宵子と暁子

 おじい様が亡くなった後、真上まがみ家のお屋敷は今どき流行りの洋館に建て直していた。これからの時代は、外国からのお客様を招くこともあるだろうから、と。昨年、お父様は子爵ししゃく爵位しゃくいをいただいたから、体裁を整えて良かったのかもしれない。


(でも、お父様もお母様も、普段は着物でお過ごしなのに)


 宵子にとっても、もの心ついたころから暮らした昔ながらの日本家屋のほうが馴染みがある。

 草履ぞうりを履いたままで家にあがるのにはいつまで経っても抵抗があるし、二階にある暁子あきこの部屋まで階段を上る時に着物が乱れないようにするのにも、いまだ少し注意が必要だった。


 それでもできるだけ急いで、ちりんちりんと鈴の音を鳴らしながら暁子の部屋の扉を開けた瞬間──甲高い怒鳴り声が浴びせられた。


「遅いわ、宵子! 夜会に遅れたらどうするの!?」


 あおい生地に蝶が舞う、華やかな振袖を纏った少女こそ、宵子の双子の妹の暁子だった。ぱっちりとした目に、ふっくらとした唇が勝気な笑みを浮かべている。明るくてはきはきとして、ものじしない──宵子が呪いを受けなかったら、この暁子と同じように成長していたのかもしれない。


(ごめんなさい。でも、まだ明るいでしょう?)


 妹に頭を下げてから、宵子は少し首を傾げた。双子の絆があるからか、暁子はそれだけで言いたいことを分かってくれた。


「あのね、誰も宵子に触りたくなんかないの。どうしようもないところは手伝ってあげるけど、できるだけひとりで着替えてもらわないと。──だから、さっさとして」


 暁子が言い終わると同時に、布の塊がばさりと宵子に投げつけられた。


 深い紺色の絹に、銀色のレースや刺繍をあしらった西洋風のドレスだ。滑らかな生地の艶も、細い銀糸が描く繊細な模様も、うっとりするほど綺麗。でも、広げれば胸もとが大胆に開いた意匠になているのが分かってしまう。


(これを、私が着るのね。本当に……?)


 欧州ヨーロッパでは、貴婦人はこういうドレスを着るのが当たり前なのだとか。でも、頭では分かっていても、襟から足元までを着物で覆う格好に慣れた宵子には、どうしても恥ずかしいと思ってしまう。


 ドレスを広げたまま、宵子が立ち尽くしていると──暁子が苛立ったように唇を尖らせた。


「何よ。宵子だって良いって言ってたじゃない。──ああ、あんたは言えないんだけど。とにかく、頷いてくれたでしょう?」


 暁子の機嫌が悪くなり始めているのを感じて、宵子は慌ててこくこくと頷いた。


 今の日本は、鎖国さこく時代に遅れた技術や文化を取り戻して西洋諸国に追いつくために国を挙げて努力している。鹿鳴館での夜会も、そんな努力の一環だ。

 日本の女性だって、欧州ヨーロッパの貴婦人のようにドレスを着こなして円舞曲ワルツを踊ることができるのだと、外国からのお客様に見せなければならない。


(でも、言われてもすぐにできる訳ではないから……)


 夜会に出るのは良くても、せめて着物で出席したい、と言う令嬢や奥方は多くて、お父様や旦那様を困らせているのだとか。それは真上家でも同じで、こんなはしたない格好は嫌! と言って聞かない暁子に、お父様は新しい着物を仕立ててあげるから、となだめすかして説得しようとしていた。


 新しい着物に、かんざしもつけてもらった暁子は、さらに条件をつけてから頷いた。


『そんなに言うなら、ドレスを着るだけなら良いわ。でも、踊るのは絶対に嫌! お父様も、私が知らない男にべたべた触られるのはお嫌でしょう!?』


 西洋の踊りは、男女が手を取り合って身体を近づけるものなのだ。それも、身体の線をあらわにしたドレスを纏って! 確かに、嫁入り前の娘がすることではない。


 良家の女性が嫌がって夜会に出ようとしないものだから、数合わせに偉い方々のめかけや芸者まで動員されることもあるのだとか。それでますます、ドレスも踊りもいかがわしいものだと思われる悪循環になっているらしい。


『それは、そうだが。だが、真上家の娘がドレスを着て踊れば、ほかの家の手本にもなるだろう。私も偉い方々からの覚えが良くなるというもので──』


 お父様と暁子がその話をしていた時、なぜか宵子も呼ばれていた。足首に結ばれた鈴が音を立てないように息を殺してじっとしながら、どうしてだろうと不思議に思ったものだった。いつもなら、休まず働くように言われているのに、と。


 その理由が分かったのは、暁子が得意げに言った時だった。


『舞踏の時間だけ、宵子に代わってもらえば良いのよ。同じドレスと髪型で、口を利かなければバレやしないわ。役に立たない呪いの子なんですもの、それくらいやってもらわないと……!』


 暁子が女中たちの給仕でお菓子をつまむ間に、宵子は襦袢じゅばんを床に脱ぎ落した。足袋たびも脱ぐと、素足の裏に感じる絨毯じゅうたんの長い毛足がくすぐったい。真上家のお屋敷の何もかもが洋風になったけれど、宵子の心は犬神いぬがみ様がいたころの庭や日本家屋を恋しがっている。


 肌をさらした心細さと恥ずかしさに震える宵子に、女中たちがにじり寄る。まずは、西洋の下着、コルセットを身に着けなければいけない。


「さ、宵子様。コルセットを締めますよ」

「息を吸って、止めてください」


 コルセットは、西洋の貴婦人は必ず身につけるものだという。くじらひげを仕込んだ硬くて薄いよろいのようなそれを、紐で思い切り締め上げて、ひょうたんのようにくびれた細い腰の線を作るのだとか。


(これが、コルセット。痛くて、苦しい……)


 呪いの子に触れたくない女中たちは、早く終わらせてしまおうとぎゅうぎゅうときつく紐を引っ張っている。肋骨がきしむ音が聞こえた気がするけれど、宵子は痛いと訴えることもできない。帯をきつく締めるよりもずっと辛い苦しさに、目に涙を浮かべて耐えるだけだ。


「双子ってとても便利ね。顔も背丈も身体つきもみんな一緒なんだから。宵子がいてくれて良かったわ……!」

「本当に。あの、でも、同じドレスを二着も作るのはもったいなかったのでは……?」


 恐る恐る、という風に口を挟んだ女中に、暁子は苛立ったように声を荒げた。


「だって、宵子が着たドレスに触ったら、私まで呪われるかもしれないじゃない! ふたりとも呪われてしまったら、真上家はどうなるの!?」

「は、はい。ごもっともです」


 そんなやり取りを聞きながら、宵子はドレスを纏っていった。


(犬神様は、もういないのに。暁子が呪われる心配なんてないのよ)


 双子の妹に、汚らわしいもののように言われるのは悲しかった。でも──それでも、暁子は宵子の妹で、真上家が表に出せる、たったひとりの娘だった。


(真上家を繋いでいくのは暁子なんだから。助けられることがあるなら──良いことよ)


 しゃべることができない宵子は、社交の役には立たない。舞踏が終わった後の、会食や歓談の時間は暁子が担当することになっているのだ。それはそれで大変なことには違いないから、宵子にも──呪われた子にもできることがあるのを光栄に思わなければ。


 そうこうする間に、宵子のドレスの着付けは終わっていた。


「暁子様、髪型はこれでよろしいでしょうか。後ろは、このように」

「まあ、良いわ。……宵子は練習台としてもちょうど良いわね」


 宵子は、暁子として夜会に出る。暁子もこの後は同じ装いをするのだから、女中が尋ねるのは暁子に対してだけだった。

 宵子は黙ったまま、横目で鏡に映った自分の姿をのぞき見る。暁子が、背中からの見え方を確かめるために差し出された鏡だから、正面から見ることはできないのだ。


(……見る分には、とても素敵よ。これで人前に出たり……殿方の手を握るのは、恥ずかしいけど)


 居場所を教えるための足首の鈴は、さすがに外してもらえた。荒れた手は、レースをあしらった絹の手袋で隠して。

 髪を結い上げたことでさらされた首筋は、真珠の首飾りが彩る。胸もとや腰の線があらわになるのは、やっぱり抵抗があるけれど、それでも、たっぷりとした生地がドレープとなって流れるスカートは素敵だと思う。


(まるで、お人形みたい)


 お父様が暁子にあげた欧州ヨーロッパ産の人形は、見たことがある。白い肌に紅い頬と唇、本物みたいに凝った意匠のドレスを着せられた、可愛らしいお人形。


 何もしゃべらないというところも、今の宵子はお人形にそっくりだった。

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