安と、理不尽さ...言葉にならない焦燥感に駆られ、母に助けを呼びたかった。

でも今はテスト中。

助けは呼べない。

この時私の中の中で、腹の底から溢れ出る焦りに対処しきれず、涙が溢れ出た。

こうなったらもう止まらなかった。

この時の涙は心の底から泣いた涙だった。

呼吸すらできない、息が間に合わず頭がぼーっと、くらーっとする涙だった。

必死だった。

この理不尽さから逃げ出したかった。

私が泣き出すから先生も母も駆けつけた。

私が「分からないんだもん!」と泣きながら大声で叫んだ記憶がある。

母が「テストしなくていいんだよ。座ってるだけでいいの。」と言った。

でも私はそれを聞いても安心しなかった。

母の言葉をきちんと理解していたのかも分からない。

ただこういう涙は一度泣き出すと何も聞き入れられなかった。

だけどしばらくしたら泣き止んだ。

その後どうなったか記憶はないが、私のクラスに別の日本人の女の子がいた。

その子は私に日本語で慰めてくれていたと思う。

その記憶も曖昧だ...。

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