第23話:少女と乙女と・後

「……それで、本題だが」


 紫月しづきのスプーンの動きが落ち着くまで待ち、かいは口を開く。


「学校の授業には付いていけているのか?」


「正直……あんまり」


 紫月は頬張っていたオレンジの一切れを飲み込んだ後に、声色を暗くして言った。


「わたし、家庭の事情で、小学校はほとんど行ってなくて」


 それは戒も既に聞き及んでいることだ。


「お義父さんのところに来てから、家庭教師の人に教えてもらったりしたんですけど」


「中学は最初から通えているのか?」


「はい。何とか、ですけど」


 戒は少し眉根を寄せる。


 紫月が鏑木かぶらぎに拾われたのは、吉原事変よしはらじへんのすぐ後であるため五年前だ。そうなると紫月は小学高の四年か五年だったはず。そうなると、鏑木はたった二年で、それまで勉強をしたことのない紫月を、中学に通える程度まで教育したことになる。


 その事実は、華屋はなやという組織に属する犯罪者というイメージからはかけ離れている。


 もしかすると鏑木は、存外に父親としての情を持っているのかもしれない。


「家庭教師は今も?」


「いえ、中学校に通い始めるまでで」


「今一番苦手な科目は?」


「数学……です」


「どの辺りからつまづいている?」


「えっと……。マイナスのところから」


 戒は心中で頭を抱えた。最初も最初のところである。確かにそこで躓く中学生は多いのだが、そこで躓いていては他の単元の理解が大幅に遅れる。


「まずはそこからだろうな。今は、これまで分からなかった部分を潰して言った方が良い」


 その後も、戒は紫月の学習状況をいろいろと聞いていった。


 結果としては、戒の想定もよりも紫月が学校の授業を理解している割合は低かったのだが、同時にどこの部分が分からなかったのかはしっかりと憶えていた。勉強をしたいという気持ちはあるようだ。


「行きたい高校はどこなんだ?」


「特に決まってはいないんですけど、でも、高校には通いたくて」


「だが、それだけなら勉強する必要はないだろう。答案に名前を書くだけで入れるような公立高はいくつかある。それではいけない理由があるのか?」


 戒は、ふと疑問に思ったことを直球で投げてみた。これまで紫月と話してきた感触からして、高校に行くには受験勉強をしなければいけないと、ただ思い込んでいるだけの可能性がある。ただ、答案に名前を書くだけで入れる高校よりも、もっと上の学校へ進んだ方が良いのは当然だが。


「恩返しがしたいんです」


 紫月は淀みなく言い切った。そういえば、生箭日女いくさひめを続ける理由も同じだった。


「それも父親に?」


「はい。生箭日女は、ずっとは続けられないんですよね。だったら、って」


 そうであるならば、やはり受験対策は必須だろう。


 しかし同時に、やはり彼女から聞く鏑木の印象と、福井警視の持って来た鏑木の情報はかけ離れている。


 加えて、淡島あわしまの言葉を信じるなら、紫月は鏑木のしていることを知っているはずだ。


「……父親冥利に尽きるだろうな」


 しかし、そもそもそうでないことに越したことはないのだ。


 鏑木が華屋に属しているというのは、まだ疑いでしかない。淡島が指していたものが、鏑木の犯罪行為であるというのも推測だ。鏑木はただ、自分の店で働いていた女の残した子供を拾い、愛情を持って育てた。そうであれば良いだけだ。


「食べ終わったら、出よう。駅前に戻ればいくつか書店がある」


「……わたし、本って苦手で」


「難しい参考書を買う訳じゃない。数の正負にしろ何にしろ、ある部分に絞って、やさしく解説している本もある。イラストを多用しているものもあるから、読みやすいはずだ」


「ほえぇ……」


 紫月が可笑おかしな声を漏らす。


 本当なら、戒を始めとする実動祭祀部の職員や、百合阿ゆりあのような先輩の生箭日女がそういった部分も面倒を見れれば良かったのだが、残念ながらそうもいかない。


 今はどこも忙しく、空気も張り詰めている。禍玉まがたまへの穢れの蓄積が早くなっていることや、淡島のような国津神くにつかみのこと、そして何より紫月の養父である鏑木のことなど、多くの問題が折り重なっているためだ。


 二、三年前の百合阿の大学入試前など、そこそこの学歴以上の職員が交代で彼女の受験勉強を補助していたりしたが、今はそんなことをしている余裕はなかった。


「ふー……。美味しかったです。ごちそうさまでした」


 しばらく後。彼女の前には、空っぽになったパフェグラスがあった。


 その一方で、戒は再び眉根を寄せていた。


 こうして見ると、紫月の所作そのものは、育児放棄を受けていたという彼女の生い立ちを感じさせない。ごちそうさまでしたと言葉にしている上、スプーンの持ち方も正しかった。そういったことは母から躾けられていたのか、それとも鏑木が矯正したのだろうか。


 戒が会計を済ませ、二人は外へ出る。途端、夏の日差しが焼き殺さんとばかりに降りかかる。冷房の効いた店内にいた分、余計に暑さを感じる。


「戒さん、暑くないですか?」


 紫月が、戒の着ているジャケットを見ながら訊く。こんな真夏日だというのに、戒はずっとジャケットを着たままだった。


「そこまでは」


 戒はそう誤魔化したが、正直なところジャケットは暑かった。しかし今は護衛の任務であり、実は腰の後ろには小刀を携行している。それを隠すために上着は必要だった。


「紫月こそ、日に焼けそうだ」


 一方で、紫月のシャツワンピースは膝丈な上に半袖で、白い腕や細い脛が露わになっている。それが強烈な日光に晒されているのは、もはや痛々しいほどだ。


「そうですね……、ちょっと明日が怖いかもです」


「日焼け止めは?」


「……あっ。そういうの、ありましたね。でも、持ってなくて」


 どうやら、今までその存在自体を忘れていたらしい。男の親だけとなれば、そういったことまで気が回らないのはままある話だろう。


「放っておくと、すぐに真っ赤になって痛くなる」


「でも、日焼けって、肌が黒くなるだけじゃないんですか?」


「それは人による。肌が弱かったり、元々色白だったりすると、肌が赤く腫れて皮が剥けるし、何より痛む。それにほとんど肌は黒くならない」


 他ならぬ戒がそうである。恐らく紫月もその類だろう。


「う……そうなんですか?」


「先にそっちを買いに行こう」


 紫月を連れて、戒は渋谷ヒカリエへ向かった。ヒカリエでなければいけない理由は特にないが、思い当たる場所がそこしかなかっただけだ。


 しかしそれには人混みのスクランブル交差点をまた渡らなければならず、また手を繋がなければいけなくなったことは言うまでもない。


「えっと、これは……?」


 無事に化粧品売り場へ到着した二人だったが、そこで紫月が早速目を回していた。


「ぴーえーたすたすたす……?」


「そのくらいのものでいいだろう。最初は取り敢えずそれを使って、習慣がついたら他のものも使ってみればいい」


「で、でも値段が。パフェよりも高いですよ?」


「そういうものだ」


「お小遣い、足りるかな……」


 そう呟く紫月の手元から、戒はひょいっとそのミルクタイプの日焼け止めを取り上げる。


「少し高くても、最初は良いものを使った方がいい」


「え、えっ」


 どうやら紫月が持っていたのは顔用のものだったらしい。戒はその隣の体用のものも取ると、そのまま会計を終わらせた。


「……何だか、悪いことをしているような気がします」


 購入した日焼け止めをヒカリエ内の適当なベンチで顔と腕に塗り、次の目的地へ行くべく外に出たところで、紫月がそう零した。


「次からは自分で選んで自分で買えばいい」


「次……。あ、じゃあ」


 紫月が『名案を思い付いた』と言わんばかりに両手を合わせる。


「次はちゃんと、私のお小遣いで買います。でも、戒さんが選んでください」


 それはまた一緒に出掛けようということだろうか。戒は少しばかり逡巡する。


 護衛が必要であればそうするが、そうでなければ難しいだろう。誘われた際に言った通り、実動祭祀部の職員と生箭日女が私的な関係を持つことは禁じられている。


「護衛が必要なら」


 マニュアルじみた答えを返すと、紫月は歳相応に頬を膨らませた。


「一人じゃ選べないです! 戒さんみたいに詳しい人がいないと」


「俺も、そこまで詳しいわけじゃない。荒牧辺りに頼んでくれ」


「え、でも。さっきは」


「……全部他人の受け売りだ」


 戒はそう自嘲する。


 その言葉通り、今日紫月と話してきたことは、全てがある一人からの受け売りだった。


「やっぱり朝那あさなさん……ですか?」


「……ああ」


 塾講師のアルバイトをして、担当生徒のことを愚痴混じりに話してきたのも。夏になるたびに肌を真っ赤にしていた戒に日焼け止めを見繕ってくれたのも。全て彼女だった。


「次は本だな。ひとまず近くの書店を当たろう」


「そ、そうですね」


 少し無理をした表情で、紫月が頷き返す。戒はそれを知りながらも、同時にそれで良いのだと思っていた。


「また人混みの中を通らないとだが、大丈夫か?」


 しかし、戒がそう言って手を差し出すと、紫月はすぐに笑顔を見せた。


「……はい」


 その後、二人は渋谷内の書店を幾つか回り、しかし眼鏡に適うものは見つからず、池袋まで足を延ばして図書館に似た大型書店で、良さそうな本を購入した。


 そしてその頃には、長い夏の日も傾き始めていた。


 戒はどこか帰りたくなさそうな紫月を促し、彼女の最寄り駅まで送り届けていた。護衛はここまでである。


「楽しかったです。とっても」


 学習用の本が数冊入った紙袋を抱えた紫月が言う。


 時間としては書店であれでもないこれでもないと悩んでいた割合が多いのだが、そう言ってくれるのはありがたい。


「良かった」


 それは、ただの本音だった。


 思えば戒にとって、紫月のここまで晴れやかな笑顔を見たのは、始めてだった。


「今日買った本を勉強し終えたら言ってくれ。また探そう」


 すると、紫月の表情がぱっと輝いた。


「また一緒にですか?」


「……できればそうしよう」


 二度も断るには紫月が眩しすぎ、戒は視線を逸らしてそう言うしかなかった。


 ――と、その時。戒のスマートフォンが振動した。


「すまない」


 画面を見る。知らない番号だった。


「はい、一色」


『どうも。捜査一課の福井です。……少し、緊急事態です』

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