第3話 精神の輝き

 ボエモンド一派を見送った後、ルシエルは鎖を引きずる囚人のような足取で自室への廊下を歩いていた。彼の顔は表情と言うものが消え、まるで夕闇の墓場をふらふらと歩く不吉な幽鬼のそのもののようだ


 その異変に侍従や衛兵達もただならぬものを感じ、体調を気遣う言葉を何度も投げかけるが、「私に構うな」と返すのみだった。そして、とぼとぼとした足取りで自室に戻り、部屋の扉を閉めるとそのままもたれかかるようにして崩れ落ちる。


「……もう終わりだ。ディオザニアの臣下は死に絶え、この私も枯れ枝の一群と化した。私も……あの役立たずどもと同じだ」


 彼は自嘲じちょうするような乾いた笑い声を上げると、その場でうずくまる。

 今や奸臣かんしんが権力を握り、正しき者が殺され、ディオザニアは瀕死ひんしの状態だ。道理が通らない乱れ濁った世に直面しているが、ルシエルは怒りに燃える事はあっても何もできない。ユリウスへ反抗する僅かな気概さえなくしてしまっているのだ。


「いや、皇帝でありながら何もできない私は、枯れ枝にも劣る」


 そんな悲痛な言葉をこぼすと、彼は自分自身を搔きむしるように、両拳を胸に押し付ける。

 ギリリッという歯がきしむ音がかすかに響いたが、やがてその音はかき消え嗚咽おえつへと変わった。


「ご先祖様! どうか無能な私を罰してください!」


 彼はその場で懺悔ざんげするかのように膝をつき、天に向かって絶叫する。

 そして、彼は誰に聞かせるでもなく、幼子のように泣きながら己の罪を告白する。

 

「逆賊ボエモンドを恐れた故、辱めを受けても抗うことはできませんでした。忠臣が殺された時も、何もできませんでした」


 獄炎の呵責かしゃくとも言うべき、燃え盛る暗澹あんたんが胸の中に広がりはじめ、それが彼の頭を焦がしていく。

 憂鬱さに、戸惑い、自分に対する失望や落胆、幻滅、嫌悪の念が怒涛どとうのように押し寄せる。


「そして、今日私は民を見捨てました。……私のせいで皆が飢え死するのです。このルシエル・デイン・ラヴェンブルクは無能です。一族の恥です。どうか厳正なお裁きを!」


 目から煮えるような涙を流がしながら、ルシエルは己を貶める言葉を天に叫ぶ。

 だが、無論返ってくる反応はない。彼以外この部屋にいないのだから。その慟哭どうこくはただ虚空へと虚しく吸い込まれていくだけだったのだ。


「私は何のためにラヴェンブルク家の子孫として生まれてきたのか。何のために先帝の祖業を継いだのか」


 まるで救いのない絶望の淵に立たされたようで、それが彼の心を締めつけていく。

 そうして胸の中で何かが砕かれるような音が響いた時、ルシエルは目の前が真っ暗になったような気がした。体からは生気が抜けきり、深い絶望が心を蝕んでいく。


「……いっそ死んだほうが良い」


 その絶望が頂点に達した時、彼の口からそんな言葉がこぼれ落ちる。

 そして彼は力なく立ち上がると、棚の上に置いてある飾り物の中から、一本の短剣を手に取った。

 柄にはラヴェンブルク家の紋章が刻印されており、刀身は一点の曇りもなく磨かれている。それは子供が虫を遊びで殺すような無垢な鋭さに満ちていた。

 

 彼の心は妙に冷たく澄み切って、真冬の大空のように冴え渡っていた。

 きっとこの短剣で喉を切り裂けば、自分は死ねるに違いない。

 そんな確信が芽生えた彼は、両手で柄を握りしめると躊躇なく首筋に押し当てようとしたその時だった。


「陛下! 早まってはいけません。それだけはおやめください!」


 ルシエルが声のした方向を振り返ると、フィオナが血相を変えて彼のもとへ駆け寄っきた。

 その顔は青ざめ、肩で息をしている。


「なぜ、お前がここにいるのだ?」


「そんなことよりも、どうされたのです。なぜ、自害を?」


 フィオナは息を荒げながら、ルシエルに問う。


「もうダメだ」


 そして、彼が苦々しくそう言うと、彼女に事情を全て話した。

 臣下や民のこと、ユリウスのこと、そして自分が無力なこと……全てを。

 

「陛下はこの国の皇帝で在らせられます。お命を粗末にしてはなりません。陛下が自害などなされば、それこそ臣民を見捨てることです。それに、ディオザニアは永久に再興できなくなってしまうのですよ」


 フィオナは必死な様子で彼を諭す。それは心からルシエルのことを慮っての行為だった。

 そんな彼女の懸命さに心を動かされたのか、ルシエルはふと我に返り……自分がひどく滑稽なことをしていると気づく。

 そして彼はその場で膝から崩れ落ちると、その慟哭を再び漏らしたのだった。


「だが、私のせいで民は餓死するのだ。私は何と無能なのだろうか。私は……私は……」


 そう独白しながら、ルシエルは大粒の涙をこぼした。その姿はまるで泣きじゃくる小さな子供のようで……とても痛ましいものだった。

 そんな彼をフィオナは優しく抱き寄せると、穏やかな声で話しかけた。


「ご安心ください。民は飢え死にしたりいたしません」


 その言葉にルシエルは微かに反応する。

 そして、彼を安心させるかのようにフィオナは言葉を紡ぐ。


「幸運にも先帝は数多の金品を陛下に残されました。また、陛下の衣食住は天下の珍味や装飾に囲まれています。これらを改め、……いっそのこと金銭に変え、それを以て困窮する民を救われてはいかがでしょうか?」


「だが、フィオナよ。そんなこと母上がお許しになるだろうか? それらの多くは先祖から受け継ぐ名品だ。売り払うなど……できるわけがない」


 すると、フィオナは微笑みながら首を左右に振る。


「陛下、よくお考えください。古来より民心を得る者が天下を得ると言います。此度陛下が民を蔑ろにし、金品に重きを置かれるのであれば、ディオザニアの命脈が尽きた事を天下に示すようなものではありませんか」


 彼女はそれだけを言うと、それ以上何も言わずに口を閉じる。

 そんな彼女の思いに触れながら、ルシエルはしばらく考え込むと……おもむろに立ち上がった。その双眸そうぼうには次第に力が戻り、憔悴しょうすいの色は次第に薄れていく。


「……その通りだ。私はどうかしていた」


 そして、彼は己を戒めるようにつぶやいた。

 しっかりと己の成すべき事を見据える彼の表情は凛々(りり)しく、先ほどまでの泣きじゃくる子供のような様子は微塵もない。


「よし、早速取り掛かろうぞ!」


 そう勇ましく言うと、彼は自室を飛び出そうとする。しかし、フィオナはそんな彼を慌てて引き止めた。


「お待ちください。陛下にお志があってもお一人の力では難しいと思われます。宮廷の財務に詳しいローレンス大臣の協力が必要です」


「なるほど。フィオナ、君の言葉はまさしく闇夜の灯火だな」


「お褒めいただき光栄ですわ」


 フィオナは微笑むと、深々と頭を下げた。

 その仕草は優雅で、優しく、少しのあどなさがある。

 それを見たルシエルは穏やかな笑みを浮かべ、侍従を呼び出した。

 すると、すぐに彼らは部屋の中へと入り、ルシエルの前にひざまずく。


「先生を、宮内大臣を呼べ」


 ルシエルが厳かにそう宣言すると、彼らは頭を下げ、すぐさまその場を後にした。

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