バラ園の約束

ヤン

第1話 慌ただしい朝

 目が覚めると、心臓がドキドキとしていた。また同じ夢を見た。もう、忘れてしまいたいのに。


 三上みかみ沙羅さらは、大きな溜息を吐いてベッドからゆっくりと体を起こした。深呼吸をしてから壁の時計に目をやると、思わず「え」と声が出てしまった。目をこすってもう一度よく見てみたが、信じられない時間だということに変わりはなかった。


「寝坊した」


 すぐにベッドから下りると、急いで着替え、部屋を走り出た。階段を下りて台所を覗くと、祖母の千尋ちひろがお皿を洗っていた。


「おばあちゃん。バイトに行ってくるから」


 声を掛けるその時間さえ惜しかったが、黙って出て行くわけにはいかない。祖母は沙羅の方に振り向き、


「あら。朝ごはんは?」

「いい。もう、時間がないんだ。じゃあ、行ってくるから」

「沙羅ちゃん」

「行ってきます」


 靴をはくと、玄関を勢いよく出て、そのままアルバイト先のファミリーレストランまで走って行った。


「三上さん。セーフ!」


 一緒の時間帯に入る事が多い吉本よしもと多香美たかみが、両手を左右に広げて、おどけた口調で言った。沙羅は、素早く制服に着替えると、「行こう」と多香美に声を掛けて、連れ立って更衣室を出た。


 早朝から仕事に入っている人たちに、「おはようございます」と挨拶しながら調理場前の通路を抜けて行き、ホールの店長に二人で頭を下げつつ、「おはようございます」と言った。店長は口の端を上げて笑うと、


「来ないかと思ったよ」


 沙羅は、素直に謝り、


「寝坊しました。危うく遅刻でした。気を付けます」

「いいんだよ。ちゃんと間に合ったんだから。三上さん、真面目で面白いな」

「えっと。それは、褒めてませんよね」

「そんな事ないけどな。いつも思ってるんだけどさ、僕って、三上さんに信用されてないよね」


 わざとらしく長い息を吐き出す店長に、沙羅はやや冷たく、


「そんな事ありません」

「そうかなー」


 店長が嘆くように言った時、店のドアが開けられた。店長は、すぐに営業用の顔に戻ると、「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」と言った。



 ランチタイムのピークが過ぎ、テーブルを拭いていると、店長がそばに来て、


「三上さん。そろそろ上がる時間だから、ゴミをまとめてもらえるかな」

「あ。はい」


 作業に入ろうとして腕時計を見ると、あと十分で三時になるところだった。


(今日は、忙しかったな)


 心の中で呟き、奥に入ろうとした時、ドアの開く音がした。「いらっしゃいませ」と言おうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。


(あ……)


 入って来たのは、よく知っている人だった。沙羅は、目を見開いて少しの間固まっていたが、


(いけない。仕事中だ)


 無理に笑顔を作ると、


「いらっしゃいませ。お一人様ですか。こちらへどうぞ」


 沙羅の言葉に頷くと、その人は沙羅の後について歩き出した。案内した席に座ったのを確認してから、メニューを渡した。


「お決まりになりましたら、お呼びください」


 礼をしてから、奥に入って作業を始めた。休憩から戻ってきた多香美が、沙羅を見て敬礼のポーズを取り、


「戻って参りました」


 気合の入った口調に、沙羅はつい笑ってしまった。多香美は、


「えー。真面目に言ったのに、三上さん、笑ったー」

「だって、面白かったから。それより私、上がり作業に入るからさ。今、一人お客さんが来たけど、まだオーダー取ってないから、あとよろしく」

「承知」


 やはり敬礼してくる。変わった子だ、と沙羅は思ったが、何故かこの多香美は嫌いになれない。


 チャイムが鳴って、多香美はお客の許へ行ってしまった。沙羅は手早く作業を行い、「お先に失礼します」と声を掛けながら、更衣室に向かった。

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