第33話
街道を行き交う人は増え、思うまま馬を走らせる訳にはいかなかくなったが、それでも休憩を取った宿場から三時間ほどでリデトの外壁へとたどり着いた。
町に入るために並ぶ人は多く、中に入るのに時間がかかりそうだったが、血に染まったモニカを見て誰もが道をあけてくれた。
ニコロの姿を確認し、抱えるモニカが血まみれなのを見て警備隊員はそのまま中に入ることを許した。ニコロは家に戻るつもりだったが、警備隊員に療養所へ行くよう導かれた。ついてきた馬も預かってもらえた。
モニカの姿を見た療養所の職員達は絶句し、すぐに医師エラルドが診察をした。怪我はふさがっていくのに、呼吸も鼓動もない状態。医師の領分を超えていた。
「魔法の力で生きながらえていると言うべきか、…そもそも死んでいないと言っていいのか、目覚めるのかもわからない」
診察を終えて戻ってきたモニカは、ついていた血を洗われ、清潔な服に着替えていた。生々しい血の跡がなくなると、ただ眠っているかのようだった。
もう五年…、六年近く前になるだろうか。
ここに運ばれ、死を待つしかなかった自分に、モニカは最後の願いを叶えようと、タンポポコーヒーを入れてくれた。
わずか二口、三口のタンポポコーヒーからすべては変わり、命を取り戻し、人としての生活を取り戻し、生涯を共にする人を手に入れた。
モニカに出会ってからニコロの人生は満ち足りていた。しかし、モニカはどうだったのだろう。自分に刃を向けるほど追いつめたのは、ここでの生活なのだろうか。
療養所の職員からモニカのポケットにあったハンカチと、それに包まれていた紙が渡された。ニコロはそれを手に取り、広げた。
それは、こうなることがわかっていたかのような手紙だった。
ニコロへ
いつもみんなに守られて生きてきた私が、一人で壁の外に出る。
それは軽い思い付きでありながら、長年の願いでした。
壁の向こうは危険な場所なのに。
いつも間違えてしまう私を許してください。
私は自ら兄の元へ向かうしかないようです。
そのために旅に出たのだと、そう思ってください。
私が勝手に死ぬのだから、誰も恨まないで。
もし間に合わず、殺されてしまっても、復讐を考えないで。
決して戦いを始めないで。
たった一人の命のために、多くの命が消えることがないように。
たくさんの間違いをし、何も償えない私にとって
あなたと出会えたことが、救いでした。
あなたが私を好きでいてくれる以上に、
私こそ、あなたが好きでした。
手紙には、署名さえもなかった。
急いで書いたのだろう。字は乱れ、乾かないまま折られた手紙は所々インクが滲み、文字が潰れていた。
自ら死を選んだのではないことは、手紙から読み取れた。
旅行に行く前日、ニコロはモニカ抜きで話をしたいと呼ばれた酒場で、モニカのかつての名はモニカ・ロッセリーニ、元辺境伯令嬢だと聞いた。ニコロはずっとモニカは自分と同じ平民の出だと思っていたが、言われてみればかつては令嬢だったと言われても違和感はなかった。
リデトの町の人々は、辺境伯令嬢を歓迎しなかった。
戦場と化した町に着飾ってくるような愚かな令嬢を冷遇し、戦いで疲れた心を、誰かを罵倒することで憂さを晴らしていた。それは高貴な立場の人であるほどいびつな笑いを誘い、話は盛り上がり、悪意を持って誇張していった。
誰もが気付かないふりをした。
リデトの領主の家から出入りする娘を見かけても、使用人と思っていた。
薬や物品を積んでいた馬車が療養所から少し離れた所で止まり、誰かが降りていた。それは一度や二度ではなかったが、気にも留めなかった。
療養所に手伝いに来ていたモニカが、辺境伯の息子が死んだ後、療養所の裏で声を上げずに泣いていた。多くの者から慕われる令息だった。慕う者の一人だろうと思っていた。
そして戦いが終息し、役立たずの令嬢に代わり、領を守った王都の騎士団に所属するガスペリ隊長が領主になると聞き、誰もが喜んだ。そして役立たず令嬢の行方など知ろうとする者はいなかった。
休戦後、それまで住まいの知れなかったモニカは町から離れた小さな家に住むようになった。そこはリデトの町の発展に寄与した商人ロッセリーニ氏の所有する小屋のひとつだった。ニコロが借り住まいした古い家もまた、もう売れないほどに寂れたロッセリーニ家の所有物。
徐々に町の中にもモニカの正体に気付く者が出てきたが、それをモニカに尋ねられる者はいなかった。領主一族の話になると、その表情が凍り付き、無理に表情を作っていつの間にかいなくなる。モニカが笑って自分の過去を話せるようになるまで、町の者はモニカが選んだ生き方をそっと見守るしかなかった。自分たちが追い詰めた最後のロッセリーニ、領の守り人を。
「鈍いニコロのことだから、きっとまだ気づいていないとは思ってたけど、あの子が背負ってきたものを知らないからこそ、気兼ねなく共に生きられる。だけど、知らなければ守れないことだってある」
聞けば答えてもらえたのだろうか。あの時、指さした場所へ行きたかった理由を。
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