一章 鹿鳴館の円舞曲《ワルツ》の調べ

呪われた令嬢

 犬神いぬがみ様の呪いを受けてから、九年が経った。


 十六歳になった宵子しょうこは、野の花のささやかな花束を抱えてほこらの跡に佇んでいる。


(こんなものしかお供えできなくて、申し訳ありません)


 心の中で念じながら、いつも犬神様が身体を丸めていたあたりに花束を置く。

 「あの日」から、犬神様の姿は見えない。やっぱり、宵子を呪って力尽きてしまったのだろう。


(私があの日、会いにいかなければ……?)


 呪われなかったかもしれない、とは思ってはいけない。でも、宵子のせいで犬神様の最期の瞬間が怒りや恨みに満ちたものになってしまったなら、とても悲しくて申し訳ないことだ。


(お墓も作らないなんて。真上まがみ家をひどいと思っていらっしゃるでしょうね……)


 子供のころに座ったのと同じ場所に、宵子はそっと腰を下ろした。犬神様が本当にいたと知ったお父様たちは、怯えて祠に近寄らなくなった。ただでさえ古びていた祠は風雨にさらされて、いつしか屋根が落ち壁が崩れ、わずかに柱が残るだけになってしまった。


(私は、大きくなったのに。何もできないままだわ)


 白くて温かい毛並みの感触を思い出して、宵子はそっと溜息を零した。


 今の宵子なら、箒の扱いも雑巾がけもお手のものだ。一日あれば、祠の跡に積もった落ち葉を綺麗にけて、残った柱を磨くこともできるだろう。そして、水もお花も絶やさないように毎日お参りできたら良い。


 でも、それは許されないことだ。宵子は、真上家のお屋敷にはいないことになっているのだから。


 真上家の双子の片割れ、「宵子お嬢様」は、身体が弱くて遠方で療養していることになっている。愛らしく朗らかで社交界を賑わせるのは、妹の暁子あきこだけ。世間の多くの人にとっては──ううん、お父様やお母様、お屋敷の使用人にとっても、真上家の娘はひとりしかいないのだ。


(だって、私は呪われた子だから)


 忌まわしく恐ろしい存在を、表に出す訳にはいかない。今の宵子は家の恥で、息を潜めて過ごさなければならない。

 追い出されないだけ感謝しなければならないし、養ってもらっている恩を返すために、使用人に混ざって働かなければならない。


 だから、宵子の纏う着物は着古した質素なものだし、手は水仕事で荒れているのだ。毎日毎日、言われたことをこなすのに忙しくて、祠の掃除をする時間なんて取れそうにない。


(お供えも、もっと良いものを差し上げたいんですけど……)


 色とりどりの金平糖こんぺいとう。優しい甘さが口の中で解ける落雁らくがん。卵の香りとふんわりした食感が美味しいカステラ。

 かつて犬神様に差し上げたおやつは、今ではめったに口にできなくなってしまった。言いつけられた仕事が終わらなくて、食事を抜かれることもしばしばだ。くう、とお腹が鳴ったのが恥ずかしくて、帯の上から押さえた時──


「宵子様! いったいどこに隠れていらっしゃるんですか!」


 母屋おもやのほうから苛立った声が聞こえて、宵子は慌てて立ち上がった。足首に結ばれた鈴が、りん、と涼やかな音を立てる。


(ごめんなさい、犬神様。もう行かなくては)


 名残惜しい思いで祠の跡を眺めてから、宵子は呼ばれたほうへ走り出した。りんりんという鈴の音が、彼女を急かして追い立てるようだった。


 祠のほうから現れた宵子を見て、その女中は顔を顰めた。犬神様にお参りしていたのだと、分かってしまったのだろう。


「宵子様は呪われているから良いのかもしれませんが! 私どもは恐ろしいんです。怠けるためにに逃げ込むのは止めていただけますか」


 頭ごなしに叱られて、宵子は黙って頭を下げた。


(怠けるつもりも、逃げるつもりもなかったわ)


 思ったことは、心の中にしまっておく。ほんの少しの間だけ、犬神様にお参りしたかっただけ、だなんて、誰も分かってくれないだろう。


 それに、今の宵子には言いたいことを言う、ということができない。それこそが、犬神様が彼女にかけた呪いだから。


 九年前のあの日以来、宵子はひと言も言葉を発していない。口や舌を動かしても、どうしても声が出てくれないのだ。犬神様が喉に噛みついたのは、彼女の声を噛み殺したということなのかもしれない。


 足首の鈴は、居場所を伝えるためのもの。呼ばれても返事ができないから、鈴の音が近づいてくれば、宵子がぐずぐずしないで駆けつけていると分かる、という仕掛けだった。


「暁子様がお呼びですよ。癇癪かんしゃくを起こしてしまわれる前に、早く行ってください。今夜は、鹿鳴館ろくめいかんの夜会に招かれているんですから。支度をしないと……!」


 「呪われた子」を気味悪そうに見下ろしてまくし立てる女中に、宵子は分かりました、の意味を込めて頷いた。

 かつての宵子は、とてもおしゃべりだったのに。今では、言われたことに、ただ頷いたり首を振ったりするしかできなくなってしまったのはひどいこと、なのだろうか。


(でも、慣れてしまったわ)


 宵子が笑いかけたりしたら、女中は嫌な気分になるだろう。だから宵子は目を伏せたまま、早足で女中の横をすり抜けた。


 呪われた存在と関わり合いになりたくないのは、当然のこと。犬神様が真上家を恨んで呪うのも当然のこと。そして、呪われた身を養ってもらう以上、宵子が家のために働くのも当然のことだ。


 何もかもが当たり前のことだから、辛いとか嫌だとか思うのは間違っているのではないかしら、と宵子は思う。誰も宵子と話したくないのだから、声が出たって意味はない。


 ずっと黙って、うつむいているしかない──宵子はそう思っていた。

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