第1章 婚約破棄まであと10日/第2章 婚約破棄まであと9日

 長い夢を見て目が覚めると、エレナ・ボールダーの世界はすっかり変わっていた。

 ごうしんだいに横になったまま、周りを囲んでいるてんがいに目をしばたたかせる。

 明るい日差しが布をかして入ってきて今が日中だと分かるが、どうして自分がかされているのかは分からない。

 布で仕切られた向こう側には複数の人の気配があった。

「ここは……痛っ」

 起き上がろうとすると、頭とかたするどい痛みが走る。

 ズキズキと脈を打つ額に手を当てたら布がれた。どうやら包帯を巻かれているらしい。

「エレナ様、お気づきになりましたか」

 痛みにあげた声が聞こえたのだろう。黒いワンピースに白いエプロンというお仕着せ姿の女性が天蓋の布をめくってこちらをのぞくが、知らない人だ。

「あ、あの?」

「おし物はこちらでえさせていただきました。ご不満でしょうが、手当てのためでしたのでごようしやを。先生、お願いします」

(手当て? 先生?)

 一方的にじようきようを話した彼女に代わって、今度は白衣の男性が現れた。

 年のころは二十代前半、ダークブラウンのかみに緑色のひとみ。理知的だがひとなつこそうなふんは安心感をいだかせる。

 なるほど、「先生」と呼ばれていたし医師なのだろう。

 その彼が頭の包帯を外してかんつつ、具合はどうかとたずねてくるが、先ほどまでの夢のいんと傷の痛みでうまく返せない。

 言葉少なに答えていると、視界の外からよく通る落ち着いた声がした。

「どうだ、ジェイク?」

「うん。頭部の出血は止まったようだよ。肩とうでの打ち身はちょっとひどいけど、幸い骨は折れていないから湿しつで治ると思う」

「そうか。まったく……」

 ほっといた息は安心ではなくあきれの苦々しさをまとっていて、見えない表情がありありと想像できてしまった。

だれかしら。それに、かなり不満そう)

 男性の声に聞き覚えはない。

 内心で首をひねっていると、ジェイクと呼ばれた医師がうすがみに包まれた粉薬をわたしてくる。

「痛み止めです。少しねむくなるかもしれませんが」

「……はい。ありがとうございます」

 薬を飲み終わってまた横になる。天蓋が大きく開かれて、美しいしつくいそうしよくてんじようあらわになった。やはり、見覚えはない。

 と、先ほどの声の主だろう男性がこちらに来た。

 メイドたちはさっと場所をゆずり、親しそうな口調で話していたジェイクも下がる。

 つまり、ここでは彼が最も身分の高い人物にちがいない。

(……れいな人ね)

 男性にこういう言い方はそぐわないかもしれないが、「美しい」という言葉がぴったりだ。

 ねんれいはジェイクと同じくらい。整った容姿に似合う漆黒の貴族服、鋭いけんを思わせる銀色の髪。ゆうだがすきのない身のこなし。

 そんな美麗な容姿とは裏腹に、発する気配はけんのんだ。

 まるで親のかたきにでも会ったような表情で、れいな海色の瞳に見おろされる理由が分からなくてまどってしまう。

「エレナ・ボールダー。起き上がれるようになったら帰ってくれ」

 やぶから棒の宣告になんと返せばいいのだろう。しゆんじゆんしたが、また頭痛がして考えることをあきらめた。

 だって、どうやら──。

「先に話したとおり、こんやくの手続きはこちらで進める。君の両親が王都に来たら──」

「あの」

 自分が発したのに、別人の声に聞こえる。

 言葉をさえぎられて分かりやすくまゆひそめた男性と、まっすぐ目が合った。

「どなた様でしょう?」

「……は?」

「ええと、あなたもですが、わたしも。わたしはエレナという名なのですか?」

「ふざけているのか、エレナ」

「いいえ、本当に。はじめまして……ではないのですね、困りました。帰れとおっしゃるわたしの家が、どちらにあるのか教えていただけるとありがたいのですが」

「まさか……本当に?」

 信じられないものを見るような目でながめられて、なぜか申し訳ない気分になる。

 けれど相変わらず、まったく、さっぱり、分からない。

 自分が誰で、ここがどこなのか。

 この人たちが誰なのか、どうして自分がをしているのかも。

 そう告げると、帰りたくを始めていたジェイクがきびすを返して寝台わきもどってきた。



 先ほどよりも細かくエレナにもんしんをしたジェイクは、おくに障害がある状態だと診断を下した。

 渡された手鏡を覗き込んで不思議そうにほおまんだりしているエレナの横で、二人が相談を始める。

「記憶そうしつ?」

「いや。逆行性健忘、その中でも主に個人的な情報を対象とする部分的な記憶障害っていうのが正確かな。ちんじゆつ記憶も全部欠損しているとは言えなくて──」

「ややこしいぞ、ジェイク。俺にも分かるように話せ」

「んんー、簡単に言うと今のエレナじようは、エレナ嬢個人としての記憶がすごくたよりないっていうこと」

「ますます分からん」

「記憶機能そのものが損傷しているわけではないんだ。ほら、さっきやってみせただろ。聞いたことをり返すことができるし、会話も成り立つ。今現在の記憶力は失われていないしようだよ。それにいつぱん的な物のしようもおおむね覚えている」

 ジェイクが指したものについて、それは「まくら」、こちらは「本」など、エレナはすらすら答えることができた。

 朝には日がのぼるとか、人殺しは悪いことといった社会常識もそこなわれていない。

 ただ、過去の自分に起こったことやかかわった人などについての記憶がない。

 読んだはずの本の内容、貴族令嬢の必修科目である詩や楽曲。住んでいる地名なども、聞いたことがないとエレナはこんわく顔で首を横にった。

 国や王の名前、家族についてもだ。

「頭を打ったえいきようだろうね。エレナ嬢、こちらの男性はオスカー・ウェストしやく。見覚えは?」

 ジェイクはそう言って、腕を組んでエレナをへいげいするぎんぱつの男性に手のひらを向ける。

「いいえ」

「彼とこんやくしていたことは」

「こんやく……? うそでしょう?」

 先ほどからジェイクの質問に答えるたびに周囲がざわついたが、よりいっそう大きなどよめきが走った。

 婚約と言われてぽかんと口を開けるエレナに、名指しされたオスカーも目を丸くしている。

 メイドたちの口からは「まさか」とか「本当に?」とか、エレナを疑う声が多く聞こえるが、現状を信じられないのはエレナのほうだ。

 知らない場所で知らない人に囲まれて、自分のこともよく分からない。

 呼ばれるから返事をしているが、エレナという名にだってみはないのに。

 不安でいっぱいでもたおれずに済んでいるのは、最初からベッドに横になっているからなだけ。

 それと、目を覚ます直前まで見ていた、誰かの人生の一部をなぞった夢があざやかすぎたおかげだ。

 ──夢の中のエレナは貴族ではなく、せいに生きる平民の女性だった。

 今、鏡に映っているミルクティー色の長い髪、白いはだむすめではなく、健康的に日に焼けてい金の髪をしていた。

 目の形は似ていなくもないが、今の瞳はよくあるヘーゼルで、夢の自分は角度によってむらさきに見えるめずらしい色をしていた。

(夫は、家具職人だったわ)

 こうぼうねた、手製の家具に囲まれたぼくな家で、二人でつつましく楽しく暮らしていた。

 常に木のかおりがする中で、夫が作ってくれたこしけるのが好きだった。

 最後に見えたのは、まだ若い自分が息を引き取るところ。

 彼女の体からはなれたエレナは、泣いて妻の遺体に取りすがる夫を、れられぬ腕できしめて──そこで目が覚めたのだ。

(あちらが本当で、こちらの世界が夢のようなのよね)

 思い出す日々は、細部はせんめいなのに全体はもやがかかったようにぼやけていて、夢を見ていたのだと分かるし、今いるここが現実なのだと頭では理解できる。

 しかし、記憶をなくしている実感はない。

 だってあの夢の中で、たしかに自分は生きていたから。

 いきなり引き戻された「今」にまだ心がついていかないが、困惑しているのはエレナだけではないようだ。

しばではないのか」

「オスカー、僕の見立てを疑うの?」

「そういうわけでは……」

 たんせいな顔に似合う冷たくかい的なこわと、医師らしく落ち着いて話すジェイクの会話が耳に入る。

かんじやきよげんはそうと分かるよ。エレナ嬢は、今は嘘を言っていない」

?」

「本人にさくはなくとも、生活していく上で不安があったり、覚えていないことのつじつまを合わせようとしたりで、記憶障害の患者が事実とちがうことを口にするケースは多いんだ。だから今後は分からないけど、現時点で彼女が嘘をつく必要はないからね」

「……そういうものか」

「パニックも起こさせないで問診できたのに。これで誤診だと言われたら、医師として僕の立つがないんだけど」

「分かった、ジェイク。悪かった」

 ねた口調になったジェイクに、オスカーもなおに謝る。仲が良い二人のようだ。

「それで、記憶は戻るのか?」

「うーん、それはなんとも。病気が原因の記憶障害ではないからこれ以上進まないだろうけど、先を予測するのは難しいな。それこそ、子どものころからよく知っている人……彼女の家族に会ったら思い出すかもしれないし、やっぱり思い出さないかもしれない」

 ジェイクの言葉にうなずきつつも、オスカーはだまり込んでしまった。

 しげしげとこちらによこす疑わしそうな視線は、めんどうな荷物を降ろし損ねたとでも言いたげである。

(エレナはやつかい者だったようね。「婚約」とも言っていたし)

 なんだか気の毒に感じるが、自分がげんきようであるらしい。

「なんにせよ、しばらく様子を見る必要があるね。今のところ脳内出血のしようじようはないけど、念のため一晩はこのまま動かさないほうがいいだろうな。ご家族へのれんらくは──」

「今知らせても行き違いになるだろう。そちらは俺のほうで手配しておく」

「そう。じゃあ、もしなにかあれば、夜中でもすぐに連絡して」

「ああ」

 メイドにも細かく看護の指示を出して、白衣をいだジェイクが部屋を出る。

 先に飲まされた痛み止めが効いてきたエレナがまたねむりに落ちる前に見たのは、何度目か分からないためいきくオスカーだった。


   ● ● ●


 ボールダーはくしやく家の令嬢エレナと、ウェスト子爵オスカーの婚約は家同士のつながりから成されたもので、当然ながら自由れんあいの結果ではなかった。

 エレナの祖父とオスカーの祖父は親友と呼べるあいだがらだった。

 二人は自分たちの子どもを結婚させようと決めたが、生まれたのはそうほう男児だけ。

 機会をのがしたまま、戦時に背中を預け合った祖父たちが二人とも他界すると両家のえんは遠くなり、こんいんの約束も自然と消えた。

 ところが時がち、ボールダー家とウェスト家のちやくなんがたまたまパーティーで出会い、昔話に花がいた。

 今はおたがい男女の子にめぐまれていることが判明し、ねんれいもちょうど良い。

 その結果、とんとんびようにエレナとオスカーの婚約が成った。

 一度流れた約束が孫の代になって果たされることは貴族社会で珍しくないが、ひとつ問題があった。

 よう姿たんれいで名高い子爵令息との婚約をエレナは喜んだが、オスカーはそうではなかったのだ。

 ごうまんで自分勝手な我がままれいじよう

 それがエレナ・ボールダーに対する周囲の評価だ。

 エレナが三歳のときにくなった実母カタリナは、りんごくの旧王家ぼうけいの血筋でたいへんなぼうの持ち主だった。

 しかし娘のエレナは髪も瞳も地味な色合いで容姿もへいぼん

 エレナが母から引きいだゆいいつのもの、それは気位の高さである。

 のちえのままははや異母弟を常に見下しており、特に使用人のあつかいがひどい。

 エレナが直接口をきく使用人は、実母についてきた隣国出身のじよだけというてつていぶりだ。

 しつぶかく、オスカーに話しかける令嬢はそれだけでけいかいされた。オスカーの従姉妹いとこクリスタベル嬢など、何度泣かされたか分からない。

 オスカーの両親は、エレナと婚約が成ってすぐりよの事故で亡くなっている。

 ウェスト家でも高慢な態度だったが、エレナをとがめる未来の義両親はおらず、急なだいわりでぼうきわめたオスカーも婚約者に構うゆうがなかったことで、悪態は改まらなかった。

 ぎんぱつに海色の瞳という容姿と同じくちつじよせいひつを好むオスカーは、正反対ともいえる気質のエレナに対し、好意を持てなかった。

 婚約が結ばれたのはエレナが十七歳、オスカーが二十歳はたちの時だ。

 それから三年。ようやく子爵家の当主としてオスカーの立場が安定してきた今も、二人そろって夜会に出ることもない。

 何度か婚約解消をしんしたが通ることはなく、むしろ去年からは「オスカーの近くにいたい」と言い張って、領地にはもどらず自分だけ一年中王都にたいざいしている。

 王都のタウンハウスのやエレナの世話のために余分に使用人をやとわねばならず、少なくない費用がかかっているという。

 そんな我が儘女王のエレナをたしなめることは、家族にも無理らしい──というより、家族もエレナときよを取りたがっており、厄介者をオスカーに押しつけようとするこんたんけて見えた。

 結婚前から先が見えるような関係だったが、先日、オスカーの祖母イーディスのアクセサリーをエレナが勝手に持ち出そうとしていたことが発覚した。

 イーディスはオスカーに残された唯一の直系の身内だ。

 最近は年齢のせいで歩くことが困難になり別館にもりがちだが、幼いころからいそがしい両親に代わって可愛かわいがってくれた人である。

 さすがにイーディスの前ではエレナも大人しく、めずらしく関係は悪くなかったはずだった。

 その祖母が大事にしているブローチを、エレナはぬすもうとしたのだ。

 これにはさすがにかんにんぶくろが切れた。いくら婚約者とはいえ、えてはいけない一線がある。

 エレナのような人間と、これ以上かかわりたくない。このような悪行が明らかになった以上、ボールダー伯爵も婚約の解消に頷くしかないだろう。

 オスカーは婚約をする手続きを整え、直接そのむねを本人に告げたところ、げきこうしたエレナは部屋を飛び出した。

 文句でも言おうとしたのだろう。イーディスが暮らす別館にけ込み、階段から足をすべらせ落ちたのだった。

「エレナ、いいところがないですね」

「まったくだ」

「そんな方と婚約だなんて。お察しします」

「……君に同情されるのは複雑なのだが」

 自分エレナ・ボールダーの過去を聞かされて、「今のエレナ」がしおらしくうなれる。彼女のその様子に、オスカーはなんとも言いがたい表情でうでを組んだ。

 おく障害だとしんだんを受けた翌日の今日、エレナとオスカーは改めて顔を合わせている。

 ベッドから降りられないことにびを入れられて、めんらったのはオスカーだけではない。

 湿しつこうかんや食事のはいぜんなどで出入りするメイドもまた、すっかり人が変わったエレナに対し、昨日からずっとれ物にさわるような扱いだ。

 遊びに来たクリスタベルが、たまたま別館のそばを通った際、だんにはない──エレナが階段から落ちた──音が聞こえたことで、すぐに救助ができた。

「では、クリスタベルさんが通りかからなければ、わたしは──」

「かなり出血があったから、危なかったかもしれない」

「まあ、命の恩人ですね」

 教えられて、エレナはきようしゆくする。

 恩人であるクリスタベルはこの場にいない。これまでひんぱんにウェスト家をおとずれていたそうだが、しようげき的な現場を目撃して足が向かないのだろう。

「直接お礼を言えなくて、申し訳ないです」

「……いや」

 詫びるエレナにオスカーは言葉をにごす。

けんえんの仲だったことも、覚えていないのか)

 クリスタベルとエレナはあいしようが悪いようで、さいなことですぐに口論になっていた。

 エレナがまくし立て、クリスタベルが泣く。

 それがこの二人の関係であり、天地が逆になってもエレナはクリスタベルに礼など言わないはずだった。

 そのエレナが、こうしてなおに申し訳なさそうにしていることにおどろきをかくせない。

「全部知りたいと言うから話したが」

「ええ、ありがとうございます。ショッキングなお話でした」

「君のことだ」

「あ、そうでした」

 背中にクッションを当てて半身を起こしたエレナのかたに、ミルクティー色のかみがかかる。困ったように頭をかしげて、その髪がやわらかくれた。

(同一人物とは信じ難い変わりようだな)

 オスカーの知っているエレナとは、表情もこわもまるでちがう。

 ヘーゼルのひとみに不満やいらたしさはうかがえない。かんでいるのは、記憶がないことによる不安を理性的に解決しようとしている色だ。

(……これがしばなら、大した女優だ)

 以前のエレナは常に気を張っており、あつ的なふんを周囲にまき散らしていた。

 際限のない悪口を聞きたくなくて顔を合わせることもまれだったのに、今のエレナとはこうしておだやかに会話が続くことも、オスカーには信じられない。

「あの、わたしが盗もうとしたという、おばあ様のブローチはどうなりましたか?」

「祖母が気づく前に、クリスタベルが宝石箱に戻した」

「それならよかったです!」

 エレナは心底ほっとしたように表情をゆるめて、肩の力をく。

 ブローチは祖父から祖母へのおくり物だった。

 中央に配されたおおつぶのトパーズは言うにおよばず、それを囲むダイヤの一粒だけでもかなりの値がつくだろういつぴんだ。

 だが、資産としての価値以上に、専用の宝石箱を開けるたびに祖母が穏やかなまなしになる、思い出の品であった。

 そんなブローチがくなったら、祖母はどれだけ気落ちしただろう。

「それにしても、どうしてわたしはそんなことをしたのでしょう」

「現場を見つけたクリスタベルには『しやく夫人になる自分は、これを持つ権利がある』と。俺がエレナにいつさい贈り物をしないから、代わりにもらった──と、言っていたそうだ」

「あら。そんなくつは通りませんのに」

 残念な令嬢ですねえと、まるで他人ひとごとのようにつぶやくエレナにオスカーはひようけをする。

 部屋に使用人たちがいる状態で、自分の失態を話されることを気にしていないこともかんしかない。

 目の前にいるのは本当にエレナなのだろうか。何度でも目をこすりたくなる。

「そんなじようきようでは、婚約を破棄するのは当然ですね」

「そう思うか」

「ええ」

 今年のシーズンのために、エレナの家族──父とままはは、そして異母弟──が領地から王都に来るのは十日後の予定だった。

 婚約の取り決めは家同士のものであり、解消するにはそうほうの家長の同意が必要だ。

 そのため実際の手続きはエレナの父が来てからになるが、先に本人に話を通そうと思ったことが昨日の事故につながった。

「むしろ、よく三年もまんなさったと。ね、みなさんもそう思うでしょう?」

「はい──っ、し、失礼を!」

「あら、構わないわ」

 あっけらかんとかれた使用人たちがついうなずいてしまう。われに返って青くなったメイドに、エレナはまゆを下げてみを浮かべた。

とがめる気もないのか)

 この家でエレナの相手をする羽目になることが一番多かったクリスタベルの話では、わずかでもそうをした使用人はとうされていたというのに、気を悪くする様子もない。

 顔立ちさえ違って見えるのはいつものしようをしていないせいだろうが、今の素顔のほうがよほど好ましい。

(好ましい? 俺はなにを──)

 自分でも予想外の心の動きにどうようして、思わずエレナをかばうような言葉が口をついて出る。

「……初めのころは、そこまでひどい関係でもなかったはずだ」

「そうなのですか?」

「そもそもめつに話もしなかったから、実際いつから不仲になったのかよく覚えていないが」

(そうだ。話をするどころか、会ってもいなかったじゃないか)

 こんやく調ととのってすぐに、オスカーの両親が事故でくなった。

 準備不足のままいだ家のことでいつぱいで、できたばかりの婚約者に回すづかいなど残らなかったし、エレナからも当初は積極的なせつしよくはなかった。

 それをいいことに、本来果たすべき婚約者としての役割も放棄していたのは事実だ。

 いそがしかったとはいえ、カードの返信はおざなりな代筆で、誕生日の贈り物すらわたしていないのは、とてもめられたことではない。

 悪い評判を耳にするようになった最近までえんだった。

 しかも、オスカーにしゆうちやくするようになったエレナとはきよを取り、できる限りけていた。

(最後にまともな会話をしたのはいつだったか……)

 エレナの問題ばかりを挙げたが、自分にも非はあった。

 思い返してみれば、しやくていに来るようオスカーからエレナへれんらくしたのは今回が初めてだった気もする。

(婚約者から初めて呼ばれた理由が、婚約のためか。……笑えないな)

 初顔合わせの際に、エレナはオスカーにひとれをしたという。

 そんな相手から冷たくあしらわれ続け、ついに婚約も破棄されるとなったら平静ではいられなくて当然だ。

 しようどう的に、直接のきっかけである別館の祖母のもとへけ込んでもおかしくない──などと落ち着いて考えられるのも、エレナが別人のようになったからだろうか。

 だまり込んだオスカーに、エレナが声をかける。

「せっかくお話をうかがいましたけど、やっぱり思い出せません……でも、エレナがオスカー様を好きになった理由は、なんとなく分かる気がします」

「なに?」

 聞きちがえたかとオスカーがらしていた視線を向けると、エレナは軽くにぎった手を胸に当てていた。

 心の声を聞こうとするようにゆっくりまたたきをするヘーゼルの瞳は、ここではない遠くを見ているようだ。

(……どうせ外見だろう)

 自分の容姿が女性に好まれるたぐいのものだということは経験から分かっているし、エレナもそう言っていたはずだ。

 ろくに会話も交流もしていないのだ。ほかの理由などありえない。

 聞ききた褒め言葉を適当に流そうと構えたオスカーは、続くエレナの言葉に耳を疑った。

きらいな人間わたしを相手に、こうして声もあらげず話してくださるでしょう。おくがないのをいいことに、適当な作り話でごまかしたりもせずに」

「……待て。俺がいつわりを言っていないとなぜ分かる?」

「だって『婚約者に贈り物を一度もしていない』だなんて。ふふ、正直すぎますよ」

 全部「エレナが悪い」で押し切れた話だ。

 かくす様子もなく告白したのはエレナに興味がないからとも取れるが、婚約破棄を申し出る側が、わざわざ自分にとってマイナスになるようなことを教える必要はない。

 そう言って目の前の女性はふわりと微笑ほほえむ。

 額に巻かれた包帯が痛々しかった。

「そんな誠実な方だから、かれたのでしょうね」

 午後の日差しを受けたエレナのりんかくかすんで見えて、オスカーは今度こそ目を擦った。

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