第13話 狂人の誘い

 年老いたちっぽけな男。

 ジェイコブの見た目を表現するなら、それが相応しい。

 薄い白髪頭。皺だらけの顔に痩せた体。

 身に着けているのは、ぼろきれ寸前の貧しい服装。


 人生を周作に会って目的を果たすためだけに捧げてきたと言わんばかりだ。


「久しぶりだね。ちょっと痩せたんじゃない?」


 周作がヘラリと笑えば、ジェイコブが深々と頭を下げる。


「そんなに僕に会いたいのなら、普通に訪ねて来ればいいのに。なぜ仙石なんかに手を貸して……」

「メサイヤ。貴女なら、分かるでしょう? 私が、ただ貴女に会いに来たのではないことくらい」

「さあ。分からないね。キミのような奇妙な輩の考えることなんて、凡人の僕には、サッパリだよ」


 とぼける周作に、ジェイコブが苦笑いをみせる。


 手紙の指し示すのは、ユダの接吻。

 ユダは、あの裏切りの接吻により、キリストの身を金貨に変えた。

 なぜ、ユダがキリストを裏切ったのかは、研究者によって諸説あるが。分かっているのは、あの接吻によりキリストを敵に引き渡し、その結果としてメサイヤ・キリストが、ゴルゴダの丘で磔刑に処された。


 そして、ユダの最期も諸説。後悔して首を吊って死亡。得た金貨で買った土地で砕けて死亡。どれも、ろくな終わり方ではない。


「僕の死を望む?」

「ええ。貴女がそれ以上穢れてしまう前に」

「穢れ? なんだよそれ」


 聖職者のように穏やかな話ぶりで、ジェイコブは周作と話す。


 常人とはまるで違う価値観で生きるジェイコブ。何を穢れとするのか。

 穢れているとすれば、ジェイコブに出会った訓練兵であった時の方が、今の平坦な生活よりもよっぽど穢れていただろう。


「私には、あのユダこそが、メサイヤへの真の愛の持ち主に見えるのです」

「それは……また、世の中信仰者を軒並み怒らせる爆弾発言だね」


 ユダは、キリスト教の中の悪の象徴の一つではなかったか? 確か、ダンテの神曲の中でも、ユダは地獄で苦しんでいる。


「ユダこそが、メサイヤを穢れから救い、父なる神の身元へと昇華する役割を担った」

「最悪の考え方だね。だから、キミも僕を穢れとやらから守る使命を持ってここに来たと」

「左様にございます。貴女は、私のメサイヤですから」

「僕をメサイヤだと言うのも馬鹿げているし、穢れなんか知るもんか。そんなの抵抗しない訳がないでしょ?」

「無理でございましょう? あの火事を見ておきながら。……あの旅館には、たくさんのお知り合いがいらっしゃる。全員を助けるなんて、いかにあなたでも無謀でございます」


 ああ。そうか……。

 新米のシェフが、アルコールを誤ってガス台に……。


「スピリタス」

「はい。左様でございます」

「あのホテルの火事の原因になったアルコールって、キミが用意した『スピリタス』か」


 自分の仕掛けたいたずらに気づいてもらった子どものように、嬉しそうな顔をジェイコブが見せる。


「そして、あの旅館にも、私はかの酒を用意いたしました。どのようになされるかは、全部メサイヤのお気持ち次第。原罪を抱えた民を救うか……見放して自分だけ助かるか」

「なんだよそれ」

「守るべきものを持てば、弱くなるものですね。貴女は持ち過ぎました。自分の身に危険が迫っていることには目を伏せて、あおいを助けるために奔走して。そして、今、天秤には、あの旅館で騒ぐ馬鹿どもがのっております」


 八方塞がりだ。

 あそこには、元子や他の同僚がいる。

 自分のために、犠牲になるなんて、ゾッとする。

 思い浮かぶのは、元子の泣き顔。

 誰一人犠牲になっても、元子は周囲の目も気にせずに号泣するだろう。


 守り切れなかった松岡があれほど悔しそうな顔をしたように。

 

 周作は、そんな顔は、見たくない。

 愛すべき人々には、幸せであってほしい。


「痛いのは、嫌いなんだけれども……磔刑はやめてよね」

「ご心配には及びませんよ」


 ジェイコブは、うやうやしく周作の手を取って、その手の上にキスをした。



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