第16話 トラップからの脱出

 周作は、暗い窓のない部屋で目を覚ました。

 ここは……どこかの地下室?


 見渡せば、小さなコンクリート造りの寒々した部屋。

 ジェイコブのキスを手の甲に受けた時、チクリとした。

 隠し持っていた注射器か何かで、薬でも入れられて眠らされたか。


 人間の身体なんて脆い。

 ほんの僅かな薬物や衝撃で、あっという間に眠らされるし、命も奪われる。


「しかし、穢れってなんだろうね。薬物は穢れに入らないのだろうか」


 目を覚まして、ぶつくさ言いながら自分の身を見渡して驚く。


「え、何だよ。これ」


 着させられていたのは、純白のドレス。所々に、白百合があしらわれている。

 目が覚める前には、旅館の浴衣を着ていたから、ジェイコブが着替えさせたのだろう。


「なんだよ。この動きにくい服は!!」


 周作は、ため息しか出ない。

 まさか男として生きることを願う自分がこんなウエディングドレスのような服を着ることになるとは、思っても見なかった。

 純潔や素直さの象徴のドレス。こんなの自分には最も似合わないと周作は思う。


 どうしてこうも、自分に言い寄ってくる男は、強引で自分勝手なやつばかりなのか。


 周作が穢れるのが嫌だといっていたジェイコブが、周作の身体に何かをしたとは思えないが、この真っ白なドレスに着替えさせられていたことには、辟易する。


 腕も足も拘束され、ベッドに縛りつけられている。腕を左右に広げ、両足を真っすぐに固定されているのは、十字架を意識しているのだろう。

 

 何もかも悪趣味極まりない。


「ああ、麻酔が切れましたか。起きられたのですね」


 ジェイコブが、ぶつくさ文句を言っている周作をにこやかに見ている。

 幸せそうな笑顔のジェイコブ。


「この服は何? 君の性癖?」

「滅相もない。貴女はこれから、神の身元へ逝かれるのですから、それにふさわしいご衣裳を用意いたしました」

「浴衣で十分だよ。そんなの」


 そんな周作の意見は、この狂信者に通じるわけもないが。


「ご心配なされなくても、苦しまずに逝けますよ」


 始終にこやかなジェイコブ。長年の夢がもうすぐ叶うという希望から機嫌がよいのだろう。


「こんな風に、引き渡すはずの獲物をキミが盗ってしまったら、仙石が怒らない?」

「お心を砕いていただき光栄でございますが、ご心配にはおよびません」


 多少は眉をひそめるかと思ったが、ジェイコブは悠然としている。


「これも失敗か」

「はっはっは。教えて差し上げたことを、よく覚えていらっしゃる。素晴らしい。動ける部位を最大限生かして、最後まであきらめずに策を練る。大切なことでございます」


 まるで子どもと話しているかのようなジェイコブの口調。


「お可愛らしい。変わりませんね。あの時から続く貴女との絆を感じます」


 ジェイコブが、周作の頭を撫でる。 


「へえ、絆があるわりには、こんな風に僕の自由を奪うのは、なぜ?」

「それは……仕方ありませんよ。駄々をこねずに受け止めて下さい」


 愛おしそうな瞳をジェイコブは向ける。

 虫唾が走る。

 だが、それは表情には出さない。少しでも、油断させて、その隙をついて脱出したい。


「ねえ。僕は、磔にされるの? 嫌だね、あの死に方は苦しいんだよ。自分の体重が手足の釘を打たれたところに集中して千切れそうになるし、死を迎えるまで時間がかかるから、血液が体から流れて朦朧としながら生きながらえなきゃならないし」


 ヘラリと周作が笑う。笑う周作の頬をジェイコブの手が撫でる。愛おしそうに撫で、指で唇をなぞる。その感触が気に入ったのか、ずっと唇を撫で続ける。


「その苦しみこそが、信仰の根源。ですが、ご安心ください。ナイフを突き立てて、血で染めて差し上げますので、苦しみの時間は軽減されます」

「なるほど。でも、勝手だね。そんな信仰、僕に押し付けないでよ」


 狂気の論理を押し付けるジェイコブに、周作は当然の抗議を申し出る。


「貴女こそが私に血を分け与え生かしたもうた。貴女がこれ以上穢れることが我慢なりません。本当は、あの十九歳の時に、こうやって穢れから守るべきだったのですが、残念ながら、こんなに遅くなってしまいました。お詫びいたします」


 ああ、だが今も貴方は美しい。ジェイコブが、嘆息交じりにそうつぶやく。何年もジェイコブは計画を温め続けていたということだろう。


「その穢れってやつが、どうも僕には分からないんだけれどもね。教えてくれる?」


 ニコリと笑いながら周作問う。


「……それは……」


 ジェイコブが口ごもる。


 やはりそこが、根源の動機。

 宗教的に彩ることで正当化していても、結局はそう言った衝動が動機にあるのだろう。信仰なんてうわべだけの大嘘。本人も気づかない内に、すっかり欲望にすり替わった抜け殻だ。

 つまらない、くだらない、単純な執着、欲望。興味も沸かない。そんな真っ黒な感情は、すでに知っている。刑事になって、色々な事件で既に見た。


 試しに、唇に触れる指を舌で舐めてやれば、ピクリと震えて、指を口内に侵入させてくる。とことん衝動を刺激して、隙を作ってやれば、逃げる道筋もできるかもしれない。

 

 糸口を見つけた……。


「ジェイコブ……」


 甘やかな音色で名前を呼んで微笑めば、ジェイコブが嬉しそうに目を細める。


「さあ、キミのしたいことを教えて? 生きている僕にしたいと思ったことを、キミの懺悔を僕に聞かせて。僕が許してあげよう」


 冷静に。まるで巫女が神託を下すように厳かに……。細心の注意を払ってジェイコブの心に触れるセリフを探る。


「カードを見たよ。ジェイコブ。ユダには、キスを受ける権利があるのだろう?」


 ジェイコブの歪んだ論理に載ったフリをして、妖しい微笑みを周作は浮かべる。

 ジェイコブが、周作を抱きしめる。


「ねえ……これじゃあ、キミを抱き返すこともできないよ?」


 耳元で囁けば、ピクリと震えて、ジェイコブの動きが止まる。

 抱き返して欲しい欲望と、それによる危険を天秤にかけて葛藤しているのだろう。

 簡単な欲望だ。

 受け入れられたい、認められたい、愛されたい。到底受け入れられるわけが無い方法で被害者を強引に束縛して連れ去りながら、加害者の訴える簡単な欲望。

 ジェイコブからもそれが透けて見えたらか。利用してやった。


 一瞬のことだった。

 

「ね。ほんの少しだけ。キミの頬が撫でられるくらいだけ、緩めて?」


 そう囁く周作の言葉に、ジェイコブが戸惑いながらも左手の拘束を少しだけ緩めかけた一瞬。

 隙をみて自由になった手で、ジェイコブの喉笛を、周作は躊躇せずに握りつぶした。


 あっけなく、グッという声を上げてジェイコブは倒れた。


「トラップの基本でしょ? 油断したところで仕掛けるのは」


 周作がヘラリと笑いながらジェイコブに話かけるが、ジェイコブは答えなかった。すでに、周作の言葉も耳に入らない肉の塊と化していた。

 

 そこからが大変だった。

 左手一つて右手の拘束を解き、足の縄をほぐすが、固く結ばれた縄は、容易には解けてくれない。


 何か役に立つ物がないかと探したジェイコブの身体に見つけたのは、時限爆弾。

 すでにスイッチが入れられているところをみれば、ジェイコブの狙いは、元から自分と周作の無理心中。

 周作を殺したその場で、自分も元々から死ぬつもりでいたのだろうということ。


 スイッチが押されていたのは、万一自分が先に死ぬことになっても、周作も巻き添えにできるようにということか。


「ナイフがあるって言ってたんだよな……僕を刺して殺すために」


 あきらめずにジェイコブの身体を探れば、コロリと一本。胸ポケットから細いナイフが転がる。


「うわ……苦しめる気満々だよ。こんな細いナイフ」


 キリストはロンギヌスの槍で刺されたというから、ジェイコブはそれを再現したかっただけ。周作の痛みを和らげる気はなかったのだろう。


「もう……どこまでも勝手なやつだよ」


 周作は、足を拘束していたロープを切り落とす。

 良かった。これでなんとか自由だ。

 ロープを外して自由にはなれた。

 急いで次の行動に移らなければ、時限爆弾で爆発して終わりだ。


 次の行動計画を練る。


 ジェイコブの死体の上着をめくれば、電子機器がカウントダウンを始めている。三十分。それが残された脱出時間。残念ながら、この時限装置の止め方を周作は知らない。

 ジェイコブの体をまさぐれば、鍵が三本ついた鍵束が見つかる。ジェイコブの靴を脱がして、サイズの合わないそれを、ガバガバのまま履く。裸足のままでは、危険だ。


 周作は、部屋を出るためには、ドアを開けなければどうしようもない。そっと周作は、ドアに手をかける。


 幸い、部屋のドアには、何も仕掛けられていないようで、鍵を内側から開ければ、難なく開いた。


 廊下に出ても、窓はない。やはりここは地下室なのだろう。

 二人の人間が、廊下の隅に倒れているのが見える。二人とも、喉を搔き切られて死んでいる。恐らくはジェイコブが金銭で雇った相手。周作を運ぶことを依頼され、用が済めば始末されたということだろう。

 ジェイコブが周作を狙っていた。だが、小柄なジェイコブ一人では、周作を運べない。

 ということは、廊下で死んでいる二人のように、誰かが巻き込まれることは、当然だ。周作をジェイコブ一人では運べない。


「金に目が眩んで悪事に加担した自分を恨んでね」


 物言わぬ相手に、周作はそう声をかける。

 刑事としては、彼らの持ち物の一つでも調べて、身元くらいは確認してやるべきなのだろうが、彼らを調べるのは、危険だ。

 昔、ジェイコブは、死体に手りゅう弾を仕掛けるような手口をよく使っていた。息があるか、敵か味方か、死体を少しでも動かせば、死体ごと爆破されてしまう。


 しかし、困ったな。


 薄暗い廊下、ピアノ線が張り巡らされているとしても、見えない。何がいつ飛んできてもおかしくない。恐らく、周作の捕えられていた部屋だけが安全地帯。大人しく縛り付けられた周作が不用意に吹き飛ぶのは、彼の美学に反するはずだ。


 何かをこの場所から投げて、様子をみるか。


 周作は、自分のドレスに飾られた百合の花を一輪抜き取って投げてみる。百合の花は、カクカクと何か見えない物に何度か当たりながら落ちて、空中に引っかかった。張り巡らされた線は、百合の花程度の重さでは、反応しないようだった。


「正解♪」


 ニヤリと周作は笑う。

 ドレスの裾をナイフで引き裂いて、動きやすく加工する。こんなにピアノ線が張り巡らせてあるのに、長いスカートを引きずって歩くのは無理だ。

 まさかミニスカートを履くことになるとは思いもよらなかったが、仕方ない。

 ドレスに付けられていた百合の花飾りを全て取って、前に投げる。

 その落ちる様を見て、トラップの位置を確かめながら一歩ずつ歩みを進める。

 地道な作業。

 床の上には、ガラスの破片が無数に落ちている。ジェイコブの靴を奪っていてよかった。一歩も進めないところだった。

 じりじりと焦る心を押さえて、確実に前に歩みを進める。


 進んでいる内に、あることに気づく。

 このトラップ、法則性がある。


 特徴のあるアップダウン。

 

 音楽だ。


 覚えのある曲。天井から床までを楽譜に見立てれば、五線譜に書かれた音符の位置にトラップが仕掛けられていると推測できる。


 モーツアルトの『アベマリア』。


 ああ、たぶん正解だ。僕、ジェイコブと初めて会った時に鼻歌を歌っていた。

 周作は思い出す。

 なるほど、周作を捕らえた先に仕掛けた物だ。ジェイコブが、自分がトラップを抜けて逃げるために、自分にしか分からない法則性をつけたのだろう。


 周作の歌う『アベマリア』に沿ったトラップに囲まれること自体が、ジェイコブの喜びだった。


「なんとも、ゾッとするね。ここまで執着される覚えはないんだけれども」


 そう言っても、トラップを仕掛けた相手は、もうこの世には存在しない。

 ジェイコブが、どうして周作に命をかけてまで傾倒するようになってしまったのか。その細かい所までは、もう分からない。


 周作は、法則に従って罠をかいくぐり、廊下をすすむ。

 廊下を曲がれば、上に登る階段がある。そのまま続く暗い廊下と、どちらに行こうか迷う。光が上からさしている。光に反射して、トラップのピアノ線がうっすらと見える。


 光が差している方へ行きたい。

 だが、本当にそれが正解の道だろうか? あいつは、意地の悪い奴だった。だからこそ、トラップの名手で、人の心理を突くことができたのだが。


 周作は、あえて暗がりを進む。

 それがやはり正解なのだろう。『アベマリア』の旋律は、よどみなく続く。

 チラリと後ろを振り返って見上げれば、天井に穴は開いているが、階段のその先は、がれきで行き止まりになっているのが分かる。


 あえて、行き止まりにまでトラップを仕掛けて、この単純な構造のはずの日本国内の建物を迷宮にしているのだろう。


「ダイダロスみたい」


 食人の怪物ミノタウロスを閉じ込めるための迷宮を作ったダイダロス。トラップを作ったジェイコブがダイダロスならば、人を喰う化け物ミノタウロスは、周作。親友の肉を喰って生きながらえる自分のような醜い生き物には、ミノタウロスはぴったりだ、と周作は思う。神話では、迷宮に閉じ込められた英雄は、糸を手繰ることで迷宮を脱出した。だが、ミノタウロスの周作にとって糸は敵だ。少しでもひっかかれば、爆破されるか、ナイフのような刃物がとんでくるか。


 法則をたどり、花を投げながら進めば、ドアがある。正解のはず。間違えれば、ドアノブに触れただけで、感電なんてことも考えられる。慎重に触れる。


 良かった。正解だ。


 鍵を入れてドアを開けば、上り階段。慎重に進めば、ようやく上のフロアにたどり着く。

 どうやら、ここは一階のようで、廊下にも窓があり、光が差して明るい。抜け出したいが、窓にも、透明な糸が無数に付けられている。


 廃校になった学校なのだろうか? クラス名の札が、一つ一つの部屋につけられて、教室が並んでいる。


 机のサイズから考えて、たぶん小学校。最近、少子化で統廃合がすすんでいるから、その中で廃校になった小学校を活用したのだろう。

 ならば、自分が閉じ込められていたのは、地下に作られた倉庫か機械室か。よく見れば、体中に白い粉末が付着している。床に、ライン引きの粉でも落ちていたのだろう。


 廊下の先に玄関が見えるが、あれが本当に出口なのかどうか疑わしい。

 仕掛けた者の心理を分析してみる。

 恐らく、この無数のトラップは、侵入者を地下のあの部屋に近づけないためのもの。僕は縛り付けられていたし、金で雇った人間達は殺されていた。ジェイコブだけが抜け出すための道筋が、必ずあるはずだ。


 侵入者が、どこから入る?


 恐らく、一階の窓か玄関。


 僕ならば、そこは全て封鎖する。では、自分はどこから出入りする? 地下からは、窓もないから出れない。


 ……二階だ。


 周作は、さらに階段を上る選択をする。

 二階に登って、一番目の教室に入れば、案の定、そこの窓だけトラップがない。鍵束の鍵は、残り一つ。窓下に鍵のかかった箱がある。この箱に鍵を差し込めば、開いて梯子が見つかる。避難用の梯子。これで脱出するのだろう。

 あと少し。残り時間が僅かなのは、感覚で分かっている。だが、まだ油断は出来ない。

 気を引き締めて、梯子に手をかければ、地下から爆発音が響く。連鎖して、トラップに仕掛けられた爆薬も爆破しているのだろう。轟音が、こちらに迫ってくる。


 ヤバイ。間に合わない。


 急いで窓枠に梯子の端をひっかけて、梯子を抱えて窓から飛び下りれば、背中に炎が迫ってくる。割れた窓ガラスが飛び散り、梯子をひっかけた窓枠も崩れ落ちる。


 だめだ。落ちる。爆風で態勢が取れない。


 二階の高さだから、命は助かるだろう。だが、骨の何本かは覚悟しなければなるまい。下手すれば、一生後遺症を抱えることになる。


「周作!!」


 諦めかけた周作の耳に、松岡の声がする。見れば、手を広げて、周作を下で受け止めようとしている。


「駄目! お前の腕が折れちゃう!」


 叫ぶが、松岡は聞く耳を持たない。そのまま、松岡の腕に、周作は飛び込んでしまった。周作を受け止めて、その反動で、松岡が、後ろに倒れた。


「ごめん。松岡。腕、お前の腕」


 周作が慌てて松岡の上から体をどけて、松岡の腕を確認する。おかしな方向には曲がっていない。動かしても、痛くなさそうだ。


「ああ、良かった」


 へなへなと周作は倒れ込む。


「良くない。お前、なんだよ。この爆発は。また、無茶苦茶しやがって。普通、お姫様ってやつは、ダンジョンの奥で大人しく待っているんじゃないのか? ラスボスどうした?」


 松岡の声が聞こえる。


「この爆発は僕じゃないよ。僕は、攫われただけだし。頑張って逃げ出して来たんだから、文句言わないでよ」


 仰向けに倒れて、ヘラリと笑いながら周作が答えれば、松岡が呆れている。


「ねえ、松岡。悪いけれど、もう動けないや。運んでくれない?」


 ジェイコブの靴をポンッと脱ぎ捨て飛ばして、周作はケラケラと笑った。




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