にゃいんって知ってるかな?
うゆちゃん
にゃいんとは。
「にゃいんってしってるかな?」
俺はふざけた口調で、三毛の鳴き声を真似て言った。
「しらないよ」
母親か、弟がそう返す。そういうものだ。
「にゃいんとは、にゃいんと鳴く猫のことです」
俺は、もう何度目か分からない言い回しで
前に居た黒もそうだったが、三毛も大概変な鳴き声の猫だ。
「三毛ちゃん」
「さんもう」
「みけにゃいん」
俺達家族は三毛をそう呼んでいた。さんもうなど、ふざけた呼び名を付けるのは主に俺だが。
三毛は、15歳になるスコティッシュ・フォールド♀の猫だった、人間でいえば80手前と言ったところ。
俺が中二になった時に、親父が会社の同僚から譲り受けた。
里親に出された理由は一匹だけ耳が曲がっておらず、♀だったからだ。
そんなこと、俺はどうでもよかった。
当時飼っていたのは黒と白という雑種の♂猫、白が病気で死んでしまって、家が何だか静かになっていた。黒にも遊び相手が出来て、丁度よかったと思っていた。
思い返せば実に俺は、人生の半分近くを三毛と過ごしていたことになる。
思えば三毛は子猫だった頃から、手の掛からない猫だった。
餌はきちんと食べるし、水は飲む。
いつも自分で清潔にしているから、ラグドールの蒼やプリス、先代の黒と違って最期まで風呂に入れる必要もなかったほどだ。
そして、ブラシ掛けが好きだった。
家の周りを散歩し、帰ると自分で風呂にいって風呂桶の水で前脚を洗う事が多かった、そのついでに水を飲んでいるのだ。それを見た新入り猫たちがそれを真似し始めたと聞いて、俺は大したババア猫だと思ったものだ。
そういう老獪で上品な猫だった。新入りの蒼やプリスが近寄るといつもシャー、と威嚇していた。先代のボス猫、黒に対しても、そんな感じだったように記憶している。
ただし、黒は何をされても意に介さない寛容な猫だったので、威嚇されようが唸られようが人間に叱られようがどこ吹く風だった。
元気なく寝てばかりいるよりはいいと思っていたが、結果論としてはあれが血圧に良くなったのかもしれない。
2023年、三毛は随分老けて寝ている時間が増えた。
それでも、夜になると10歳近く年下の♂猫の蒼とバトルしている。
あまりにもヒートアップするようなら、飼い主として武力介入するのだが、基本的には運動不足の解消になって良い……と、思っていたところだ。
三毛は基本的に「みゃいん」とか「んにゃいん」と鳴く。
それも、執拗にだ。どこか調子が悪いのかと言えば、そうでもない。いたって健康なシルバー猫だった。
ただ、背中の右側にある良性腫瘍は刺激してはいけないと獣医に言われたので、ブラシ掛けの際はそこを避ける。
しかし今年の夏、三毛の食事量は減って痩せつつあった。
隣町に別居している俺は、さながら通い妻の如く猫の世話をしに実家に通う。
人間の家族は、正直どうだっていい。皆、自由に生きている。自分で自分の面倒が見れない奴は死ねというのが家のルールだった。少なくとも、俺はそう思ってる。
だが、これは飽くまで人間の理屈。それを猫に当てはめるのは間違っている。
猫を飼うなら、死ぬ時まで面倒を見なくてはならない。
*
三毛死にそう。
そう母親からラインが来たのは、昨日の事だった。
技術云々以前に、親方の型にはめられるだけの仕事に嫌気が差して、見事無職に戻った俺は家で昼間から酒を飲んでいた。
俺以外に従業員が居ない会社、所謂一人親方という奴なのだが、語るに及ばずだ。
糞みたいな建設業から解放され、昼間から飲む酒は最高だった。
またあの馬鹿がどうせ大げさな事を言っているのだろう。
俺は、母親に対していわゆる親へのリスペクトなどは一切持ち合わせていなかった。
それどころか、俺は自分の腹を掻っ捌いてまで俺を産み落とした母親を、金に汚い唾棄すべきクズだと思っている。自分にもその血が流れている事を、俺は常々痛感しながら社会不適合者として社会から爪弾きにされてきた。
俺もクズだ。母親がクズだから、じゃない。
ウクライナでウクライナ人が何千人死のうが、ロシア人が何万人死のうが、アメリカでヤク中がくたばろうが、東京で強盗殺人が起きようが、川口で外人が暴れていようが、俺はなんとも思わない。
そうなる事を選択したのは、その国の連中だ。
水が高いところから低い方へ流れる様に、なるべくしてなっているだけだ。
俺は他人の痛みなどに一切興味がない、利用できるものは何でも利用して生きて来た。邪魔な人間は排除すればいい。そう選択する事に一切躊躇はない。
誰のせいでもない。俺がそうあることを選んで生きて来た。
だがこんな俺でも、ガキの頃に猫が欲しいと親父や母親にせがんで、猫を飼育した以上、飼い主としての責任を果たすべきだと思っていた。
どれだけ堕落した人生を生きていても、それだけは譲れなかった。
だが、母親からラインが来たその時、俺はそこまで深刻に考えなかった。どの道、今車を運転して向かっても飲酒運転になるからだ。
心配でなかったと言えば嘘になる。しかし、うだつの上がらない人生に疲れていた俺は泥に沈むようにして2時間程眠った。
16時頃、俺は目を覚ました。
酒が抜けているかは正直微妙なところだったが、俺は飛ぶように三毛の居る実家に向かった。
三毛は、今にも死にそうな様子で実家の廊下に横たわっていた。
苦しげに息を荒げていた。
俺は、とりあえず三毛の身体を拭いたり、スポイトで水を飲ませた。僅かに水を舐めたが、ほとんどはそのまま口を素通りして床に垂れ落ちた。
三毛は、いつもの様に朝食を食べて散歩に出かけたところ、エアコンの室外機の前で倒れて痙攣していたのを母親が発見したそうだ。そして母親が病院に連れて行った後だった。
「何だった?」
俺は、少しだけざらついた声で母親に尋ねた。
自己嫌悪が沸くよりも、三毛も寿命かとあきらめている自分がいた。
「脳梗塞、麻痺」
母親の声もざらついていた。
俺とは飼育方針は違うが、母親も猫好きだ。ショックなのは分かる。
俺にできることは何一つなかったが、とりあえず晩飯を作った。
アマゾンプライムや、小説を読みながら、三毛の様子を見ていた。
いや、三毛の様子が気になって、何も手が付かなかった。
いつも通り廊下の吹き抜けで、三毛は寝転がっていた。
この日はまだ、なんとか自分で歩く事ができていた。
いつもの廊下に連れて行くと、三毛は鳴いていた。
「にゃいん」ではなく、「うわーん」と唸る様に。
やけに玄関の方へ行こうとして階段の前で座り込んでいたので、俺は外に出たいのだと思い、同伴して外に出した。
夜。
三毛を抱いて外に出た。
俺は三毛を支えながら、いつも三毛が散歩している家の庭を三毛に見せてやった。
三毛は夜の散歩はしない。だが、いつ最期になってもおかしくなかった。せめて見せてやろうと思ったのだ。
いつも三毛が座っていた庭のハナミズキの下に三毛を座らせてやると、三毛はおぼつかない足取りで、コンクリート塀から飛び降りそうになった。
往年ならともかく、今じゃ致命傷になりかねない。
俺は咄嗟にそれを止めた。
「目が見えていないのか?」
「うわぁん」
ほとんど自分で立ち上がれない三毛を見て、もう長くはない事が伝わって来た。
それでも立ち上がって自分で歩こうとしている三毛を見て、俺は強く三毛の事を考えた。
にゃいんと鳴く三毛はいつだって現役バリバリの……
もっと元気で居て欲しかった。
君が居た日常が当たり前だと思っていた。
もっと元気な姿を、目に焼き付けておけばよかった。
俺は、ただそんなことを思っていた。
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