第22話:少女と乙女と・前

 晩夏、某日、渋谷駅ハチ公前。


 その日は平日ではあるがまだまだ夏休み期間であり、待ち合わせ場所として有名なそこは、これから街へくり出そうという若い男女でごった返していた。


 社会人であるかいには無縁の世界……かと思いきや、彼もまた平日だというのに私服を来て、そんな人混みの中にいた。


 着ているのはカジュアルなセットアップのスーツだ。一応私服ではある。少なくとも、購入した店の店員は私服用だと言っていた。それに合わせてトップスもTシャツだ。


 ただ、戒だから当然だが、休暇ではない。仕事である。もっとも、戒が外に出る用事など護衛か祓しかなく、こんな往来で祓を行うわけもないため、必然的に護衛である。そして戒の護衛対象など一人しかいない。


「ど、どこから行きましょうか」


 戒の隣には、白のシャツワンピースに身を包んだ紫月しづきがおり、頬を紅潮させていた。恐らく暑さのためではないのだろう。


 戒の容姿が大学生ほどにしか見えないこと、お互い私服であることなどもあり、その様子は誰がどう見たところでデートでしかない。


 ――ことの発端はというと、数日前にさかのぼる。


「あっ、あの。戒さん。ちょっと一緒に……その。買い物に付き合ってくれませんか!」


 何度目かの百合阿ゆりあの収録に同行した帰り。その日に収録していたスタジオも渋谷だったため、戒の運転する公用車に紫月、ともえ、百合阿を乗せて霞ヶ関まで走っていた時のことだ。


「それは……」


 口を開きかけた瞬間に嫌な予感がして、戒はバックミラーに視線をやる。すると案の定、後部座席から興味津々と言った様子で身を乗り出している巴と百合阿と目が合った。


 下手に答えれば、また小言を言われるか、どんな噂を流されるかたまったものではない。


「難しいだろう。生箭日女いくさひめと実動祭祀部の職員が私的な関係を持つことは禁止されている」


 一般論である。生箭日女は未成年が大半だ。中学校や高校、学習塾でも、所属する教師や講師と生徒の間において、連絡先を交換するなどの行為を禁じている。


「あ、そうなんですね……」


「……ねえ。紫月ちゃんさ、最近出掛けられてないんでしょ」


 露骨に残念そうな声を出した紫月だったが、間髪入れずに後ろから助け船がやって来た。


「いえ、元々そんなに……」


「ほらあの淡島あわしまとかいう奴のせいで。護衛課から出歩くなって言われてるって聞いたよ」


 紫月の回答を待たずに巴は畳み掛ける。


 一応、彼女の言葉は事実だ。現在、淡島を警戒して紫月には必ず護衛課の人間が付き添っている。こうして百合阿と行動を共にしているのもそのためだ。そしてその手が及ばないプライベートの時間では、出歩かないようにしてもらっているのが現状だ。


 歳頃の少女が出掛けられないというのも酷な話だが、本人には了承してもらっている。


「あっ……。そうでした。わたし出掛けちゃダメでした……」


 紫月はどうやら元々外出をしない質らしく、そのことすら忘れていたようだが。


「ね、だから。どうしても出掛けたいなら護衛がいるでしょ?」


「でも、そこまでしてもらうのは……」


「だいじょーぶだいじょーぶ。お姉さんに任せなさいって」


 言うが早いか、巴はどこかへ電話を掛け始める。


「……大野さんじゃないんですか?」


 巴のスマートフォンの画面が見えたらしい百合阿が訊く。


「だってあの人に訊いてもどうせ日比谷さんに訊けって言うじゃん」


『あ、来栖くるすちゃん? 久しぶりー。どうしたの急に』


 案の定、相手は護衛課副課長の日比谷だ。


 かくかくしかじかで、と巴が事情を説明する。


『なんだ、そんなこと? 全然オッケーよ。そりゃ、いつまでか分かんないけど家から出ないで、なんて酷いこと言わないわよ。で、いつになりそう?』


「その辺はまだなんで、決めさせて一色いっしきさんから報告ってことでいいですか?」


『りょうかーい。二人にヨロシクねー』


「……ってことで。オッケーですよ、お二人さん」


 ――こうして、鶴の一声によって戒と紫月は『お出かけ』をすることになったわけだ。


 なのだが、正直なところ戒は気が気ではなかった。


 淡島のこともあるが、紫月の養父である鏑木かぶらぎのことだ。今日の外出は、当然マル暴にも断りを入れてあり、そして当然のように、先方に伝えた大野は渋い顔をされたらしい。そうは言っても、紫月の要求を無理に断って訝しがられるのも危険がある。


『お前の父親が何をしているか、知っているはずだ』


 あのとき、淡島はそう言っていた。彼の正体が少彦名すくなひこなだとするなら、とよにとっての高天原たかまがはらのように、何らかの方法で紫月の情報を得ている可能性がある。


 そして、それは鏑木が華屋はなやに属していることを指していたのではないだろうか。そうするなら、紫月は鏑木の犯罪を知っているということになる。


 以前に日女ひめ神社で福井から報告を聞いた際は、淡島が国津神くにつかみであるということを伏せていたために口に出せなかった。だが、戒の中でその疑念と憂慮は日に日に膨らんでいた。


「あの、戒さん?」


「すまない。少し考え事を」


 そんな状況だが、今は護衛、もといエスコートをきっちり片付けなければいけない。


「そういえば、買うものは決まっているのか?」


 尋ねると、紫月は少しばつが悪そうな表情になる。


「えっと……。受験勉強の道具です」


 学校と関わりが無くなると忘れがちだが、この時期といえば受験勉強を始める頃である。


 だが、それにしてもどうにもピンと来ない言い回しだ。


「問題集とか赤本でいいのか?」


「赤本……って、なんですか?」


 きょとんと首を傾げる紫月。


「入試の過去問集のことだ」


「赤いんですか?」


「ああ。書店で見かけないか?」


「あんまり入ったことがなくて」


 戒は、最近の学生は赤本とか言わないのだろうかと思いかけたが、紫月の生い立ちを考えると、違う可能性があることに気付く。


「もしかしてだが。そもそも勉強の仕方が分からないのか?」


「そ、そんなことは……」


 頬を膨らましつつ、戒から視線を逸らす紫月。図星のようだ。


 尤も、それは彼女の生い立ちを考えれば仕方のないことでもある。


 福井警視から聞いた限り、彼女は鏑木に引き取られるまで学校に通っていないはずだ。


「いや、責めているわけじゃない。そういう人は一定数いる。仕方が分からないのなら、そこから学べばいい」


 言いつつ、戒はおとがいに手をあてる。そうなると、まずはどこまで授業についていけているのかを確かめなければだろう。気分は完全に塾講師である。


 実のところ、年の離れた少女と外出など胃が痛くて仕方がなかった戒であるが、そういうことになればいくらか気が楽である。年長者としてただ協力するだけだ。


「取り敢えず、どこか落ち着けるところに入らないか。今の状況が知りたい」


「わ、わかりました」


 少し気おされ気味の紫月と共に、スクランブル交差点の方へ向き――。


「「?」」


 ――しかし二人は歩き出すことはなく突っ立ったまま、お互いに顔を見合わせた。


 戒としては、視界に護衛対象である紫月が入っていないのはまずく、常に視界に紫月を入れておくには彼女の後ろを歩くしかない。


 一方で紫月からすれば、言いだしっぺである戒が先に歩き出すのが普通だったわけだ。


「すまない。少し先を歩いてくれないか? 一応、護衛の仕事中だ」


「でも、わたし渋谷って全然来たことなくて」


 ふと、紫月がもじもじと擦り合わせている陶器のような肌をした手が目に入り、戒の脳裏をある案がよぎる。が、戒はそれを全力で頭から追い出した。流石にそれは、きつい。


「……大体の方向は言う」


 それで勘弁してくれ、というのは心の声だ。


「わ、わかりました……」


 不安そうに紫月が歩き出す。戒はその隣を半歩下がって付いて行く。


 だが、それもそう長くは続かなかった。


 紫月は渋谷に慣れていないどころか、人混みそのものに慣れていないようだった。無暗にきょろきょろと回りを見ては人にぶつかりそうになって飛び退き、その先でまた人にぶつかりそうになり、とても見てはいられない有様だ。


「紫月」


 一声掛けて、戒は紫月の肩を抱く。


 彼女は声を上げはしなかったものの、跳び上がるほどに驚き、しかし戒に合わせて再び歩き始めた。


 心なしか高い彼女の体温を感じつつ、戒は交差点を渡り切り、人混みから少し離れたビルの壁際まで辿り着いた。


「突然悪かった。大丈夫か?」


「はい……」


 心ここに在らずで紫月が返事をする。例によって耳まで真っ赤になっていた。


「凄いですね。渋谷って」


「今は夏季休暇の学生が多い。いつもはもう少しましだ」


 戒は辺りを見渡す。道玄坂方向もセンター街も酷い人混みである。


 これでは、きついだのなんだのと言っている状況ではないだろう。


「紫月、手を」


 戒が手を差し出すと、紫月は少しだけ躊躇ためらって、自分の手を預けて来た。


 その手を引いて、戒は井之頭通方向へ向かう。ひとまず中心部から外れれば人混みもましになろうかという判断である。


 そして数分後。二人は、表通りから外れた喫茶店へ、運よく並ばずに入っていた。


「わあ……」


 紫月は店へ入るや否や、内装を見ては感嘆を漏らす。戒からすれば何の変哲もないチェーンの喫茶店なのだが、彼女にとっては何もかもが目新しいようだ。


 しかし、席に着くころには、どういうわけか不安げな表情になっていた。


「あの、戒さん。その……ここって、高くないですよね?」


「安い方だ」


 一旦そう答えた後、真意に気付いて付け加える。


「ああ、出さなくていい。学生はそういうことを気にしないのが普通だ」


「そうなんですね……」


 まさかこの歳の少女と割り勘にしようなどは誰が思うだろうか。


 戒がメニューを差し出すと、紫月は食い入るように眺め始める。


「戒さん! これ、なんですか?」


 と思いきや、興奮した様子でメニューの一つを指差した。


「パフェだな」


「どんな食べ物なんですか?」


「コーンフレークや生クリームの上に何種類もフルーツやアイスを盛りつけたスイーツだ」


「え、えっと……」


「豪華なおやつだ」


 紫月はメニューのパフェをじっと見つめている。


 今まで見たことも聞いたこともなかったのだろう。興味津々にパフェの写真を眺めている姿は愛くるしく見えるのだが、その事実自体は痛ましいことだ。


「食べたいのか?」


「でも、高いですよね」


 紫月がパフェの値段を眺めて言う。どうしても金額を気にしてしまうのは育ちか、それとも年齢からして小遣いをもらうしかない故の金銭感覚からか。


「高くない」


 諭すように戒は言う。


「働き始めれば、これくらいの金額はなんてことはない。頼んでいい」


 ぱっと紫月は顔を輝かせると、さらにメニューをめくり始めた。


「ただし、食べきれる量までだ。パフェというのは、基本的に量がある」


 彼女が何を考えたのか察し、戒はすかさず釘を差す。


 結局、紫月は定番なパフェとミルクコーヒーを、戒はアイスコーヒーを頼んだ。


「本当に、食べていいんですよね?」


 パフェが運ばれてくるなり、紫月がきらきらと目を輝かせて戒に尋ねる。


「ああ。いけないなどと誰も言わない」


 紫月は至って普通にスプーンを持つと、高揚した面持ちで、しかし手元はどこから食べたものかと迷った挙句、縦半分にカットされた苺と生クリームを少し掬って口に運んだ。


 途端、彼女は言葉にはならないような小さな喜びの声を上げる。そして更に二口、三口とパフェを口に運ぶ。


 戒はアイスコーヒーのグラスを傾けつつ、暫くの間、その微笑ましい光景を眺めていた。

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