青野海と赤居苺6

事務所の一部屋は日を追うごとに色彩が増えていって、子供部屋、というよりはおもちゃ箱の様相を呈していた。大きな鏡だけが、その中で異様な存在感を放っている。

「苺、またこんなに散らかして」

 数日来ていなかっただけなのに、またぬいぐるみが増えている。昼寝用のねどこは鳥の巣のように毛布がくちゃくちゃだし、駄菓子のゴミやら包装紙やらがそのままだ。

 苺はにこにこ笑って、こんなに近くにいるのに大きく手を振った。

「うるさいな」

 そう言うと、より一層嬉しそうに笑った。

 あの事件があったあとも苺は以前と変わらないか、それ以上のさまざまな表情を見せるようになった。本当にうるさいと感じるくらいだ。つけっぱなしのテレビには、いつもライブの映像が流れている。

「またこれ見てるの?」

 デビュー後はじめてのライブのものだ。地方巡礼では小さなところばかり回っていたので、あんなに大きな箱で人が埋まるのか不安でしかたがなかったことを覚えている。今みると自分を含め全員が精一杯で、ぎこちないほどに全力で踊り、歌っている。

 懐かしく眺めていると、横で苺がはっと顔を上げた。時計を眺めて、急いでライブの映像からテレビに切り替える。なんだと思うと、画面に桃とすみれの姿が映った。そういえば、今日は二人でクイズ番組に出ると言っていた。苺と桃のレギュラー番組だ。

 ぱちぱちぱちと隣で拍手の音がする。苺は子供のように画面に食い入っていた。本当に顔がうるさい。

 でも、音はしない。

「声がでない?」

 そのことを聞かされたのは、事件があって二日後のことだった。苺以外の6人で集められ、苺の長期休養が言い渡された。

「失声症、ってことですか?」

 そう言ったのは花梨だった。

「しっせいしょう?」

 私がそう呟くと、めずらしく桃が真剣な顔で会話に参加した。

「なにそれ」

「えっと、声を失うって書いて、失声症。意味はそのまま、声がでなくなるってことです。脳卒中とか、障害があって言葉がうまく喋れなくなるのは失語症で、失声症は――心因性、ですよね?」

 花梨の言葉にマネージャーはうなずいた。まったく出ないということではなく、声を出そうとすると声帯の周りの筋肉が過度に緊張して、うまくでないということだった。

「どうやったら治るの」

 桃は喧嘩でも売るように突っかかった。事件以来、やはり獣度があがっている。子持ちの動物のように、あらゆるものに牙を向くようになった。

「とりあえず休養させる」

「とりあえずじゃなくて、ちゃんと休ませて!」

「桃、ハウスハウス」

 葉子が後ろから桃を羽交い締めにして、フーと本当の獣のように桃は息を吹いた。すみれはそれを気にしながら、心配そうに呟いた。

「仕事は、どうなりますか」

「苺の穴はできる限りメンバーで埋める」

「埋められる、かなぁ?」

 夕陽が半笑いで呟いた。たしかに、苺の仕事量は私たちの中で一番多く、なにより苺にしかできないようなものばかりだ。

「がんばるしかないっしょー」

 葉子の声に、それぞれが頷く。口に出しては言わないけれど、みんな事件についてあえて話さないように、そんなことはなかったかのように振る舞っている。

 けれど、苺の不在はそれをすぐに思い出させた。事件はまだ続いている。私たちはそういう、危険のある仕事をずっとしていたのだ。そうして、これからもしていこうとしている。

 おもちゃ箱の部屋のテレビの中では、すみれが必死になって桃の相手とクイズをこなしている。

「すみれ、緊張してるなぁ」

 私がつぶやくと、横で苺がらくがき帳にきゅるきゅると文字を書いた。

【桃ちゃんにきんちょーしてる】

「ああ、たしかに。あの子も、桃の本性知ってよくまだ尊敬できるよ」

 すみれには忠誠心という言葉がよく似合う。オーディションの時のことを思い出して、微笑ましい気持ちになった。

【桃ちゃんはたのしそう】

「そう? いつもと変わらなくない?」

 苺は嬉しそうに小さく首を振った。苺と桃には二人にしかわからない世界があるらしい。このクイズ番組も、苺と桃の分かりあっているのかすれ違っているのか分からないトンチキなやりとりがハネてレギュラーになったのだ。

 休養なのだから、家で休めというのに苺は仕事場に来たがった。それならばと社長が事務所の一室を苺の休養室に変えて、仕事という名目で休ませることになったのだ。大きな鏡が導入されているのをみるに、ダンスレッスンもここでやっているらしい。

「あー、あー」

 苺はときどきこんな風に声を確認して、ハミングのような発声練習をしている。まだ掠れて声も小さいが、一時よりはかなりよくなった。それを見ているのに気がついて、苺は口を開いた。

「もうすぐ、ちゃんとでるよ」

 がさがさで、ちりちりしていて、湿り気のまったくない声で苺は言った。その声を聞くと、怒りで耳から血が流れそうになる。誰があの声を、こんな醜いものにしてしまったのだろう。

 醜いだなんて思いたくなかった。でも、私はかつての苺のあの声を知っているから、こんな声は聞きたくない。こんなことを思いたくなかった。

「まぁまぁだね」

 そういうと、やはり苺は笑った。いつも、いつも、笑ってばかりいる。

 確かに回復はしてきている。ハミングの音はもうずいぶん聞き心地のいいものになってきている。でも、回復してそのあと、本当に今までと同じような仕事が出来るのだろうか。

 考えても仕方のないことばかり考えてしまう。苺はこのおもちゃ箱のような部屋の中にずっといたほうが幸せなんじゃないか。だって、一度傷ついたものはもとには戻らないだろう。元の生活に戻ったとしても、また何かのはずみに同じ症状に襲われるかもしれない。外の世界はこの部屋の中のように、明るくて楽しい色ばかりではないのだ。

 白くて綺麗で汚れていないものを求める人たちは、胸のうちにみなどす黒い醜いものを抱えている。あんなに恐ろしいことがあったあとで、またその大衆の前に立てるのだろうか。

 あの時に見た、すべての色が消えてしまったような苺の顔を思い出す。どす黒いもので埋め尽くされてしまったような、重いだけの体のことを思い出す。私は、怖い。

 それでも時間は暴力的に公平に過ぎ去っていった。

 時がすぎると、どんなものも濃度は薄れていく。忘れがたい恐怖でさえ。

「ご心配おかけしました!」

 声がすこしずつ以前のように出るようになってすぐ、苺は仕事に復帰した。最初は人前に出るものは避けて、スタジオで収録できるテレビやラジオ、それから徐々に街でのロケや、観覧のある番組にも出るようになって、最近は研修生のライブのゲストにもちょこちょこ出るようになっている。

 苺は以前にもまして明るく楽しく元気に仕事をしているように見えた。世間を賑わす話題など次々現れるので、襲撃事件のことなどもはや誰も覚えていないのではないかと錯覚してしまう。実際、私たちのことを好きでも嫌いでもない人たちは、そんなことを気にする瞬間は生活の中で一度も訪れないだろう。

 それでも、覚えていなくても、記録はされている。

 気軽に、ちょっと気になって私たちのグループ名や誰かの名前を調べただけで、すぐにその事件についてまとめられたページが出てきてしまう。

 大抵、そういったものは閲覧数稼ぎのもので、事実と異なるでたらめや、酷い憶測や、人を傷つけるためだけに作られているのではないかと思うほどの酷いものもあった。

 そこから派生してどんどんページを開いていくと、自分のことが書かれている記事に飛ばされる。曰く、青野海は常に機嫌が悪く横暴で、スタッフのことをゴミのように扱う女帝である。セット売りをされているが、かつてセンターを奪われた赤居苺のことを裏ではひどくいじめている。などなど。

 自分のことはどんな扱い方をされていようと、もうあまり心が動かなくなった。卑しい人間の言うことだ、と切り捨ててしまう人もいるけれど、自分だってこういう仕事をしていなかったら、こういう扇情的なものを追いかけていたかもしれない。

 そうでもしなくては、今の世の中ではバランスを取れないのだ。こういうもので誰かの生活の霧が一瞬でも晴れるのなら、それはそれで私の存在価値かもしれない。

 けれど、自分以外のメンバーのものを見ると、目眩がするほど悔しいような、悲しいような気持ちになる。見なければいいものを、なぜかこういうものを定期的に調べてしまう。それで落ち込む。

 というよりもはや、落ち込みたくで自分からそうしているような気さえする。何か、罰を受けていないといけないような気がしている。

「おーい。海さーん」

「え? なに?」

 顔をあげると、花梨が苦笑いと普通の笑いを限りなくまぜたような顔でこちらを見ている。今日の仕事は大掛かりなゲームをする番組だから、セット転換の時間がわりと長い。

「こわい顔してるっすよ」

 オレンジジュースを紙コップに入れて、花梨はそれを私に差し出した。メンバーはもう私の好きなものを把握している。こういう存在が近くにいることに、狂おしいほどの安堵を覚えることがときどきある。

「いつもこの顔だよ」

「それはそうっすけど」

 花梨はこうして隣でお菓子を食べて、軽口を叩くことで私たちにガス抜きをさせてくれる。考えてやっているわけではなく、それが生来の気質なのだろう。 でも今日は何か言いたいことがあるようだった。

「なにか相談?」

「んー。相談ってほどでもないんですけど、ちょっとおしゃべり」

 そういいながら、花梨はお菓子の入っていた小さな袋をごねごねと折ったり結んだりしながらぽつぽつと話した。

「夏にライブあるじゃないですか」

「ああ、うん」

 苺が復帰して、徐々に人前に出る回数を増やしているのは、夏に大きな会場でライブをすることが決まったからだ。いろんな番組にでて、一般的な人目に触れることは多くなったけれど、やはりアイドルの本分はファンの前でライブをすることだ。

「どうにもならないので、ただの空想の話なんですけど」

「うん」

「どうしたら良かったのかなって」

 ぺりぺりと、ビニールのお菓子の袋を折る音がする。

「どうって、なにを?」

「苺ちゃんはそりゃライブやりたいと思いますよ。で、ファンの人もそれ見たいと思います」

「うん」

「でもそれって、いいことなんですかね」

 花梨がこの話を空想というのは、もはや私たちには進む以外に何をどうすることもできないからだ。本当のところ、たとえば全員でそれはやりたくないとか、まだその時じゃないとか言えば、もちろん事務所はその意を汲んでくれたはずだ。けれど、もうその決定の時はとっくにすぎている。

 苺がやりたいと言った。それに私たちは賛成した。

「たぶん、正解はない」

 私がいうと、花梨は小さく頷いた。たぶん、花梨は誰かの意見を聞きたいのだ。意見を聞いて、今後の自分の動きをどうすればいいのか考えたいのだろう。

「正解はないけど、これが普通の仕事だったら、苺はもっと休ませるべきだと思う」

 はい、と花梨はやはり頷いた。

「私もそう思います。今は声出てますけど、疲れとかストレスが溜まってきたらまた同じことになりそうだし。そうなったら苺ちゃんがもっと辛いだろうし」

「あの子はそういう先のことはあまり考えてないだろうけど」

 本当のところどうだかわからないけれど、だいたい苺は目の前のものしか見ていない。今は声が出る。だから、やれることをやる。ただそれだけ。

「うーん。考えてないだろうけど、感じてはいるんじゃないっすかね」

 花梨は綺麗に結ばれたお菓子の包みをくるくる回しながら言った。

「たぶん、苺ちゃんて、感じていることを形にして外にだすのが、こう、時間のかかるタイプなんだと思うんすよね。人とくらべてあまりにも時間がかかるから、自分でそれをするのをやめているというか。だから、あえて立ち止まって現状を理解しようとはしないというか」

「ああ」

 あえて現状を理解しようとしない、というのは、私にも言えることだ。そういう部分で私たちは似ているのかもしれない。でも、苺にはやるしかないことをちゃんとやり続け。私は、やるべきだったことをやらずにここまできている。

「苺にとってはライブをすることが生きることだから

 劣等感なんてとうの昔になくなっている。苺はセンターにいるべき存在だし、それ以外の人間が真ん中に立つなんて、私が一番許せなかった。そこでしか生きられないという事実とは別に、苺はそこで生きたいはずだ。

 それならば、私がそこを守るのが筋だろう。

「どうやったら支えることになるのかわからないけど、支えるしかないんじゃない」

「そうですよね」

 花梨は最初からわかっていたことをまた納得したようにそう呟いた。自分一人で答えが出せるだろうに、その確認を私にしてくれることが嬉しい。

「花梨、今回も衣装やるんでしょ?」

「やりますやります。めちゃくちゃ難産」

「すごい苦労してやってくれてるんだろうなって、見ててわかる。本当にありがとう。でも花梨は毎回みんなの期待以上のもの作ってくれるし、こんなすごい子が同じメンバーで誇らしいよ」

 そういうと花梨は、なぜか目をぱちくりさせて、気まずそうにした。もごもごと口をあまり動かさずにぼそぼそと呟いた。

「海さんってそういうとこありますよね」

「え、なに」

「素直鈍感ジゴロ馬鹿というか」

「は? 馬鹿? 悪口?」

「悪口ですね。心臓に悪いので」

「意味わかんない」

「はいはい。あ、もう準備終わったっぽい! はい、仕事仕事!」

 よくわからないけれど、さっきより花梨の顔つきは自然に明るくなったような気がした。こういう風にメンバー同士で真剣な話をするのは、結成したときには全然できていなかった。同じ時間を過ごしてきて、そういうことが出来るようになったのは、単純に喜ばしいことだ。

 そういえば、私はあまり苺とは仕事の話を真剣にしたことがない。だから、本当のところ苺が何を考えて、どう仕事に取り組んでいるのかはわからないのだ。

 でも、苺に本当のことを聞くのは、怖かった。

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